02 虎の運び屋
ガタガタタッガザザッ
あまりの悪路と車の乗り心地の悪さに尻が痛む。見渡す限りの荒れ野。あの鬱蒼と草木が茂る森が、まるで嘘だったかのような変わりぶりに驚く。車のわだち跡から砂煙がもうもうと舞い上がり、風に誘われ後を濁す。もう、あの森は見えなかった。
現実では起こり得ないことが、事実として平然と己の前に鎮座している。夢なら覚めろと古臭く頬をつねるが、覚める気配は全くなく、頬がじんわりと痛むだけだ。
ジェスラのどうしようもなく軽い言葉から突きつけられた異質な世界と、体が幼くなっているというふたつの現実は己の心にどんよりと暗い影を落としていた。いや、訂正だ。さっき増えた。多分、後からどんどん増える。
俺の愛すべき故郷は一体どこへ行ってしまったというのか。俺の心はもはやズタボロだった。
あのあとジェスラ・バートンと名乗った彼に連れられ車を目指した。彼と出会った場所から歩くこと五分程度だろうか、河原を見渡した時に見えた橋の手前に大げさなほどにゴツい、軍用車にでも見えそうな車に辿り付いた。
車に辿り着いてからは、転んだ時についたのか、軽く傷の手当てを行った。汚れを川で落とそうとしたが、先程の事もあるのか止められた。確かに、またあれに遭遇したらと考えるだけで恐ろしく、正直ホッとしながら車に積まれていたタンクの水で泥を落とした。
その時、右腕に違和感を覚えた。先ほどは動転していて、よく見ていなかったのもあるのかもしれない。右腕は、見覚えのない褐色の肌をしていた。日に焼けたと言うには濃すぎる肌の色。左腕の見慣れた肌色と比べても、全く別人が腕を並べているような、明らかな異質だった。
荷物が山積みにされた荷台で、救急道具を探していたジェスラが戻ってくると、咄嗟に手を隠すが、不審がられ結局はばれた。ただの日焼け後だという無理やりな理由に、呆れたような目を向けられながら、そうか。と言ったきり黙った。
その後は何処から来たのかだとか、家族は、と聞かれながらジェスラの手当てを受けたが、素直に話すことも出来ずにはぐらかしてばかりだった。体は小さな傷ばかりで特に重症化しそうな傷も無く、五分も経たずに手当ては終わった。
それからは、何か訳ありなのだと察してくれたらしいジェスラから、街へ行くから来い。という事でこうして尻にじわじわと蓄積されてゆく痛みに耐えながら、彼の運転する車の助手席に乗せてもらっている。
「ジェスラさんって何の仕事をしてるんですか?」
チラッとバックミラー越しに後ろを見る。荷台に使っているスペースには、どかどかと大量の木箱や、薄汚れた布に包まれたものが乱雑に載せてある。固定用と思われる取っ手から伸びるベルトに、申し訳程度に押さえつけられた荷物は、ガタガタと小うるさい音を立てながら、悪路に呻いていた。
「運び屋だよ。運び屋。頼まれた品ものを街から街に運んだり、探してこいとか。おつかいみたいなもんだな」
「運び屋……」
「小僧、ちゃんと口閉じねえと舌噛むぞ」
「だから、小僧はやめてくれっていっでっ!」
いつの間にか口をぽっかり開けていたのか、ジェスラから注意が飛ぶ。だが、たまにからかうように己のことを小僧だの坊主だのと呼ぶジェスラに、やめてくれと言い募ろうとするが、彼の言葉通り車の大きな跳ねに舌を噛む。
予期せぬ痛みに唸りながら口を抑えると、隣に座る彼が虎の頭にたがわぬ豪快な声で笑い始めた。なんとなく恥ずかしくなりながら、まるで何もなかったように澄ました顔で繕う。それでも横目にこちらを見ながら、先ほどより声を潜めて笑う。
その視線から逃げるように小さめの横窓から外を見る。車窓から覗く空は日が傾きはじめ、そろそろ夕暮れと呼べる時間に差し掛かっていた。周りの様子も随分変わり、渓谷のような岩肌がそりたちながら、一本道を示している。
「ジェスラさん、あとどれくらいで付くんですか? もう夕方ですよ」
「ん? ああ、もう見えるぞ。ここを越えれば」
その言葉通り、数分と立たずに視界を狭めていた岩肌は消えた。光を失ってゆく空とはうらはらに、中から不変の光を投げつける、高く広い壁がすこしだけ遠くに見えた。
