伍
「あいつらいったい何してるんだ」
苛々とした顔つきで空を睨つけ亮馬が吐き捨てる。泰斗と林丸が仕事場を離れて既に半刻が過ぎようとしていた。
男たちは空腹の腹を抱えて木材の上、煉瓦の上に座り込み、中には大地に寝転がり天鏡の街を眺める者さえあった。
亮馬もその一人で布幕を広げた大地の上に大の字になって寝転んでいた。
「きっと女でもひっかけてるに違いねぇ」
亮馬の言葉に周りから笑いが漏れた。
「ようし、あいつらが女を連れてきたら今日の仕事は休みにしようや」
「そりゃいい」
亮馬の提案に笑いと共に賛成の声が上がった。
「それよりも飯はまだかよ」
「早くしないと昼食の時間が終わっちまう」
男たちは口々に言う。
その時。
「亮馬ぁ!」
声に弾かれたように男たちが起き出す。
大声を張り上げているのは林丸だった。
「おっ、やっと来たか」
亮馬は上体を起こして次いで目を見張った。激しい足音と共に林丸と泰斗が、そしてその後ろから一人の少女が転がるようにして走り込んでくる。
「あいつら……」
息を切らせながら走り寄ってくる三人を、亮馬は苦笑しながら立ち上がり、待つ。
「あのなぁ、昼飯を買いに行かせたら何で女をひっかけてくるんだぁ?」
「そ、そうじゃないんだ」
林丸はその場に座り込む。黎華も激しく息をつきながらその場に座り込んだ。
「じゃあ泰斗お前の女か?」
泰斗は息も絶え絶えのまま首を振って今しがた自分たちが通りすぎた建物の角を指でさす。
「どうした?」
亮馬の見ている前で建物の角が轟音と共に壁ごと吹き飛んだ。
上がった土煙を切って、戦車が現れる。
「ありゃ何だ!」
男の一人が木材の上から転がり落ちながら声を上げた。
「お、お前の……友達か?」
恐る恐るといった感じの亮馬の問いかけに三人は同時に首を振った。
「この女の子は姫様なんだよ。それであっちが悪い奴!」
泰斗の単純な説明に亮馬は大きく頷く。
「よし分かっ。おい、お前ら!」
亮馬は立ち上がった男たちに声をかける。
「あいつらは悪い奴らだ。泰斗と林丸の二人の姫様を守ってやろうじゃないか」
戦車の砲塔がゆっくりと旋回する。
「亮馬!」
泰斗が黎華を庇うように前に出る。
戦車の砲台が火を吹いた。
弾は大きく弧を描いて亮馬たちが造っている屋敷を直撃する。爆音と共に屋敷は砕け散り火の手が上がった。
「うわっ!」
「俺たちの屋敷が……」
「何てことしてくれんだ。莫迦野郎!」
男たちが悲鳴を上げ、その場に尻もちをついた。
「おいおい、何だよありゃ」
亮馬は呆けたように言う。
「戦車だよ」
「撃ってきたじゃないか!」
亮馬が叫ぶ。
「お前、何を戯けたことを言っておる」
黎華が泰斗を押しどけて声を荒げた。
戦車が驀進してくる。
木材を蹴散らし、煉瓦を砕き建設用の器材を踏み潰す。男たちは悲鳴を上げながら右往左往している。
「お前ら、こういった場合どうするか分かるか?」
「戦うの?」
泰斗は期待のこもった眼差しで亮馬を見上げる。
「逃げるんだよ!」
言うが早いか、亮馬は泰斗と黎華を軽々と両脇に抱え込む。
黎華は呆気にとられたまま、亮馬の顔を見上げた。
「林丸、首に掴まれ」
林丸は亮馬の背に飛び上がって首にしがみついた。
亮馬は三人を抱えたまま信じられない勢いで走り出す。
「大使の館に行け」
抱えられながら黎華が言う。
亮馬はちらりと黎華を見てから頷く。
「……分かった」
亮馬の背後でばりばりと木材が爆ぜた。戦車がその場で旋回し亮馬たちの方へと向かってくる。確実に狙われていると知って亮馬の目に鋭さが宿った。
勢いを殺さず走り続け、細い路地に入る。そこは亮馬が幼い頃から遊び慣れた所だ。細かな道までよく知っている。
「いくらなんでもここまでは…」
ばきばきばき。
通りの白壁が弾けるように砕ける。戦車の巨体が無理やりねじ込まれ、着地すると石畳を耕しながら亮馬達の方へと向かってくる。
盗賊もこの街のことに精通しているらしかった。
「亮馬!」
林丸が悲鳴を上げた。
「ああ、分かってる……ったく、しつこい奴らだ!」
戦車は家々の塀を何の感慨も見せずに砕き、驀進してくる。
