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肆国演義-冒険伝奇-   作者: 山道 歩
第弐章『天鏡之空』
9/14

 乾いた大地に砂塵が舞う。砂塵以外に見えるものといえばまばらに生えている低い樹木と小高く盛られた土の山のみ。それ以外は何もない。

 遠くには確か山岳が見えていたはずだが、それも今ではどこにあるのかさえ分からない。


「天翔はまだ来ぬか!」


 鳳凰帝国の第一姫、黎華をさらわれてから既に丸一日が経過している。

 芭聆ばりょうは既にぼろぼろになった扇子を苛々と握りしめ、その場を何度も往復していた。

 亮馬りょうまは大地に寝転び草を噛み、その隣には蓮紅れんこうが、落ち着きなく陽の沈みかけた渋色の空を眺めている。

 兵たちは時々芭聆ばりょうの様子を横目にうかがいながら、馬の手入れや剣の手入れをしていた。皆一様に黙々と仕事をこなしているが、空を見ない者はいなかった。


「まぁ、落ち着いて待とうじゃないか、どんなに焦ったって向こうが速くなってくれるわけじゃなし」


 亮馬りょうまがぺっと草を吐き飛ばす。芭聆ばりょうは目を吊り上げて亮馬りょうまの頭側に立つ。


「お前という奴は……」


 殺気に爛々らんらんと瞳を輝かせて芭聆ばりょう


「ん? 何か気に障ったか」


 片眉を上げて亮馬りょうま


 芭聆ばりょうはそんな彼を憎々しげに一瞥いちべつしただけでその場をあとにした。


亮馬りょうま。そんな人の神経を逆なでするようなことを……」


 おろおろと状況を見守っていた蓮紅れんこう亮馬りょうまの耳に顔を近づけ囁いた。


「俺は本当のことを言っただけだぜ」


 さらりと言って亮馬りょうまは上半身を起こす。蓮紅れんこうは肩をすくめ「もう勝手にしなさい」と言い、彼から離れた場所に座った。

 亮馬りょうまがわざとそう言っているのは蓮紅れんこうが一番よく分かっていた。

 亮馬りょうまは公家の者(それこそ、兵卒から帝国の王に至るまですべての朝廷の役人、皇族すべてに対して)をひどく嫌っている。否、嫌悪しているといっていい、その彼が仕事の仲間とはいえ、泰斗たいとのためにここまでしてくれたことに蓮紅れんこうは感謝していた。