「あの隔壁の中に街がある。マルディヒエロって言ってな。ここいらじゃあでかい工業街だ。バカみてえに人が溢れかえって、いろんな奴らがいるぞ。けどな、」
少しだけ楽しそうに目を細め、俺を見た。
「アユム。お前、ちょっとだけ隠れてろよ」
「え?」
助手席よりも座りごごちの悪い荷台スペースに追いやられ、助手席以上の最悪の乗り心地に今まで耐えていた気持ち悪さがこみ上げてくる。隅で大きな積み荷たちに押しつぶされそうになりながら、毛布をかぶり丸くなる。
「まだですかー……いい加減暑いんですが」
「あとちょっとだって」
「なんでこんなことしなきゃいけないんですか……苦しい」
「お前通行証ないから入れないんだよ。あの森の近くの街でなら、簡単に発行できるんだけどよ」
「ならなんで行かないんですか! 街に連れて行ってくれるって言ったのに荷物扱いだなんて!」
「いやあ。今日六時厳守の仕事があるんで、戻ってたら時間過ぎちまうと思ってなあ。まあ、荷物検査はあるが、俺は顔パスで通れるから、大丈夫大丈夫」
「全く大丈夫じゃないでしょそれ。荷物検査あるならばれますって!」
「大丈夫だ。知ってる奴にはザルだから」
「別の意味で駄目じゃないですかそれ……」
顔は見えないが声に笑いが含まれているのがわかる。あの虎顔でニヤついていると思うと髭を抜いてやりたくなるが、命の恩人にそんなことは出来ないため想像の中でとどめておいた。
ぶつくさと文句を言いながら、そろそろ黙っておけと言われ、素直に口を閉ざす。見つかって困るのはジェスラだけではないのでここは素直に従うべきだろう。
毛布越しの会話は、エンジンと混ざり聞こえづらいが、十分聞き取れる声が聞こえてくる。
「お、ジェスラ久しぶりだなあ。一ヶ月ぶりかあ」
「ようロディ、相変わらず元気そうだなあ。彼女とうまくいったか?」
「……やめてくれよ……もう忘れたいんだ」
「え、お前もう破局したのか!」
「大声出すなよ。周りに聞こえるだろう!」
「お前も人の事言えねえだろ。何があったよ」
「あいつ、元彼の肌が忘れられないとか言いやがって……「やっぱりトカゲよりもヘビよねえ」だと! 俺はイグアナだ!」
「そう怒るなって。今度酒飲みに連れてってやるからよ。元気出せって、な?」
「ああ……ありがとうよ、ジェスラ……」
「ちょっとロディさん! 後つっかえてるんだから早くして! ジェスラさんも余計な事言わないでよね!」
「あーすまんすまん。リンダちゃん。いやー相変わらず綺麗だねえ」
「はいはい。ロディさん、もうジェスラさん通しちゃって」
「荷物検査は?」
「どうせまた金持ちの道楽品とか、よくわかんないマニア向けの品ばっかでしょう? 時間ないし、やるだけ無駄よ」
「うーん、まあそうだが、警備としてどうかと」
「ジェスラさん危なっかしいものは早々運ばないじゃない。なんかあっても言ってくれるし」
「まあ、今回は何もないよ。危なっかしいものは、な」
「はーいじゃあ、マルディヒエロへようこそー」
「ええー」
……ロディ。頑張れよ
暑い毛布の中でむしむしと蒸されながら、門番たちとのやりとりに耳を傾ける。トカゲとか蛇はなんだろう。好きなペットの派閥か。そりゃあトカゲとイグアナじゃあ大分違うよなあ。どこがは知らないが。というか本当にザルだな……。リンダちゃんそれでいいのか。
走り出した車に、無事に通り過ぎることが出来たとホッとする。ホッとするけれども、この街の警備に一抹の不安を覚えた。
喧騒の中を十分ほど走り続けた車は、しばらくするとエンジンの音に混ざったガヤつきは遠ざかり、静かな通りに入っていったのだとわかる。
がこんっと段差を越えたような揺れの後、ようやく車が止まった。
サイドブレーキを引く音に続いて、扉を開ける音がする。もう出ても大丈夫だと思うが、ジェスラの声を待つべきかとそのまま待機する。
しばらくして、外で知らない声が聞こえたかと思うと、ばかんと後ろの扉が空いたようだ。
「あ、すまん忘れてた」
最悪だ。
のそのそと白けた顔をしながら毛布を脱ぐ。久々のシャバの空気はうまい。