脱兎の如く走る亮馬。草鞋が通路の石を噛み、乾いた音を立てる。
「くそっ、大通りに出ちまった」
舌打ちして、亮馬は三人を降ろした。
周りを見渡せば人ばかり、露店の掛け声と、買い物人の賑わい。その中の何人かは空に上がった黒煙を指さし何やら騒ぎ立てている。
「ありゃいったいなんだい」
「火事じゃないのかい。不始末火が多いから」
男も女も口々に言い合ってはいるが緊迫した様子はない。焔蛇のことはまだこの辺りまでは伝わっていないらしかった。
「おい、亮馬じゃねぇか、いったいどうしたんだい……まさか子守の仕事か」
噴き出す男たちに亮馬は黙って首を振った。
泰斗は耳を澄ます。
騒音の中に混じる微かな地響き。
「亮馬兄貴、来たよ!」
泰斗の言葉に亮馬は苛々と舌打ちする。
「おい、何か聞こえないか」
商人風の男が立ち止まり耳を澄ました。
「……まったく」
築何十年という由緒正しき問屋の一角が崩壊し、暖簾を袈裟掛けにした戦車が現れた。砲台が火を吹き、露店の一つが吹き飛んだ。周りにいた者たちが悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように四方に散る。
「無茶苦茶な奴らだ」
「ちょっと泰斗こんなところでいったいどうしたのよ」
突然聞き慣れた声をかけられて、泰斗は慌てて振り返る。
「連姉!」
慌てた顔で蓮紅が前掛けで手を拭きながら駆け寄ってくる。
そこは蓮紅が働いている飯店「猫御飯」の前だった。
「よぉ蓮紅、お前さん今日も綺麗だなぁ」
亮馬に言われても蓮紅は答えない。目を大きく見開いたまま亮馬の背後の戦車を凝視している。
「何なのよ……あれ……」
「戦車だ。いやはやまったく、あのでかぶつに追いかけられていてな。ほとほと困っていたところだ」
冷静な声で亮馬は言った。
「呑気なこと言ってないでよ」
泰斗に手を引かれ亮馬は走り出す。
「いたぞ!」
戦車から身を乗り出した盗賊の一人が、亮馬たちを、正確には黎華を指さして叫んだ。
「やばい、見つかった!」
亮馬が黎華を小脇に抱えて走り出す。
それを追うように戦車が走り出した。戦車の六輪が激しく回転し、大通りの土を耕していく。
爆音を聞きつけて現れた野次馬たちも、戦車の姿を見た瞬間に腰を抜かし、ほうほうの態で逃げ出していった。
「お前たち、逃げるぞ」
二度目の砲撃が大地をえぐる。その土をかぶりながら亮馬は泰斗たちを一瞬振り返り走り出した。
「何がどうなってるのよ!」
亮馬の後を追いかけ、蓮紅が物凄い形相で叫ぶ。その後ろを大地を掘削しながら戦車が走り、四人の後を追う。
露店は逃げ惑う人の波に飲み込まれ、堅牢と豪華さを放つ屋敷ですら、戦車の一撃で粉砕されていく。
人々は逃げ惑い何人もの街人たちが瓦礫の下敷きになった。
四人は土煙をあげながら人込みの中を走り抜けていく。亮馬は蹴散らす勢いで進んでいき、その後ろを三人が駆け抜けていった。
大通りは極力避け、細かな路地を走る。時折兵の姿を見かけたが、戦車に気を取られ黎華の姿には全く気づいていない。黎華も兵たちに声をかけようとしたが、止めた。兵の力ではどうすることもできないことを太蘭の駅で痛感しているからだ。
細かな路地に逃げ込もうと戦車は確実に追ってきた。
「畜生、きっとどこかに奴らの仲間がいるに違いない」
四人で移動しているとはいえ、人込みに紛れたり建物の陰に隠れたりとそれなりに策は講じている。だがそのどれもが一向に効果がなかった。
ならば考えられる可能性は一つ。どこかに仲間がおり黎華たちの動きを逐一報告しているからだ。だが、亮馬たちには焔蛇の仲間の顔は分からない。
それに比べ、黎華は平民の服を着ているとはいえ王家の娘。その容姿は平民にしては整いすぎていた。
焔蛇の者がどうして襲ってこないのか亮馬には分からない。何かしら理由があると思われるが、彼らは黎華を戦車で追い回しているだけで一向に捕まえようとはしない。
「奴ら……何か考えていやがるな」
亮馬は鋭い表情で独白した。
「見えた。あれが大使の館だ」
泰斗が興奮した声を上げぱっと顔を輝かせた。