 風が音を立てて通りすぎていく。

 蓮紅れんこうは遠くを見る。少し離れた場所、低い木々の間に白い蟻塚があった。主を失った塚は、雨と風に削られ、今はただの土山と化している。


「どんなに一生懸命作ったものだって、時間が経てばいつかはああなる」


 蓮紅れんこうが振り返ると、亮馬りょうまが立ち上がって近づいてくるところだった。


「だがどんなに時間が経っても変わらないものがある……なんだと思う?」


 突然亮馬りょうまに聞かれ、蓮紅れんこうは戸惑う。何と答えていいのかが分からなかった。


治乱興亡ちらんこうぼう……歴史は繰りかえされるってことさ」


 亮馬りょうまの言葉に蓮紅れんこうはしばしぽかんと口を開けてしまった。


「それってどういう意味なのよ」


「それはだな……」


 亮馬りょうまが口を開いた時、兵たちがざわめき出した。

 二人は顔を上げ、兵たちが指さす方向を見る。ら


「来たか」


 芭聆ばりょうも思わず遠くを仰ぎ見る。

 空に一点があった。それは時間を追うごとに大きくなり、ついには芭聆ばりょうたちの頭上に達する。


「すごい」


 迫る物を見上げ蓮紅れんこうは感歎の声を上げた。


 これほどまでに巨大なものが宙に浮いているというのか。鳳凰ほうおう帝国最大の飛空艇「天翔」それは今、芭聆ばりょうたちの頭上にゆっくりと停留する。


「へえ、すごいじゃないか」


 亮馬りょうまも感心したように腕を組んだまま頭上を見上げている。兵たちの歓声が大地にこだました。


「全長一八〇歩の船だ。その気になれば世界の最果てにも行くことができる」


 芭聆ばりょうは自慢げに言った。


「世界の最果てねぇ」


 亮馬りょうまが横目で蓮紅れんこうを盗み見る。蓮紅れんこうはそれに気づかない様子で飛空艇に見入っていた。


「よし、乗船準備だ」


 芭聆ばりょうの命令に兵たちは歓呼の声を上げた。


 それから、出発までに三刻の時間を要した。陽は沈み周りを闇が覆う。


 しかし、何百と灯された篝火かがりびが周囲を照らし、出発には支障ない。


 天翔は既に上昇を開始していた。地上には三百名程の兵が、こちらを見上げているのが見える。

 蓮紅れんこうはそれらを不思議な思いで手すりに寄りかかりながら見下ろしていた。

 乗船できる人数は限られている。芭聆ばりょうは地上にかなりの数の兵を残し、少数の兵を乗船させた。その中に亮馬りょうま蓮紅れんこうの二人が含まれていることに蓮紅れんこう自身が驚いている。


 兵の何名かからは反対の声が上がったが、芭聆ばりょうが口を挟む前に亮馬りょうまはその兵と戦うことによって自分の力を証明して見せた。

 その亮馬りょうま芭聆ばりょうたちは今、蓮紅れんこうの背後の部屋でこれから先のことについて話あっていた。


焔蛇えんじゃたちは今、黎華らいか姫を人質に取り、逃走を開始している。方角は東、そして、我々は天翔と合流するため、南西へと向かってきた」 


 居並ぶ武将たちを前に、芭聆ばりょうは悠揚とした態度で大卓上に広げられた地図を指し示した。


 地図は楕円形の世界が示されていた。

 それが芭聆ばりょうたちの知る世界のすべて。


 地図上の中央にある黒点は光竜柱を示している。光竜柱は巨大な山脈泰山たいざんの頂にあった。泰山は世界の中心最も尊き山。柱の周りには円が、そこは神仙域とされる領域だ。ここは昼間、絶えず激しい上昇気流の「昇竜風」が吹き昇り、夜になると激しい下降気流「降竜風」が吹き降りる。よって、人はおろか獣もめない領域だった。


 その地におもむき、その様子を見聞した者は未だかつて皆無。その理由は至極簡単。誰も近づけないからだ。


 泰山は、獣もまず、草木も生えぬ不毛の山だ。光竜柱の光は世界の全てを照らす、泰山のその光と熱は周囲四国の比ではない。泰山の周囲には海があるが、これは昼間は絶えず沸騰しいかなる生き物も棲むことができない。仮に、泰山に赴こうという愚か者がいたとしても昼間の灼熱によって船どころか骨まで焼き尽くされてしまう。しかも、昇竜風によって風は常に光竜柱に向かっている為、出向したが最後二度と戻ることは叶わないのだ。夜は逆に降竜風によって泰山に近づくこと叶わず。故に、風と熱によって何人たりとも泰山に行くことはできない。


 泰山の取り巻くように輪になった大陸。そこには四国があり、それぞれに麒麟国、鳳凰帝国、霊亀れいき王国、応竜王朝があった。輪になった大陸の外は海、それが世界のすべて。


 北に霊亀王国、東に鳳凰帝国、西の麒麟国、そし南に応竜王朝。四国はかつて大戦を行っていたというが、今では和平に応じ物流、情報の交流を行っている。


 世界の最果ての近くには幅のある輪があり、それがぐるりと世界を取り巻いている。それが神審輪と呼ばれる巨大な雲の輪。それが消えるのは昼から夜へと陽が沈む時と、夜から昼へと陽が昇る時のみ。


「これから我々は東へと向かう」


 武将たちは芭聆ばりょうの言葉に頷き、地図を睨つける。その傍ら、時々疑わしげな視線を亮馬りょうまの方へと向けていた。

 亮馬りょうまはそれを分かっているはずなのに、全く頓着せずに芭聆ばりょうの背後で欠伸をかみ殺している。


(まったく……たいしたものだ)