きょろきょろと辺りを見回すと屋内に入ったらしく、天井に裸の蛍光灯がついており、油のような独特の匂いがした。そこらの棚や隅の床には、レンチやボルト抜きの工具であったり、研磨機材や大型のライトなど他にもいろいろ置いてある。あまり詳しくはないが、大型の車が入るガレージ、というよりも何処かの整備屋のように感じた。
こちらの反応など全く無視で、固定を外し荷物を漁っている虎頭は、二つほど箱を小脇に抱えると、外にいた人にひとつだけ手渡した。獣頭の彼とは違う、白いツナギ姿の、正真正銘の人間の姿に安堵する。
「ほれ! ご所望の品だ。家賃変わりに受け取れ」
「いやいやいやいや! ジェスラよお、その子供どうしたんだ! お前まさか、遂に人攫いに手ェ出しやがったのか!!」
「なりゆきで拾った」
「そんな淡々と言う事じゃねえだろうが!」
「まあ、とりあえずそいつを風呂に突っ込んでくれ。嬢ちゃんの誕生日だとかいうお偉いさんがプレゼントを首をながーくして待ってんだよ」
そう言い終わると、頼んだぞ、とさっさと外へ行ってしまった。目の前の白いツナギの男性は呆然としながら、ジェスラの出ていった扉をみつめていた。
「あの、大丈夫ですか?」
「へ?あーああ、いや済まないねえ。みっともないとこ見せちゃって! あいつの自分勝手さはいつまで経ってもなれないよ」
んははは、と力なさげに笑いながら同時に、はーあとため息をつきながら脱力する白ツナギの男の苦労を想像した。
出会った時は頼り甲斐のある虎頭だと思ったが、車の中でのことや、先ほどの忘れていたという言葉を考えると、大分やんちゃが過ぎる虎なのかもしれない。
「まあ、それは置いといて。君、名前は?」
「東郷、歩です。アユムが名前」
「トウゴウ・アユム? 聞かない名だねー。俺はガンリ・アセンシオって言うんだ。よろしくな! にしても君随分と汚れてんねー! いやいや結構結構、子供は元気が一番!」
何を勘違いしているのかは知らないが、ニコニコと笑うガンリと名乗った白ツナギの男に髪をぐしゃぐしゃにされる。頭がぐらぐら動くほどの荒い撫で回されかたで、どうか早く終わってくれと願った。
その後、撫でまわしから解放され無事に風呂場へと連れて行かれ、シャワーを浴びながら汚れと疲れを流す。体は若返ったが、精神は10歳以上老け込んだように感じた。
とんでもない一日だった。細かい傷の痛みを耐えながらも頭と体を洗い、あらかた汚れを落とし終えたところで、シャワーを止めて備え付けの鏡を見る。
19歳の自分の面影を感じる幼い顔。似ているように感じるが、自分の12、3歳の頃の容姿なんて対して覚えていない。子供特有の可愛さは消え始め、第二次性徴期に入り、一気に大人へと変わり始める時期だ。途中の進化過程なんて、逐一覚えられるわけがない。
後頭部に手を持って行くと、12歳より前から存在する傷が、そこには残っていた。もしかしたら、とちょっとばかり膨らんだ希望はすぐに消えた。
縁石に頭をぶつけ、痙攣し泡を吹きながら病院に搬送、十数針縫う結果になったその怪我は、髪の毛は生えてきますよ、大丈夫です。という医者の言葉とは裏腹に、風が吹きすさぶ不毛の頭皮となってしまった。
そして、多少髪が長ければ見えない頭皮に襲いかかる中学校の運動部という地獄。一年生は坊主にしなければならないという暗黙のルールにより、同級生や先輩だけでなく、初恋の女の子にまでハゲと笑われ、頭皮よりも深い大怪我を、心に負ってしまった。
いけない。心を惑わされるな。体が縮んだからと言って、傷が消えるわけじゃないんだ。それはわかる。だが、あの時の傷はあまりにも深く心に焼きつき、思い出すたびに精神をえぐってくる。だから俺は決意する。この傷をなんとしてでも隠し通すと!
決意を秘め、右手を握り締める。そういえば右腕もおかしなことになっていたな……。
自分のものだとほぼ確信した体に、全くの異物が二の腕から抜い後を残したままぴったりとくっついている。動かしても違和感はなく、自前の腕と大差ない。傷だらけでもわかるすらっとした綺麗な手をしていた。
はクシュン!