角の向こう。塀の瓦の向こうに大使の館が見えた。
白壁に朱の屋根。扁額には『太蘭之大使』と書かれている。扁額を掲げた門を抜け、驚きに目を見開いたままの門兵の脇を抜ける。 亮馬が振り返るよりも早く、門の柱が砕かれ、戦車が庭へと侵入する。
「お前たちもさっさと逃げろ」
亮馬の声にはっと門兵たちは我に返った。
「こ、これは一体」
門兵は戦車の姿におろおろとするばかり。亮馬は舌打ちしたい気分になった。
「さっさと逃げるんだ!」
亮馬が声を張り上げ館の中へと飛び込んでいく。
それを追うように門兵二人が飛び込むと同時、全員の力によって堅固な扉が閉められた。
「ここまで来れば大丈夫だよね」
錠を降ろし、泰斗がほっと息を吐く。
「大丈夫なわけないだろ、さっさと奥に行け」
背を押された泰斗たちは亮馬の言葉に慌てたように走り出した。
「来るぞ!」
亮馬が蓮紅をかばい豪奢な棚の陰に隠れる。一呼吸の間をおいて戦車の砲撃によって扉が爆炸される。破片が飛び散り天井が轟音を立てて落ちる。
「亮馬!」
泰斗は爆風に押されながら思わず立ち止まり後ろを振り返った。林丸も青ざめた顔で振り向く。
「俺は大丈夫だ。お前たちはこの女を連れて大使に会いに行け」
煙の中から亮馬の声が響いた。鈍い音が響き、戦車がつき進んでくる。戦車はなおも進もうとするが、柱と鉄鋲の入った壁が邪魔して、力押しだけでは進むことができない。
「亮馬は?」
ゆっくりと煙が晴れ、戦車から降りてくる荒くれ達の姿が見える。
「……ここで食い止めて見せる」
壁に掛けてあった装飾用の剣を片手に亮馬は笑んだ。
「莫迦なこと言わないで、相手は海賊なのよ」
蓮紅が肩で息をしながら叫んだ。爆風に何度も煽られたせいか、服も顔も砂にまみれ汚れていた。
「海賊じゃない……盗賊だ」
「どっちでも同じよ!」
蓮紅も剣を掴んだ。
「蓮姉!」
「大丈夫よ。だからあなたたち先に行ってなさい!」
「早くせんか。あれを無駄にする気かお前は」
その言葉に黎華を恨めしそうに睨つけた泰斗だったが、意を決したように走り出した。
「いたぞ。あの娘だ」
盗賊達の声が聞こえる。
「おっと待て、まずは俺を倒してからだな」
その声に重なるように、亮馬が叫んだ。
「へっ、気取りやがって」
男たちが刀を抜き走り込んでくる。二手に分かれ、亮馬と蓮紅に襲いかかる。亮馬は目を細め腰を沈めた。一方蓮紅は剣をだらりと下げ動かない。
一閃。
「ぐえっ!」
「ぎゃっ!」
呻き声をあげ倒れこんだのは男たちの方だった。
「もっと骨があるかと思ったのに」
蓮紅がつまらなそうに短く息を吐いた。
「おいおい、もっと気合いを込めてかかってこい」
剣を肩に担ぎ肩をすくめて亮馬が笑う。
「強がり言いやがって」
「強がりを言っているのはどっちだい。何ならかかってくるか?」
亮馬にからかわれ、男たちは激昂したが、襲いかかる男は一人もいなかった。
「けっ、こいつら玉なしか」
「なんだと!」
「おい、こいつの口車に乗るんじゃねぇ。そいつは強いぜ」
「お頭!」
男たちが道をあける。煙を蹴る勢いで現れた男に亮馬は思わず口笛を吹いた。
「お前、砌剛じゃないか」
「ん? お前……秋穂か?」
砌剛の問いかけに亮馬はにやりと笑う。それは砌剛も同じで、その瞳に剣呑とした雰囲気が漂い始めた。
「亮馬」
「蓮紅さん。ここは一つ見学していて下さい」
蓮紅は何も言わずに身を引いた。それを見届けてから亮馬が剣を片手に前に出る。
「名を変えたか……お前はてっきり死んだと思っていたが」
砌剛は舌なめずりをしながら腰の鎖に手を伸ばした。
「生憎と、往生際が悪いものでね」
亮馬は肩をすくめる。
「なら、今日で終わりだな」
砌剛が腕をふるった。鉄鎖が唸りを上げて亮馬の隣、朱塗りの柱を砕く。
「避けなかった。いや、避けられなかったのか?」
「さて、どっちかねぇ」
「いつもいつもとぼけた野郎だ」
砌剛は嬉しそうに片眉を上げた。舌なめずりをしてから腰に差していた短剣を放つ。それを弾いた亮馬に鉄鎌が襲いかかった。
亮馬は素早く剣の鞘を放つ。重く鈍い音がして、鎌が叩き落とされる。次に動いたのは亮馬が先、鎌を踏み越え、一瞬動きの止まった砌剛に剣を繰り出す。
