参
「さぁ、着いたぜお姫さん」
砌剛に頬を叩かれ黎華は目を開けた。
頭がひどくぼやけている。頭痛がやまず黎華は眉をしかめた。
そこは広い空間。黒い石で床から壁、天井まですべて覆われている。光源はいったいどこにあるのか、部屋は明るく全体を見渡すことができた。
そこは、寅神門の横にある祠。
「おい、こんなところでぼやけていないでさっさとしろ」
荒々しく襟首を掴まれ立たされる。
「私に、触れるな」
払いのけようと思ったが体に力が入らない。
「あがいても無駄だ。眠っている間に嗅がせた薬が効いているから半刻はろくに歩けやしない」
「……貴様ら」
猫のように扱われ、黎華は部屋の中央に運ばれていった。 そこには腰ほどの高さの光沢のある黒石の四角い柱。上の部分には文字が彫り込まれていた。
「こいつが『招く者』と呼ばれる柱だ」
砌剛はそう言って柱に手をかざす。彫り込まれた文字が光を放ち、目の前の床に柱と同じような文字の彫り込まれた円陣が現れた。
「あれは」
「開錠の円」
即答する砌剛を黎華はねめつけた。
「お前、いったいどうしてそんなことを」
砌剛はにやりと笑う。
「俺は秋穂から『失われし太古の記憶の間』に眠る書巻を譲ってもらったことがあってな。それだけじゃねぇ。戦車やら何やらたいてい必要なものはこいつに用意してもらった」
砌剛の言葉に亮馬はうんと頷いた。
「初めて秋穂に会った時も、奴が罧忠溜の息子だってことは俺も知っていた。何しろ一族の手配書が回っていたからな……お互いすねに傷のある者どおしだったんで俺たちはすぐに打ち解けたさ」
砌剛の言葉を聞き、黎華は亮馬を睨む。
砌剛は五年前、罧忠溜と欽杷苙の一行に命を助けられた。その時すでに、二人は鳳凰帝国に命を狙われていたのだ。
髪を切り、名と身分を偽り、なんとか追っ手から逃れた亮馬は太蘭の街へとやってきた。欽杷苙の残された家族に会うために、そして事の顛末を伝え謝罪をするために。
幸い、追っ手は家族にまで及んではいなかった。主犯格は一族をもって罪を償わせているようであったが、他には手を回していなかったらしい。
しかし、亮馬が太蘭の街へと辿り着いた時、欽杷苙の家族は既に、泰斗と黎華の二人だけになっていた。二人の母は心労の為、病にかかり他界してしまっていたのだ。
「俺はお前達二人を見守る義務がある」
亮馬はなんともいえない表情で二人を見つめる。その目には後悔の念があるように見えた。結果として亮馬は二人を巻き込んでしまったのだ。すべてを忘れ、俗世の流れから外れて生きていこうと、この二人を支えることで罪を償おうとしていたというのに。
しかし、今はそんな気持ちは皆無だった。
今、亮馬の頭の中にあるのはこの世界の果てに行く。ただそれだけだ。
「だが、まさかお前に再び会うとは思っていなかったがな……あの時は本当にびっくりしたぜ」
砌剛は言い、亮馬はくつくつと笑う。
「泰斗がお姫様を連れてきた時は、俺ですら自分の強運に感謝した」
「ならば、泰斗はお前たちの仲間ではないのだな」
「当たり前だ。それにあいつにそんなことはさせたくねぇ」
亮馬の表情に少し陰りがあった。 二人の言葉に多少はほっとしながらも、黎華の中ではまだ怒りがおさまりきっていなかった。
「お前が『失われし太古の記憶の間』から書巻を盗み出したのか……そのせいで芭聆の部隊はほぼ全滅に近い状態になったのだぞ!」
黎華の言葉を亮馬はふんと鼻で笑い飛ばす。
「そんなこと俺の知ったことじゃない」
「それほどまでに我々が憎いか」
亮馬が黎華の首に手をかけた。
「今ここでお前を殺してしまいたいくらいにな……だが、役目が終わるまでは生かしておく。ありがたく思いな」
亮馬は冷酷な表情のまま黎華を突き飛ばす。黎華はよろけ開錠の円に倒れ込んだ。 黎華が倒れ込むと同時、円陣が輝き部屋全体の壁にびっしりと書かれた文字が浮かび上がった。 黎華は目だけで周りを見る。床が、否部屋全体が揺れている。
「ありがとうよ。お前のおかげで、寅神門が開く。この世界と、その向こうにある世界がつながるんだ」
亮馬は右腕で黎華の胸倉をつかみ立ち上がらせる。左手には山刀を持っていた。 それをゆっくりとした動作で黎華の首に当てる。
「おのれ……」
黎華は唇をかみ締める。悔しさのあまり唇に血がにじんでいた。
「安心しろ……もう他の奴らは殺さない。お前が最後だ」
静かな口調で亮馬が言う。黎華は目をきつく閉じ自分に起こる惨劇から逃げ出そうとした。
「亮馬、待って!」
不意に泰斗の声が黎華の耳に届いた。不思議に思いながら黎華は目を開ける。果たしてそこに泰斗はいた。足を引きずりながら、それでも黎華と亮馬を活き活きとした目で見つめている。
「泰斗か……どうしてこんなところに来た」
悔悟と殺意の入り交じった目で泰斗を睨らむ。 泰斗は怯まず亮馬と砌剛の前に立つ。肩が小刻みに震えていた。それでも逃げ出すようなことはなかった。
「黎華を返してくれよ。そんなことしたって誰も嬉しくないよ。おいらはそんなことする亮馬は嫌いだ」