風呂場に響くくしゃみはシャワーを浴びた後、素っ裸で哀愁を漂わせながら鏡の前に突っ立っているということをしたせいで湯冷めをしてしまったようだった。
体を拭き、いつの間にか脱衣所に置かれていた、この体には大きめの服を着込む。新品と思われるトランクスはなんとか履くことはできるが、またぐらがスースーとし落ち着かない。
脱衣所を出て、風呂場に来るまでの道を通り、光が漏れ、話し声が聞こえてくる場所に行く。流石に今まで履いていた靴を履くわけにもいかず、衣類とともに置かれていたスリッパを履き、スカスカと安っぽいビニールのすれる音を鳴らしながら歩く。
リビングと思われる場所にはガンリと、すでに帰ってきていたらしいジェスラが話し合っていた。
「いい誂えだよねえこれ。もー惚れ惚れしちゃうよ。やっぱりカーブロレに頼んだだけあって、一級品だねえ」
「もう一度頼むとか言うなよ。あの偏屈ジジイが駄々こねるせいで、お得意様との契約切れかけるとこだったんだからよ。もう二度と行かん」
ソファに座るガンリはうっとりと手に持つ懐中時計のようなものを眺めながら、デザインがどうこうを熱く語り始めた。
ジェスラは虎の顔を歪めながら、適当に相打ちをうっている。廊下から顔を覗かせるこちらに気がついたようで、歪んでいた虎顔をこころなしか輝かせこちらに近づいてきてた。頭にかけたタオルの上からぐしゃぐしゃと髪をかき乱されるがゴリゴリと何かが当たってやけに痛い。
「遅かったな! 随分長風呂だった」
「汚れ、なかなか落ちなくて」
適当なことを言いながら、右手でジェスラの腕をのけ、リビングに足を踏み入れる。ガンリもこちらに気がついたらしく、にこにこと上機嫌に話しかけてきた。
「いやあ、小さめのひっつかんできたけれど、やっぱり服でかかったね。お、下着は安心してくれ! 未使用だ!」
「着れりゃあなんでもいいだろ。アユム、右腕出せ」
「お前と他人を一緒にすんなっつうの!」
ジェスラに噛みつくガンリの言葉に、心の内で同意しながら、少し躊躇したが黙って右腕を差し出す。
「ほー、その腕がさっき言ってた。長袖着てたから気がつかなかったけれど、確かに色が違うなあ。それに大きさもちょっと右手の方がでかい」
「ああ、妙に気になってな。腕、まくってもいいか」
「あ、はい」
俺が風呂に入っていた間にでも、俺のことを話して居たのか。
ダボダボとしたTシャツの袖をめくり上げると、風呂場でも確認した縫い跡が現れ、ガンリが思案顔でううんと唸り声をあげた。
「縫合跡があるのか。なんともまあ、綺麗にくっついてんねえ。怪我したというより、スパッと切って入れ替えただけ、みたいな」
「この傷に覚えは?」
覚えは全くない。そもそも、この世界にいる理由すらわからない。だんまりとしながら、首を横に振る。だが、腕が全く別のものになっているというのなら、ジェスラもではないか? 彼の左腕の肘から伸びる手は人間と全く同じ滑らかな肌の腕だ。虎の毛に覆われている右腕とは全く違う。親指と薬指、小指に指輪をしている大きな手。
「ジェスラさんの腕だって左腕と右腕違うじゃないですか。それもこんな感じに、くっつけたとかじゃあないんですか?」
「なーに言ってんだこの子」
ガンリはわけがわからないとでも言うように、しかめっ面でジェスラに答えを求める。
「こいつ、俺と出会った時、ファーリィにあったことが無いって言うんだ。そんなのあり得ないだろう」
「あったことがないぃ?なんじゃあそら。冗談にすらなんねえぞ」
「違うんですか?」
「ああ、違う。俺たちには、ヒューマとファーリィの特徴が混ざっていることなんて、当たり前だ」
またわからない単語が出てきた。ファーリィは、"獣人"だという意味だとは最初出会ったときに聞いた。おそらく響きから"人間"という意味なのだろう。
「この子本当にわからないのか?なんともそりゃあけったいな」
「しかも、ここに来るまで隠れて来たからな。俺たち以外の人間にあったことがない」
「はー、そりゃまあ。実際に目にしたのがお前だけじゃあな」
そう言うとガンリは履いていた左脚のブーツの紐をいそいそと緩め始め、白熱灯の橙がかった光の元に、その脚を晒した。
人の脚と見紛うことは決してないであろう、鮮やかな羽毛とうろこに包まれた足が、そこにはあった。
車はハンヴィーM998のようなものをご想像下さい。