その剣を砌剛は腕で受け止めた。しかし剣は腕を斬らず、火花と共に弾かれる。
砌剛がにやりと笑った。
「こいつは鉄籠手だ。ちと重いが役に立つ」
「そのようだな」
亮馬は飛び退き間合をとる。
「砌剛……お前何を企んでいる。姫様を誘拐したって、金は入るが命はない。お前らしくないじゃないか……」
「宝? 俺がそんなチンケなもので動くと思っているのか?」
「違うのか?」
亮馬は体ごと飛び込み剣を横に振う。砌剛は鉄籠手でそれを巧みにかわし、鉄鎌を振う。甲高い金属音が響き鉄鎌と剣がぶつかり合う。
「亮馬!」
「大丈夫だ。蓮紅さん。それよりも他の奴らが奥に行かないようしっかりと見張っておいてくれ」
振り返りもせずに亮馬の背中は応えた。
蓮紅は頷き、剣の柄を握り直す。彼女の隙をうかがっていた男たちは舌打ちしつつ動きを止める。
亮馬と砌剛の戦う音だけが静まり返った回廊に響いていった。
泰斗と林丸、黎華の三人は回廊を抜け奥の間へと向かう。
「ねぇ、本当に大丈夫なの」
今にも泣き出しそうな顔で林丸が叫ぶ。
「大丈夫だよ」
林丸に、というより後ろを無表情のまま黙々と走る黎華に語りかけるように泰斗は笑顔を作った。
そう言いながらも泰斗はあまり期待していない。街で何度か見かけた大使は、大層豪奢な輿にのりずんぐりと太り、酒瓶を片手にあくびばかりしていた。
何度か角を曲がったところでようやく、三人は奥の間へとたどり着いた。
「見えた、あの扉じゃないかな」
扉の前に立つ護衛人の姿を見つけ林丸が叫ぶ。
「おいお前たち何者だ。それにこの騒ぎは?」
扉前で不安そうな顔で立っていた護衛人、その二人のうちの一人が声をかけてきた。
「盗賊団が攻めてきたんだよ。それで彼女が大事だから、僕たちが守ってここまで逃げてき…」
「太蘭の大使、連頼拍はここにいるか。私の名は、鳳凰帝国の第一姫、黎華」
林丸の口を手で押さえ朗々と言う黎華の言葉に、二人の護衛人の顔が強張る。
「ら、黎華様でございますか!」
護衛人たちは震え上がっていきなり膝を折り叩頭する。
「そんなことをしている暇はない。早く大使のところに案内せい!」
「い、今は……その取り込み中でして……」
護衛人はいきなり歯切れが悪くなった。
「私の言うことが聞けないというのか」
「はい。ただ今!」
黎華の怒声に護衛人は飛び上がり、隣で恐る恐る見守っていた護衛人と共に扉を押し開ける。
「大使様。黎華姫が御来館されまし……」
扉を開け顔を上げた護衛人は扉を開けた格好のまま硬直する。
泰斗と林丸は静かにため息をつき、黎華は顔を赤らめ激昂した。
彼らの目の前には美麗とした街娘に酌を取らせ、一人酒を喫する一人の赤ら顔の肥満男。
彼こそ太蘭の大使、連頼拍であった。
「お、お前はここで何をしている……」
黎華の声は怒りに震えていた。
「ん? どおしたんだぁ。そんなところに突っ立って」
回廊の奥から男たちの怒声が聞こえてくる。こうしている間にも、この館の中では戦いが続いている。
「おい。大使はどこにいるのだ?」
黎華が襟首をつかむ勢いで護衛人に詰め寄る。
「あ、あそこにおられます方が、頼拍様でございます」
「嘘を申すな!」
「本当だよ……だから、無駄だって言ったのに」
「黙れ!」
黎華はきりりと泰斗を睨つける。同時に愕然とした思いで、未だに酒瓶を握りしめる男を落胆を込めて睨みつけた。その隣にいる街女は茫然と事の成り行きを見守っている。
「おい。お前……本当に頼拍か」
黎華に問われ、頼拍はとろんとした目を黎華へと向けた。
「これはこれは、また綺麗な街娘を連れてきたな。よしお前、もっと近こう寄れ」
頼拍の言葉に黎華は歯ぎしりしながら、近くにあった椅子を蹴り上げ、手短な酒瓶を手に取り頼拍の足もとに叩きつけた。
「ねぇ、姫様ってみんなあんな風なの?」
林丸は泰斗の後ろに隠れ恐る恐る黎華を盗み見ている。ふーっと猫のような威嚇音を発して黎華は泰斗と林丸を睨つけた。針の如き鋭い殺気、泰斗は黙って首を横に振った。
「こんな腑抜けに私は期待していたというのか……」
