壱
がらがらと車輪が道路の敷石を掘削する音が尻から伝わってくる。時々大きな振動があり、そのたびに木々の爆ぜる音と、人々の悲鳴が響いた。
何が起こっているのかわざわざ外へと顔を出さなくても分かっていた。つい今しがたまで自分たちはこの戦車に追われていたのだ。 黎華は捕らわれてから終始無言だった。
黎華は泰斗に対して顔を背けているので、彼女がいったいどんな表情をしているのかは分からない。
騒音に満たされているはずの戦車の中だったが、自然と人の気配が近づいてくるのが分かった。二人がいる場所は扉も何もない。ただの物置になっている部分だ。
その入口からひょっこりと顔を出したのは強毛の男。
男は口をきつく閉じむっすりと座り込む二人を見、にかりと笑う。砌剛だ。
黎華は鋭くねめつけたが、砌剛はまったくひるまなかった。
「すまねぇな、お姫様よ」
戦車の轟音にも負けない大声で砌剛が言う。怒鳴ってもいないのにこの男の声はよく耳に届いた。
黎華はむっすりと押し黙ったまま、拳ほどしかない薄汚れた窓から外を眺めている。
「おいらたちをいったいどうするつもりだ」
黎華も泰斗共に腕を縛られているために身動きがほとんど取れない。
黎華を庇うように泰斗が体をずらして前に出た。
「どうするも何も、べつにとって食おうってわけじゃないが……」
無精髭の残る顎をなでながら、砌剛はしばしあさっての方を見る。
日に焼けた顔は薄暗い戦車の中ではほとんど真っ黒だった。その中に光る白い目だけが、異様な鋭さをもって泰斗と黎華の二人を射た。 一瞬身を強張らせ、泰斗は砌剛から目をそらす。
「俺が怖いか、坊主」
「こ、怖くなんかないよ」
声の震えを押さえようと努力したが、それは全く無意味だった。拘束されてからずっと、体の震えが止まらない。
「言い返せるだけの度胸があればたいしたもんだ」
心底そう思っているのか、砌剛は一度大きく笑ってから二人の縄を確かめもせずにその場をあとにした。
砌剛が去ったのを確認してから泰斗は振り返って黎華を見る。鳳凰帝国の姫君は、窓から外を見たまま身動き一つしていなかった。
戦車の最前部に兎狸はいた。
彼は双眼鏡を覗き込み指示を出す。その指示に従って、彼の前下方にいる二人の部下が戦車を操舵するのだ。
戦車の動力は高価な黒煙油。安価な石炭よりも馬力があり、また量も少な目で済んだ。何より石炭のようにいちいち誰かが補充するという手間がかからない。それが大きな利点だった。
戦車を用意したのは砌剛だった。彼はどこかしらから軍の使い古した戦車を持ち込み、それを部下を使って改造したのだ。
外装には鉄板を使い、棒火矢程度の攻撃ならば耐えられる。正面には厚手の鉄棒を仕込み、石塀を体当たりで打ち壊せるようにしてある。
そして、何よりも兎狸が気に入っているのは大砲だ。これは炸裂薬を用いて鉄の玉を打ち出すというきわめて簡単なものだった。しかも命中率が悪く、今まで一度も標的に命中したことがない。しかし、その音と見る者を圧するの威圧感は、そこにあるというだけで持つ者には絶大な自信を、見る者には恐怖を与えていた。
そして、本来ならば鉄球だった弾を、炸裂薬の詰まった弾に変えて打ち出すという案を砌剛が出し、今回それが見事に功を成した。
「お頭、どうでした?」
双眼鏡から目を離さずに兎狸、彼は気配で人を区別できるらしかった。
「坊主はともかく、姫様はだんまりだ」
砌剛、どかりと兎狸の後ろに腰を下ろす。兎狸は口だけで笑った。