「いくらお前の願いでもこれだけは駄目だ」
「駄目!」
泰斗が亮馬に飛びかかったが、亮馬はぞんざいに腕を払い泰斗を叩き飛ばした。山刀の柄が泰斗を打ち、泰斗は額から血を流す。
「泰斗……もういい」
黎華が力なく言った。
「よくない!」
泰斗は激しく頭を振る。
「おいらは黎華を守るんだ」
「勇気のある小僧だ。だが勇気だけじゃ何もできない」
砌剛が真摯な表情で言った。
「それは、どうかな」
亮馬は思わず黎華を見る。彼女の瞳には今までにない光があった。 次の瞬間、亮馬の腕が緩んだ。黎華が渾身の力を込めて亮馬の股を蹴り上げたのだ。 亮馬の腕を払い。黎華はなんとか泰斗の元に駆け寄った。
「今のが金的だ」
黎華が泰斗に笑いかける。 泰斗は納得いったように頷いて黎華の手を引き出口へと向かう。
「泰斗」
亮馬に呼ばれ、泰斗は振り返った。 砌剛に支えられ亮馬が立ち上がる。 その後ろにある扉がゆっくりと開いていく。扉の向こうは光に包まれ何があるのかは分からなかった。 亮馬はさわやかに笑った。
「みんなに、よろしく言っておいてくれ
泰斗はこくりと頷いた。
「行ってくるぜ」
二人の姿が光の中に吸い込まれていった。
「行くぞ……」
黎華に促され泰斗は出口に向かう。
「黎華様!」
出口を出るとすぐに十数名の兵と、武将に支えられた芭聆。泣き腫らして目を真っ赤にした蓮紅の姿があった。 妖魔の姿は見えない。いったいどこに消えてしまったのか、妖魔の羽ばたく音も、鳴き声も聞こえなかった。 風が強い。辺りも暗いような気がした。 芭聆は黎華の元に走り寄り叩頭する。
「芭聆……すまなかったな」
芭聆はただ首を横に振るだけ、言葉は嗚咽に消され何も聞き取れない。黎華は芭聆に歩み寄り優しくその肩を抱いた。
「これで我々の役目は終わった」
「賊は、どうされるのですか?」
武将の一人が深々と叩頭し言う。
「捨て置け、世界の最果て、その向こうには何もない。ここが我々の世界だ。奴等は決して帰ってこない」
黎華は泰斗を振り返った。 泰斗は蓮紅を見上げ「帰ろう」とだけ呟く。蓮紅は泰斗の肩を抱き黎華たちの方へと向かって歩き出す。 その時、さっと影が差す。妖魔かと身構えた泰斗たちだったが、空を見上げそれが間違いであったことに気づいた。 一瞬にして暗転した空。光竜柱の光が消え失せ、風が止まった。
「扉が開くぞ」
黎華の言葉が終わると同時、天が二つに割れた音もなく寅神門が開いていく。光は門から漏れていた。門からの銀の光がまっすぐに天へと伸びる。
「なんだあれは!」
兵の一人が背後を振り返り声を上げた。 光が迫ってくる。それは光輝く黄金色の竜だった。
「光竜柱の竜だ……」
泰斗が迫り狂う竜を凝視した。
竜は頭上を越え寅神門の中へと吸い込まれていく。
その場にいた誰もが言葉を失い。目の前に広がる情景に心を奪われた。
「四年前、これと全く同じことが起こった……おそらくは欽杷苙たちがこの門を開けたのだろう」
芭聆の言葉に泰斗は瞳を輝かせて振り返る。
「じゃあお父さんは……」
「おそらくは世界の最果てを越えて、この門をくぐったのだろうな」
芭聆の言葉を聞き、泰斗はもう一度門を仰ぎ見た。 砌剛も亮馬もいない。二人とも門をくぐっていったのだ。
「そういえば……賊の仲間たちはいったいどうしたのだ?」
黎華は芭聆を見て言った。
「辺りには賊の残党はおりませんでした。それと……」
「どうした?」
言葉を濁した兵に芭聆は詰め寄る。
「はっ、賊の遺体が一つだけ消えておりました」
「消えた?」
黎華の問いかけに兵は叩頭し「その通りでございます」とだけ言った。
「妖魔に食われたか……それとも」
「もうよいではないか」
芭聆は驚きながらも黎華を見る。
「我々は役目を果たした。賊は追放。もう帰ってくることもない。それよりも私は疲れたぞ。いろいろとな」
黎華はその場に座り込む息を吐いた。 黎華たちを遠くに見ながら泰斗と蓮紅は寅神門を見上げている。
「あの扉の向こうに……父さんがいるんだね」
蓮紅は頷き、そして驚いたような目で泰斗を見た。
「泰斗、あなたまさか……」
蓮紅の声は震えていた。
「蓮姉、ご免」
蓮紅の腕を振りほどき泰斗は走り出した。誰もそれを止めることはできなかった。
「蓮紅!」
芭聆は顔を上げ叫んだ。 蓮紅は一瞬だけ振り返ったが、そのまま泰斗を追って走っていく。
「泰斗、やはり行くのか……」
黎華は泰斗の背を見つめる。
その瞳がひどく悲しげであることに芭聆は気づいていたがあえて何も言わず。黙って黎華のそばに控えていた。
しばらくすると獣の咆哮が辺りにこだました。
門が輝き、光の竜が飛び出す。
それは再び光竜柱へと戻っていった。
「門が閉まる」
静かな声で黎華が言う。 辺りは明るくなり始めてきた。 夜明け前のような静けさが辺りに漂う。
黎華たちは無言のまま、辺りが完全に明るくなるまでその場に立ちつくし、寅神門を眺めていた。