 指揮を執る傍ら、芭聆ばりょう亮馬りょうまを盗み見ていた。

 これだけの武将を前にして、全く緊張のかけらも見せないなど普通の者ができることではない。ましてや欠伸をするなど論外。即刻下船を命じられても文句は言えない。


「まずは夜。下常風を利用して東へと向かう」


 下常風は地上付近の風のこと。

 昼の間、光竜柱が輝くことによって、上空には光竜柱を中心にして外向きの風が、逆にに地上付近では光竜柱へと向かう風が生じる。


 夜になるとこれは逆転し、地上付近は光竜柱を中心にして外向きの風が、上空は光竜柱へと向かう風が生じるのだ。

 故に、夜間の飛行は地上付近を飛び、下常風を利用する。


芭聆ばりょう様。賊の正確な位置がまだ掴めてはおりませんが」


 武将の一人、白髪の男が鎧を軋ませ立ち上がった。


「案ずるな。どうせ賊の目的は分かっている」


 芭聆ばりょうの言葉に、武将たちはざわめく。

 それらを手で制し、芭聆ばりょうは口を開いた。


「奴らの目的は……」






寅神門おうしんもんだ……俺たちはそこに向かっている」


 砌剛せいごう黎華らいか泰斗たいとを目の前に座らせ卓上に置かれた地図を指さす。


 寅神門は東の最果てにある門。そこは世界のふち。北に亥神門がいしんもん、東に寅神門、西の申神門、そして南の巳神門ししんもん。それぞれの門を四国が守護していた。


 泰斗たいとたちは焔蛇えんじゃの飛空艇に乗せられていた。


 戦車酔いしていた泰斗たいともようやく元気を取り戻している。元気は取り戻したが、盗賊たちの前では雨に濡れた猫のように小さくなっていた。


 飛空艇に乗せられてすぐ、黎華らいか泰斗たいとの二人は狭いがそれなりに小奇麗な部屋に押し込められた。部屋は普段は倉庫にでもなっているのか、たくさんの布や縄などがあったが、武器になるようなものは見当たらなかった。

 そして粗末ながら空腹をしのげるだけの食事と、一枚の毛布だけを与えられての夜。泰斗たいとは熟睡できたが、黎華らいかは怒りのあまり一睡もできなかったらしく。泰斗たいとが起きた時は既に彼女の機嫌は最悪だった。

 そんな黎華らいかの前に砌剛せいごうが現れた。頂竜の刻近くになってからのことだ。


 その砌剛せいごうは今、卓上に地図を広げてその上に載せられた白石の駒を動かす。それが今泰斗たいとたちの乗っている飛空艇を表していた。

 地図は質素だったが正確な距離が示されている。黎華らいかはそこに、普通の地図にはない。国家の機密施設の場所まで描かれた部分を見つけ、驚きの息を吐いた。

 砌剛せいごうはこれをいったいどうやって手に入れたのか。黎華らいかは聞いてみたい気もしたが、どうせ答えてはくれないだろうと諦める。


「寅神門?」


 泰斗たいとが首を傾げて隣に座る黎華らいかを見た。

 黎華らいか砌剛せいごう泰斗たいとから視線をそらしたまま。微動だにせず色の抜けた壁を見つめている。何気なさを装ってはいるが、泰斗たいとには彼女の怒りの波動がひしひしと伝わってきた。