「そうでしょうね。撃て!」
鈍とした振動が砌剛の体を揺らす。太蘭の街の外壁を破壊するために炸裂弾が撃ち出されたのだ。わずかの時間をおいて爆薬の炸裂音と、外壁の崩れる音が響いた。
「そのまま前進、外壁に少し乗り上げるかもしれんが、構うな」
兎狸の言葉が終るよりも早く、戦車が大きくかしいだ。破壊した外壁の破片を乗り越えているのだ。
「奴ら…追ってきますかね」
「当たり前だ」
そっけなく言い、砌剛は目をつむった。
「連中、牽奄から天翔を持ち出すぞ」
戦車の中にいた誰もが一瞬砌剛の顔を見る。砌剛は目をつむったまま腕を組んで寝入りの体勢に入っていた。ただ兎狸だけが冷静に前だけを見ている。
「天翔……それは確かなことで?」
「勘だな。だが、俺ならそうしている」
兎狸はもっともだと頷いた。だが同時に不安も胸中にあった。鳳凰一の速さと移動距離を誇る飛空艇、天翔が出てこられてはいずれ追いつかれてしまう。
「なぁに、心配するな」
兎狸の心を読んだように砌剛は言った。
「こちらにも切り札はある。ちと足は遅いがな。まぁ何とかなるさ」
砌剛の回答はのんびりとしたものだった。
「あれが、完成したんですか?」
兎狸が目を輝かせた。見ると戦車内の仲間たちにも歓喜の表情が見て取れる。砌剛はそんな仲間たちの表情を見、満足げに頷いた。
「昨日の深夜、報が届いた。あいつらには無理させちまったな」
あいつらとは砌剛の仲間、訳あって砌剛たちと別れ、別の場所で逃亡の準備をしている連中のことだ。
「連中はそうは思ってないと思いますがね」
兎狸は砌剛のささやかな心遣いが好きだった。砌剛はいつも仲間のことを考えて行動している。砌剛が先陣をきって敵地に乗り込んでいくのもこのためだ。
「いいか、盗賊なんてものは五年ももてばいい方だ」
ある日の夜、砌剛は兎狸と酒を交わしながら言ったものだ。
「みんなそれぞれ夢を持っている……初めから盗賊になりたい奴なんていない。俺もそうだった」
兎狸はこのとき驚きを隠さなかった。この盗賊をするために生まれてきたような男は、波乱ではなく平安を望んでいたのだ。
「だが、盗賊になった以上、人様の物を掠めなけきゃ生きていけねぇ。俺は頭になった以上盗賊をやめるわけにはいかねぇ」
だいぶ酒が回っているのか、ふらふらとした手つきで砌剛は酒を酒瓶ごと口に運んだ。兎狸はちらりと足もとに視線を落とす。酒瓶は既に十を越え、そのほとんどを砌剛一人で飲み干していた。
「だがお前たちは違う。まともな生活がしたいだろ?」
兎狸は黙ったまま砌剛の顔を見つめる。
「家族を持って、幸せな家庭を築くそれが男としての夢じゃないか」
兎狸は何も言わず、砌剛の顔を見る。
「お頭も、家族を持ちたいんで?」
やっとそれだけが口からこぼれる。
「そうだなぁ」
砌剛は腕を組み背もたれに寄りかかる。兎狸の見ている前で砌剛の体が傾いた。
兎狸が「危ない」と立ち上がったときには既に、砌剛はどうと倒れて床の上で高いびきをかいていた。
結局、兎狸が砌剛から答えを聞き出すことはできなかったのだ。
「ようし、戦車を止めろ」
兎狸の号令でゆっくりと戦車が停止する。太蘭の街から一日、ひたすら東に進んだこの辺りに人の姿はない。
心配していた追っ手の姿は今はなかった。おそらく、密偵が後をつけていると思われるが、それほど気にするようなことではない。これから、砌剛達はさらに驀進するからだ。