黎華は落胆を隠しきれない口調で息を吐く。
頼拍は突然椅子を蹴り上げた黎華に驚きながらも、酒瓶と街娘から手を放さない。
「とにかく逃げようよ」
「どこに?」
袖を引く林丸に泰斗は問う。ここが、太蘭の街の中で一番安全だということは泰斗にも分かっていた。だが、今それは彼らの目の前でもろくも崩れ去ったのだ。
「どこに行っても無駄だよ。だって逃げ道がないんだ」
林丸のやけくその言葉に泰斗ははっとなり護衛人に問いかけた。
「ここに脱出用の秘密通路とかはないの?」
護衛人はしばらく考え込む様子だったが、突然顔を輝かせた。
「あります!」
「案内しろ」
黎華に言われる前に護衛人は機敏な動きで、部屋の壁に掛けられている太蘭の街を描いたであろう情景画の額に手を掛けた。
「おい、その絵をどうするつもりだ!」
頼拍が赤ら顔をさらに朱に染めて怒鳴り散らすが、誰も彼の言葉に耳を向ける者はなかった。
「この絵をどければいいんだね」
泰斗林丸が絵の額に手をかける。
「右に動くようになっている」
護衛人が言う。大の大人の背たけほどもある絵が林丸と泰斗、護衛人二人の手によって徐々に動いていく。
半分ほど動いたところで、その奥にぽっかりと空いた空洞が現れた。
「こちらです」
護衛人の後に続いて、泰斗、黎華、林丸の順で穴に潜っていく。
途端、爆音が響き、通路から濛々と煙が迫ってくる。頼拍の表情が一変した。
「儂も連れて行ってくれ」
街娘に支えられながら、頼拍も後に続く。
どれほど歩いただろう。
暗くじめじめとした坑内をしばらく進むうち、広い場所へと出る。護衛人が壁の紐を引くと、縄梯子天井からが下りてきた。
「こちらを上がりますと館の裏庭に出ます」
護衛人の一人がそう言い、先に登っていく。その後に黎華が続き泰斗、林丸が続いた。
護衛人の一人が、鍵を開け、天板を開ける。光が差し込み、泰斗たちは一瞬目を細めた。
「大丈夫、誰もいません」
護衛人が言い、外へと出る。それに続いて全員が警戒しながら梯子を登り外へと出た。
「よう、遅かったじゃねぇか」
背後からかけられた声に、泰斗は愕然として思いで振り返る。果たしてそこには砌剛がいた。
「亮馬と蓮姉は……」
「安心しな、殺してない」
砌剛の後ろ、後ろ手に縛られた二人が押し出される。
「亮馬」
「ははは、そんな声を出すな林丸」
亮馬は苦笑しながら片目をつむる。
「おおっ、ここはどこですかな」
間延びした声と共に、頼拍がのっそりと現れた。現れたところを屈強な男たちに両側から挟みこまれあっさりとねじ伏せられる。
「何事じゃ! 儂を誰だと思うておる」
頼拍は酒臭い息を吐き散らし地面の上で暴れる。しばらく暴れていたが、男の一人が頼拍の鼻の先に剣先を当て「鼻をそぎ落とすぞ」と脅しをかけると叱られた犬のようにおとなしくなった。
泰斗と林丸が亮馬と蓮紅に走り寄り、その縄を解く。
「すまねぇ、力になれなくてな」
詫びる亮馬に泰斗は黙って首を振るだけだった。
「私たちをいったいどうするつもりだ」
頼拍を完全に無視して黎華が切り出した。
「『私たち』……ではない、俺たちの目的は姫様、あんただよ。分かっているだろ」
砌剛はさも事なげに言う。
「さて、全員の命と引換えだ。おとなしく来てもらおう」
砌剛は鉄鎌を右腕に下げて白い歯を見せて笑った。
「嫌だと言ったら?」
黎華は微動だにせず砌剛を睨つける。
「まずは一言目で大使頼拍が死ぬ。俺は容赦はしねぇ」
「わ、儂?」
地面から頼拍のうわずった悲鳴が響く。
「ふん、こんな役立たずな大使が死ぬのはかまわんが……」
黎華は泰斗たちを見回す。その視線が泰斗で止まった。
「よしこうしよう。こいつも一緒なら、私はお前たちに従う」
黎華はぐいと泰斗の袖を引き寄せて言う。
「どうして泰斗を連れていくのよ。私が行くわ!」
蓮紅が飛びかかる勢いで叫んだ。
「私が決めた」
「お前たちに決定権はないんだよ」
砌剛が鉄鎌を黎華に突きつける。
「何を言うか、身代金は人質が多い方が有利になるではないか」
「身代金?」
砌剛は言ってから大口をあけて噴き出した。