 砌剛せいごうも怖いが黎華らいかはもっと怖かった。何しろ泰斗たいとには逃げ場がないのだ。


「東の果て、世界の最果てにある門だ」


「世界の最果て!」


 泰斗たいとが瞳を輝かせる。恐怖がいっぺんに吹き飛び食い入るように地図を睨らむ。


「ほう、目つきが変わったな」


 砌剛せいごうの言葉すら耳に入らない様子で、泰斗たいとは寅神門と書かれた一点を見つめた。


「お前、何を考えている」


 突然の声に、泰斗たいとは顔を上げる。見ると黎華らいかが正面から砌剛せいごうを見据えていた。砌剛せいごうは動じた様子もなく、真っ向からそれを見返す。


 しばしの睨み合いが続き、泰斗たいとはまんじりともできず二人の攻防を見つめていた。


「お頭」


 永劫えいごうに続くかと思われた沈黙は唐突にして破られた。


「ん?」


 砌剛せいごうは今まで睨み合っていたとは到底思えない軽い返事で席を立つ。

 呼びに来た男が砌剛せいごうに耳打ちし、砌剛せいごうは一つ頷くと「こいつらを見張っていろ」と言い残して、部屋を出ていく。

 命令されたのはひょろりとした男で、顎髭が胸近くまで伸びていた。うんと突き出た唇がやけに印象的だった。男は砌剛せいごうが去ってから、先まで彼が座っていた椅子に腰を下ろして二人を見張った。泰斗たいとは何となく目を合わすことができなくて、自分の膝へと視線を落とす。

 その泰斗たいとの視線の端で何かが動いた。見ると、黎華らいかが手先で何かを結っているではないか。

 泰斗たいとは思わず声を上げそうになって、慌ててそれを飲み込んだ。


「へぇ、やっぱり姫様ってのは別嬪べっぴんなものなんだな」


 しげしげと黎華らいかの顔を眺めて男は言う。


「お前は女を見たことがないのか?」


 小馬鹿にしたように黎華らいかはふんと口の端で笑う。


「あるぜ……もっとも、俺は女の泣き顔しか見たことがないがな」


 卑下た笑みを浮かべ男は言った。


「盗賊相手に喜ぶ女がいるものか」


 黎華らいかの言葉に男は気色ばむ。それを見て黎華らいかはにやりと笑った。明らかに彼女は男を挑発している。この帝国第一姫が何を考えているかはわからないが、状況が好転しないことだけは明らかだった。

 泰斗たいとははらはらとしながら二人を見比べる。部屋の気温が二度も三度も下がったように感じた。


「てめぇ、姫様だからっていい気になるなよ」


「聞き飽きた台詞だな。もう少し気の利いた罵詈ばりはないのか?」


 片眉を上げて黎華らいかは男を見返す。


「この……!」


 男が黎華らいかに掴みかかる。泰斗たいとは思わず目を閉じた。


「ぎゃっ!」


 悲鳴が上がった。恐る恐る目を開けると、そこには腕を押さえてのたうつ男の姿があった。

 事態が飲み込めないまま、泰斗たいとはきょとんとしたまま、男を黎華らいかを見る。


「何をしている早くこの男を縛らないか」


 黎華らいかはさらりと言い、男の腰帯を解く、それを泰斗たいとに放ってよこした。

 男はもがいたが、黎華らいかは男の腕を押さえ、口に近くにあった手布を押し込む。男はもがいたが、黎華らいかは男の指に紐をかけあらぬ方向へと無理やり引き上げる。男は激痛に耐えかね手布越しにうめき声を上げた。