周りは荒涼とした原野が広がり、吹きつける風にも自然の暖かみというものが欠如していた。
頂竜の刻はとっくに過ぎ、陽は沈もうとしている。
「お頭」
砌剛は兎狸の言葉にゆっくりと頷く。兎狸と席を交代し、戦車を再び始動させた。
黒煙を噴き出し戦車は走り出す。戦車の走る先には小高い岩山があった。
砌剛が目指しているのはその裏。
寂れた大きな屋敷があり、穴の空いた板葺き屋根は人足が絶えて久しいことを示している。だが、戦車が近づくと、中から人影が現れた。
「おうい」
兎狸が呼びかけると中の何人かが手を振った。
やがて戦車は古びた屋敷の前で止まった。
「おうお前たち、すまなかったな無理をさせてよ」
砌剛が戦車から飛び降り、屋敷から出てきた男たちの肩をぽんと叩く。
「お頭にそう言ってらえるだけで、ウチらは満足じゃ」
白髪の老人がしわをさらに深く刻ませてくつくつと笑った。
「ようし、二人を降ろせ」
やがて後ろ手に縛り上げられながらも鋭い目付きで周囲を睨つける黎華と、おそらくは戦車に酔ったのだろう。ぐったりとした泰斗が引きずり降ろされた。
地に降ろされ、男たちに囲まれても黎華の態度は相変わらずだった。
「お前たち、降参するなら今のうちだぞ。今なら…」
「磔で勘弁してやるって言うのか?」
砌剛が皮肉げに笑い、黎華は押し黙る。
男たちは表情を変えず。泰斗と黎華の縄を解く。ほっとしたのもつかの間、その代わり足に鎖がはめられた。鎖は黎華と泰斗をつなぎ、つながれた二人は状況を把握できずにしばし茫然としている。
「これでお前たちは一心同体だ」
兎狸がにやりと笑う。黎華と泰斗は思わず顔を見合わせた。
「逃げたければ逃げればいい。その代わり見つけたらまずガキを殺す」
砌剛がぎろりとねめつけ、泰斗は震え上がった。黎華の表情も固い。
「その鎖は頑丈にできている。日に日に腐っていく死体と一緒に暮らしたくなければ莫迦なことは考えないことだな」
黎華ははらわたの煮えくり返る思いで鎖を蹴り上げる。蹴り上げながら、あることに気づきはっと顔を上げた。
「おい、この鎖をずっとつけていろというのか、食事の時も、寝る時も……」
「そして、雪隠の時もだ」
黎華の言葉に続けて兎狸がいやらしげに笑った。
黎華はたまらず悲鳴を上げる。雪隠とはつまり、厠のことだ。
「足をつながれたままでは、着替えもできないではないか。私にずっとこのままの恰好でいろというのかお前は」
狼狽する黎華を砌剛たちはおもしろそうに眺める。
「そういうことだな」
砌剛はそっけなく言い、空を見上げた。
雲が糸のように細く棚引いている。上空は風がかなり強い。
「大丈夫ですかね?」
兎狸が隣に立ち、砌剛を見上げる。強毛の男はただ頷いた。
「よし、出発するぞ!」
砌剛の号令に、男たちがおおと応える。
男たちは紐を手に四方に走り出した。紐は屋敷の壁につながれている。
何をするのかと泰斗が見ていると、きしんだ音を立てて屋敷の壁が倒れてくる。屋敷は偽装用のものだった。
そして、中から現れたのは船のような形をしたもの、否。
「まさか、飛空艇……なのか?」
黎華が目を丸くする。泰斗も驚きに目を見開いていた。
「ああ、天翔ほどのでかさと速さはないが、今までとは比較にならない」
砌剛は自慢げに黎華を見下ろす。
「こいつなら行くことができる」
砌剛は呟いた。泰斗はその自信たっぷりの口ぶりに思わず砌剛を見上げる。
「この世界の最果てに」
砌剛の呟きが、泰斗の耳にしっかりと届いた。