「お前たち下衆の考えることはだいたいそういったところだろう」
「あんまり人を馬鹿にするなよ」
砌剛が笑いをやめ、剣呑とした目付きで黎華を見る。黎華は押し黙ったが、それでも砌剛をねめつけていた。
「お前たちは違うと?」
「そうだな……少なくともお前の護衛の者たちよりは利口だと思っているが」
「鳳凰の聖兵を愚弄するか!」
「事実は事実だ」
ぐっと歯を食いしばり、黎華は堪えた。今ここで動けば状況が不利になるだけだと悟ったからだ。
「…で、どうだ?」
黎華は片眉を上げ皮肉を込めて砌剛を見る。
「お前たちに選択の余地はないんだよ」
砌剛が無常な声を上げ、黎華の腕を引く。
「ええい、私に触れるな!」
砌剛の腕を蹴り上げて黎華は唸り声を上げたが、彼女に蹴られたぐらいでは砌剛はびくともしない。
「気丈な娘だ……姫様だけのことはある」
嘲弄の目で砌剛は黎華の足を払った。平衡を崩した黎華はつんのめって地に腕をつく。
「わ、私を地に這わせたな……」
怨恨を込めて黎華は砌剛を見上げた。
「ならどうする? 今のあんたに力はないぜ」
「力はなくとも知恵がある!」
「何を…」
砌剛が反応するよりも早く、黎華は髪飾りを抜いた。
「動くな、動けば自害する!」
髪飾りの先を喉に突きつけ黎華は叫んだ。
周りの男たちは動きを止め、震える腕で髪飾りを持つ黎華に視線を集中する。
「さぁどうする。私の要求を承伏するならば、それでよし、さもなければ……」
黎華は砌剛を見た。盗賊たちも剣に手を掛けたまま頭を見る。
「……本当に、頑固な姫様だ」
砌剛は手を横に振り、盗賊たちを下がらせる。
「よし分かった。お前の要求を飲もう。その代わりお前には俺たちについてきてもらう」
砌剛は黎華の髪飾りを握った。黎華は砌剛を睨む。
「その言葉に偽りはないな?」
「俺を並みの盗賊と一緒にするな」
砌剛の瞳に強い光が宿った。
「そうだな」
黎華は髪飾りを放した。乾いた音を立てて髪飾りが地に落ちる。
「おい、そこの坊主。一緒に来るんだ」
砌剛に言われ、泰斗は一瞬きょとんとしたまま立ちつくす。
「先の姫様の言葉をもう忘れたのか。お前も来るんだよ。人質としてな」
「そんなことさせないわ!」
飛び出そうとした蓮紅を亮馬が抱きとめた。泰斗に手を伸ばし、その名を叫びながら蓮紅は亮馬に引き戻されていく。
「悪いなぁ、姉ちゃん。これも姫様との約束でね」
砌剛はそう言って豪快に笑った。
地が揺れる。
蓮紅が視線を上げると、朱塗り柱に鉄鋲で固められた堅牢な塀を突き破り、毎日庭師たちの手によって整えられた芝を耕し、きちんと整えられた庭の渡り石を蹴散らして、ここ太蘭でも有名な名所の一つ『大使の館の豊園丁』をただの荒野へと変えながら戦車が現れた。
「儂の庭が……」
見事な枝振りの松の木が、めりめりと音を立てて倒れていく。
倒れる松の木を手と目で追いながら、わなわなと体を震わせて頼拍はその場に座り込む。
「お頭、そろそろ逃げねぇと危険です」
兎狸が戦車の中から現れ砌剛に怒鳴った。
辺りは濛々とした土煙にまみれ、ほとんど何も見ることができない。
それでも砌剛はうんと頷く。
「……ということだ。悪いな」
歯ぎしりする蓮紅に笑って、砌剛は黎華を担ぎ上げる。残った手で泰斗の首根っ子をつかんで砌剛は戦車へと乗り込んだ。
「待ちなさい!」
蓮紅は砌剛の背にあらん限りの声で叫んだ。
「運がよければまた会えるさ」
兎狸がにやりと笑う。蓮紅はその顔目がけて足下の石を投げつける。
兎狸はひょいと首をすくめただけでそれを避け、耳障りな笑い声を上げて戦車の中へと消えていった。
戦車の車輪が土や石を飛ばしながら回転、戦車は勢いよく走り去っていく。黒煙を上げながら朱塗りの壁を突き破って出ていく戦車。
亮馬と蓮紅は唇をかみ締めそれを見送る。
「行っちまったな。すまないな蓮紅」
「泰斗……」
蓮紅は放心したまま戦車の消えた方向を見つめていた。
亮馬に肩を掴まれても、それと気づかずに立ちつくしている。
「いつまでも呆けた顔しているんじゃないよ。今ここで諦めてどうするんだ。泰斗はあんたの助けを待っているんだぞ」
亮馬の一言で蓮紅の瞳に光が宿った。