「動くな、もう一本指をへし折るぞ!」


 黎華らいかの剣幕に押され男はおとなしくなる。泰斗たいとは足を、黎華らいかは腕を縛り上げた。


「行くぞ」


 鎖を引きずりながら二人は戸へと向かう。


 鎖と床板がこすれ耳障りな音が立ったが、鎖に布を巻くことで何とか音を消すことができた。

 黎華らいかが戸に耳を当て外の気配を探る。泰斗たいとはそんな黎華らいかを尊敬の眼差しで見ていた。


「何でそんなことできるの?」


黎華らいかは戸に耳を当てたまま苛々と泰斗たいとを睨つける。


「自衛の訓練は受けていた。小さい頃からよく王宮を抜け出して外に遊びに行っていたからな……そんなことより男に気をつけろ。縛られているからといって油断するな」


 黎華らいかにぴしゃりと言われ、泰斗たいとは後ろを振り返る。男はじっとしたまま動かない。男から視線をはずして泰斗たいとは戸にへばりつく黎華らいかを見た。


「よし」


 黎華らいかは一つ頷いて戸をゆっくりと開ける。


「二人が逃げるぞ!」


 口に詰められた布を吐き出して男が叫んだ。黎華らいか泰斗たいとの腕を引く。

 外は飛ばされてしまいそうに強い風が吹き荒れている。

 勢いよく戸を閉めた時、既に声を聞きつけた男たちが甲板に集まっていた。

 甲板といってもそれほど広くはない。大人が四人も立てばいっぱいの広さだ。

 その甲板にたどり着く前に黎華らいか泰斗たいとは盗賊たちに囲まれてしまっていた。

 船自体がそれほど広くないということもあり逃げ場はない。

 黎華らいかたちは手すりの方へと追い込まれる。背後は空、眼下には雲海が広がっていた。


「手荒なことはしたくない。諦めな」


 男たちが退き、砌剛せいごうが姿を現す。静かな口調だが、びりびりとした怒りが伝わってくる。


 黎華らいかが一歩退いた。泰斗たいとは動くことができずただその場に立ちつくす。

 足の震えが止まらなかった。

 林丸や亮馬りょうまがその場にいたなら笑い飛ばされるであろうが、震えだけはどうすることもできなかった。

 自分がこれほど憶病だったとは。

 泰斗たいと黎華らいかを見る。そして黎華らいかの肩がわずかに震えていることに気づいた。黎華らいかも同じように怖いのだ。

 泰斗たいとはそのことに安心すると同時、彼女を守りきれていない自分自身に憤りを感じた。


(いい、女の子は男が守るものなのよ)


 蓮紅れんこうの言葉が脳裏に甦る。


「ここは空の上だ。お前たちに逃げ場はない」


 砌剛せいごうがずいと前に出、腕を伸ばす。泰斗たいと黎華らいかを押しのけ前に出た。


「お前……」


 砌剛せいごうはぎろりと泰斗たいとをねめつける。


 剣呑とした雰囲気に周りの部下たちも表情を変えた。

 泰斗たいとも負けじと砌剛せいごうを睨み返した。体中が震えた、腰が萎えてしまいそうだったが、蓮紅れんこうの言葉が泰斗たいとを支えていた。


「俺は言ったはずだ」


 砌剛せいごうの瞳が刃物の鋭さを帯びる。恐怖が背筋を走ったが、泰斗たいとは動かなかった。砌剛せいごうが腰に提げていた鉄鎌を握りしめた。


「例外は認めない。餓鬼がきを殺す道理はないが覚悟してもらおう」


 黎華らいか泰斗たいとの肩をつかむ。泰斗たいとは動かず覚悟を決めた。その時、不思議と心中に迷いはなかった。砌剛せいごうが鎌を振り上げても泰斗たいと砌剛せいごうから目線を外さない。