亮馬を蓮紅はきりりとねめつける。
「亮馬。あなたあの男とはどういった関係なのよ。まさか、さっきの手合い手加減していたんじゃないでしょうね」
言って蓮紅は足下にあった黎華の髪飾りを拾い上げた。
「今は言えない。ただ無関係じゃないって事だけは確かだ」
岩の上に腰を下ろし真摯な顔で呟く。
よろよろと頼拍が亮馬に歩み寄る。亮馬の肩を掴み、腰に提げていた木の鞭を振り上げた。
「おいそこの下男。その岩の上に座るんじゃない! その岩はあの霊山、黒雲連峰の頂きにあるそれは貴重な…」
頼拍の言葉が終わるよりも早く亮馬は素早く立ち上がり、頼拍の持つ木の鞭を素手で弾き飛ばした。
よろける頼拍には目もくれず。
「残念ながらお前の莫迦さにつき合っている暇はないんだよ」
頼拍の背中を張り飛ばして、亮馬は蓮紅の肩を掴む。
蓮紅は亮馬の顔を見上げた。その瞳に迷いっはなかった。
「そうね。こんなところでめげてる場合じゃないわね」
「ああ、そうだとも」
亮馬が頷く。
「でも、いったいどうやってあいつらを追うの?」
「……分からん」
亮馬のあっさりとした言葉に蓮紅は目の前が一瞬真っ暗になるのを感じた。
「あなた、彼の知り合いなんでしょ!」
蓮紅の瞳が鋭くなった。
亮馬は激怒した蓮紅の視線を受けて肩を落としてしおれる。
「そんなこと言われてもなぁ」
「まったく……どうすればいいのよ」
蓮紅は焦れた子供のように何度も立ったり座ったりを繰り返す。
その時、瓦礫と化した塀を乗り越えて、一人の女性が庭に踏み込んできた。
顔形の整った綺麗な女性だった。皮の鎧を身にまとい、羽根のついた飾りを形につけている。それが王宮の護衛隊長の証であることをその場にいる誰もが知っていた。
「姫は……黎華様はどこにおられる!」
館の隅々にまで届きそうな大声を上げて、右腕には棒火矢を持ち、目はぎらぎらと殺気に満ちている。
「姫様ならさっき砌剛に連れていかれたぜ」
芭聆は振り返り亮馬をねめつけた。
大抵の者なら腰を抜かしてしまいそうなほどのぢりぢりとした鋭い殺気。それを受けても亮馬は平然としている。
「お前、それを黙って見ていたというのか」
歯ぎしりまじりに亮馬の胸倉を掴む。
「じゃあ聞くが、あんたは俺に生命を賭けてあの砌剛と戦えというのか? 俺たちの血税でのんびりと優雅に暮らしているお前たちのために、生命を賭けて姫様を守れっていうのか?」
亮馬は胸倉を掴んだ腕を払いのけ、真っ向から芭聆の目を見る。
「自分の尻は自分で拭くんだな」
「何だと……」
芭聆は気色ばんで棒火矢を放り出し、腰の剣に手を掛けた。その瞬間、亮馬の顔から笑みが消え、刃物の鋭さを帯びた目付きになる。
「口で勝てなければ力で訴えるか……皇族の考えそうなことだ」
「言わせておけば」
柄にかかった手を亮馬は容赦なく蹴り上げた。ひるんだ芭聆、その喉に亮馬の腕が伸びる。
蓮紅は動けず、また芭聆も一瞬のことに動くことができなかった。
「ならこちらにも考えがある」
亮馬の腕の筋肉が盛り上がる。芭聆は必死になって首に巻きついた太い腕に爪を立てたが、亮馬は顔色一つ変えずにぎりぎりと首を締め上げていく。
「亮馬!」
蓮紅が血相を変えて亮馬の腕にしがみついた。
「やめて、こんなことをしたって何にもならないのよ!」
亮馬は動かない。そうしている間にも芭聆の顔が鬱血していく。
亮馬は蓮紅を見た。亮馬は芭聆を振り返り、いたずらっ子のような笑みを向けた。
「おっと忘れていた。俺たちは泰斗を助けなきゃいけないんだったな」
ぞんざいな手つきで亮馬は芭聆を解放した。芭聆は激しく咳をしながら空気をむさぼるようにして吸い込んだ。
「き、貴様ぁ……」
荒い息をくり返し、芭聆は立ち上がる。その瞳にはありありとした殺気の色。だがその視線を受けても亮馬はのんびりと腕を組む。
「芭聆様。これはいったい……」
駆け込んできた兵たちが亮馬の姿を見つけるなり剣を抜いた。
「やっと来たか」
組んだ腕を解き、亮馬はにやと笑う。
「亮馬。いったいどうするつもりなのよ」
蓮紅はただおろおろとするばかり、周りはすっかり抜刀した兵に囲まれ逃げることすらできない。
蓮紅は亮馬の腕を信用していたが、武器もなく、多勢に無勢のこの状況では打開できないと分かっていた。
「貴様。いったい何のつもりだ。よもや焔蛇の仲間ではあるまいな」
芭聆は一歩踏み出す。それに合わせて周りを囲んでいた兵たちの輪も狭まった。
それを目にしても亮馬はただ肩をすくめただけだった。
「だったらこんなところに残っているかよ」
「ちょっと亮馬。そんな言い方って……」
「時間を稼ぐために残した手下かもしれませんぜ」
兵たちも状況が状況だけに殺気立っている。蓮紅はこれ以上神経を逆なでするような発言は自分たちの命を縮めるだけだと思った。
「手下だったらどうするんだ? お前がどうにかするのか」
言った兵を亮馬はぎろりとねめつけた。その気迫と刺すような鋭敏な殺気に兵は悲鳴を上げて腰を抜かす。
「お前の部下はこんなのばかりか?」
皮肉を込めて言った亮馬の言葉を芭聆は苦笑で受け止めるしかなかった。
「だったとしたら?」
芭聆の言葉を待っていたとばかりに、亮馬は満面の笑みで胸を張る。
「俺を雇わねぇか」
「雇うだと」
片眉を上げて、芭聆は亮馬の瞳をのぞき込む。
蓮紅は二人を見比べながら驚きに目を見開いた。
「俺は仲間を助け出さなきゃならないんだ。だがあいにくと足がねぇ。そこでだ……俺たちを連れていってくれねぇか」
「駄目だ」
芭聆の答えは素っ気ない。亮馬はそれを分かっていたのか、芭聆の言葉を聞いても表情一つ変えなかった。
「そうか。それは仕方ないな」
亮馬は半袴に手を突っ込み、空を見上げた。
刹那。
芭聆が剣を抜く、その場にいた全員が硬直した。
「お前……何者だ?」
「見て分からないか? ただの建築屋だよ」
芭聆は抜刀したまま動かない。
亮馬は手のひらで芭聆の剣先を受け止めていた。否、手のひらではない。手のひらに載せた一枚の銅貨、半瞬で突き出される芭聆の剣先を亮馬はこれ一枚で防ぎきったのだ。
「建築屋にこんな芸当ができるものか」
芭聆は素早く剣を収めた。亮馬をそして蓮紅を見比べながら納得したように一人頷く。
「よかろう。同行を許可する」
「本当ですか!」
蓮紅は瞳を輝かせ芭聆の両の手を握りしめた。
「ああ。一度言ったことは撤回しない。それよりも早くここを出よう」
芭聆はいまだ放心したまま座り込む頼拍を一瞥した。
「頼拍殿には別の任を与えよう」
芭聆の言葉に頼拍は我を取り戻す。慌てたように走り寄り芭聆の前に叩頭した。
「お待ちください芭聆様!」
「黙っていろ」
すがる頼拍をぞんざいに突き放し、芭聆は亮馬たちを伴って外へと向かった。
「お待ちください!」
地を這う頼拍を助け起こすものは誰もいなかった。
館の外には既に、兵が整列し、いつでも動き出せるよう用意が調っていた。
「賊は?」
芭聆は振り向きもせずに問う。
「はっ、東の門より逃走。兵を何名か差し向けました」
傍に控えていた兵の一人が膝を折り報告した。
「向こうもそれぐらいは読んでいるだろうな 」
芭聆は顎に手を置き、しばし考え込む。
「牽奄の街までは?」
「今日を含めて三日ほどでございます」
兵が手元にある書簡に目を通しつつ答える。 よし。と芭聆は頷いた。
「牽奄の街に伝達。飛空艇『天翔』をこちらに向けろ。こちらからも出向けば一日と半……無理をさせて一日で合流する」
芭聆の言葉に兵たちの間からは何の声も上がらない。強い結束力、それを束ねる芭聆。蓮紅はそんな彼女を羨望の眼差しで見つめていた。
「お前たちにも無理をしてもらう」
芭聆は振り返り言う。蓮紅は緊張して背筋を伸ばした。
「こっちが無理言ってるんだ気にするな」
亮馬はにやと笑って腕を組む。
蓮紅は身の置き場がないのか、身を縮めて亮馬の隣にただ立っているだけだった。
「ねぇ本当に大丈夫なの?」
蓮紅が亮馬の小脇をつつき囁いた。
「大丈夫。砌剛の奴が言ってただろ。運があればまた会えるって」
「これって運があるっていうのかしら……」
「何言ってるんだ蓮紅」
亮馬は目を瞬いて言った。
「運てものはな、待ってるものじゃないんだ。自分の力で切り開いていくものなんだぜ」