「やめろ!」


 泰斗たいとを庇うように黎華らいかが前に出ようとする。だが泰斗たいとは彼女の体を手で制した。

 じゃらりと足もとで鎖が鳴る。


餓鬼がきのくせに度胸があるな。お前名前は?」


欽泰斗きんたいと


 泰斗たいとの言葉に砌剛せいごうは一瞬動きを止める。


 本来、国民に姓はない。姓があるのは皇族か、それに順ずる者の証。今まで秘匿ひとくにしていた泰斗たいとの本当の名前。


 黎華らいかも驚いたように泰斗たいとの顔を見つめる。


 どうせ死ぬのなら、と姓を名乗った。もう二度と名乗ることはないだろう。


 そんな覚悟で発した言葉が、思いもかけず効を為す。


きん?」


 砌剛せいごうは鎌を振り上げたまま考え込む。


「欽……欽杷苙きんはりゅう!」


 兎狸とりがすっとんきょうな声を上げた。兎狸とりの言葉を聞いた泰斗たいとの表情も驚きの表情に一変する。それは忘れることのない名、泰斗たいとの父の名だった。


「父さんを知っているの?」


 今度は泰斗たいとが驚く番だった。


「何だ、お前杷苙はりゅうの子供か!」


 砌剛せいごうは大きく目を見開いて泰斗たいとを見る。泰斗たいとは大きく頷いた。

 砌剛せいごう兎狸とりは一瞬目を合わす。


「それを……先に言ってくれよなぁ」


 きまり悪そうに吐き捨てて、砌剛せいごうは鉄鎌を下ろした。

 黎華らいか泰斗たいとは状況が飲み込めないまま、砌剛せいごう兎狸とりを見比べる。


「お頭」


 兎狸とりに言われ砌剛せいごうはこくりと頷いた。

 鎌を戻し深く息を吐く。


「おい、みんな」


 低いがよく通る声が、吹きつける風の音さえ打ち消して部下たちの耳に届く。


「こいつは杷苙はりゅうの子供だ」


 一部始終を見守っていた男たちが一様に頷いた。


「本来なら俺がこんなことをするのは、不敬極まりないことだ……だからここで俺は鎌を収める。それがあいつに対する礼儀だからな」


 男たちは何も言わない。ただ、少しだけ安堵したような表情で泰斗たいと砌剛せいごうとを見比べてから、各々が自分たちの仕事場へと戻っていった。


「今回だけは見逃してやる。だが今回だけだ。二度とこんなことはするな、次に同じようなことがあれば、たとえ杷苙の子であろうと容赦はしない」


 泰斗たいと黎華らいかは青ざめた表情でこくりと頷く。


 立ち去っていく男たち。

 黎華らいかに襲われた男が恨めしげな目で二人を睨つけていたがすぐに男もどこかへと行ってしまった。


「さぁ、部屋に戻ってくれ。お前たちは捕虜なんだからな」


 兎狸とりが二人の背を押す。押されるままに二人は部屋へと戻った。


「必要なものがあったら言ってくれ」


 そう言って兎狸とりは戸を閉める。見張りの者が戸の外に立っていたが、先のように部屋の中まで入ってくることはなかった。

 戸が閉まってから、泰斗たいとは長椅子の上に横になる。黎華らいかは椅子に腰かける。二人をつないだ鎖がたわんで宙に浮く。

 風に揺られ部屋がわずかに傾いた。

 横になってから、泰斗たいとは大きく息を吐いた。今までたまっていた緊張を一気に吐き出すように深く吐いた。


「先は……すまなかったな。おかげで助かった」


 泰斗たいとが顔を上げると、外へと顔を向けたままの黎華らいかが、目だけを泰斗たいとへと向けている。


「女を守るのは男の役目だって……蓮姉が言ってたから」


 いささか歯切れ悪く泰斗たいと


「そうか」


 風の唸りだけが部屋に響いた。時折男たちの声が戸の方から響いてくる。


「ねぇ、さっき縄で何をしたの?」


 「ん?」と片眉を上げて黎華らいかは起き上がる泰斗たいとを見る。


「おいらにも教えてくれよ」


 黎華らいか泰斗たいとの目を見る。泰斗たいとの目は真剣そのものだった。


「よし、教えよう」


 黎華らいかは立ち上がって泰斗たいとの隣に腰かけた。ふわりとした香が泰斗たいとの鼻腔を刺激する。

 姉以外の女子に隣に座られ泰斗たいとは赤面したままうつむく。


「どうした。具合でも悪いのか」


 泰斗たいとは下を向いたまま首を振った。


「まあいい、しっかりと見ておくんだな。これは王宮に伝わる護身術の一つだ」


 そう言って、黎華らいかは袖に隠していた紐を取り出す。

 泰斗たいとは赤面したまま顔を上げ、黎華らいかの手を見た。細く淡雪のような手が巧みに動いて小さな輪を作る。


「いいか、男は強い。相手が大人であれば力の差は必至、だが力の強い男にも意外と見落としがちな弱点がある」


 泰斗たいとは思い出したようにはっとなり黎華らいかの顔を見る。


「手?」


「そうだ。それに目、金的」


 黎華らいかの碧い瞳が強さを増す。


「勝負は一瞬。相手の隙を突いて指を折る」


 すいと黎華らいかの手が動いた。その一瞬で泰斗たいとの指に紐の輪がはまる。そのまま押し込めば指は反り、そのまま力を込められれば折れてしまいそうだった。


「いいか、大事なのは時機を見逃さないこと」


 顔を近づけ黎華らいかは言う。泰斗たいとは高鳴る心臓の鼓動を押さえながら何度も頷いた。


「……ところで、金的ってどこ?」


 泰斗たいとに見つめられ、黎華らいかは一瞬目線をそらして黙り込む。

 暗がりでよくはわからなかったが、頬がほのかに赤かった。


「……いつか教えてやろう」

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