弐
どれくらいそうしていただろうか。
「ん?」
泰斗の肩に手を置いたまま、黎華は身を起こした。
「あれは……何だ」
泰斗も顔を上げ目の前の光景にぽかんと口を開ける。
「鉄の……飛空挺……」
大破し赤錆びにまみれた朽ちた飛空挺が目の前を通りすぎていく。過去にここを訪れ妖魔に襲われたのだろうか。
飛空挺は地面から伸びる柱に串刺しにされていた。
飛空挺を支えているのは巨大な正方の柱。それも石の柱だった。その壁面にはいくつもの丸い穴が規則正しく空いている。それがいったい何のためなのか泰斗には分からなかった。
「おい、柱にぶつかるかもしれん。危険だから中に入りな」
兎狸が割れた窓から顔を出して言った。 目の前すれすれを石の柱がかすめていく。
飛空艇は風に流され大きく揺れた。
「気流が乱れている……外は危ないぞ」
泰斗は黎華を見、黎華は小さく頷いた。 二人は立ち上がって操縦室へと入る。 黎華が先に入り、泰斗が続いた。 視線の端に何かを見たような気がして、泰斗は振り返る。 雲がさっと晴れていく。 そして…。 巨大な寅神門が姿を現した。 ついに世界の最果てに到着したのだ。
「気嚢の軽気を抜け!」
飛空艇の上部にある巨大な気嚢。それは全部で十一の区画に別れている。 気嚢の中には軽気、これは水に塩を混ぜたもの、それに電気を流すことによって作り出されるものだった。別名で水素と呼ばれるそれは、気嚢に溜めれば空に浮き、火を放てば爆炎となって空気を揺すった。軽気と共に生み出されるもう一つの気体は重気、別名、酸素と呼ばれるそれは吸えば萎えていた英気を回復する力を持つ。 王宮で重気は神気とも呼ばれ、王族の寝所に夜毎香と共に放たれていた。 飛空艇は軽気によって浮かび上がる。だが決して軽気は安全なものではない。軽気に火気が触れ、軽気、重気を生産する工場が爆発炎上する騒ぎはどこの街でもあった。だがそれらはすべて軍の施設、一般の者たちにその製法が明かされることはなく、それは王族のみに伝わる秘伝の事項だ。
それらは一切『失われし太古の記憶の間』に厳重に保管されているものであった。『失われし太古の記憶の間』は世界開闢前にあったとされる神域の英知、その名残りとも言うべきもの。失われし太古の記憶は、今も学者の手によって解読が進められているが、謎の部分が多く、その全部を解明するためには後数千年はかかるだろうと言われていた。 それらの秘伝を砌剛がいったいどのようにして手に入れたのか。戦車も飛空艇もどこかの軍の施設から盗み出したものなのか、しかもそれらのことをいったいどうやって知ったのか黎華は知るよしもない。 そして、それが最も重大な謎でもあった。製法を手に入れたからといって、誰でも作れるものでもないからだ。まずは電気、これを作り出すには大がかりな設備が必要であった。しかも電気は溜めることができず、天翔ですら電気を発生させるための設備を常備している。砌剛たちの飛空艇にもその設備があるらしいことは黎華にも分かったが、それらをいったいどのようにして手に入れたのかは今現在も謎であった。 砌剛の号令によって気嚢から軽気が抜けていく。 それに伴い飛空艇は高度を落としていった。門が近いせいか、風の流れはほとんどなく、船はゆっくりとした速度で流れ、降下していく。 舵が破壊されているために飛空艇を制御することはできない。しかし高度を調整することはできた。 地響きと共に、飛空艇は横倒しになりながらも小高い丘に着陸する。だがそれは着陸とは名ばかりの立派な墜落であった。
「まったく……もうこいつは飛べねぇな」
頭を振りながら砌剛が起き上がる。 埃にむせながら泰斗と黎華が身を起こした。あちらこちらで男たちが起き上がり瓦礫となった飛空艇から這い出てくる。 その数は十三人、泰斗と黎華を含めてその人数だった。荒野の屋敷を出発する際に泰斗と黎華を含めて二十人はいたというのに。 砌剛は黙って腕を組み、男たちが全員出てくるまで待った。 丘を下り、巨大な岩に囲まれた場所を探す。万が一を考え、妖魔の襲撃に備えるためだ。
黎華は泰斗を支え、何人かの男たちも互いに支え合いながら砌剛の前に立つ。
「お頭、これで全員です」
兎狸が言った。彼も着陸の際に打ったのか、額から血を流し、それを手身近にあった布で縛り上げていた。 砌剛は男たち一人一人の顔を満足げな表情で見つめていく。
「ようし、よくここまでついてきた。まずはそのことに礼を言いたい」
岩に反響して砌剛の声が響き渡る。たとえ小石が落ちたとしてもその音が大きく響き渡りそうだった。 砌剛はちらりと泰斗と黎華に視線を向ける。
「泰斗と姫様もだ……捕虜とはいえよく生き残った」
黎華は無表情のまま砌剛を睨つけている。泰斗は砌剛と黎華を見比べ何とも言えない表情をしていた。 砌剛の後ろには巨大な門が雲を抜け天鏡まで続いている。 風の唸りが静かに響いた。
「これが世界の最果てにある門。寅神門だ」
兎狸が感極まった表情で深々と頷いた。 他の男たちも砌剛のその言葉を待っていたかのように泣く者、声もなく息を吐く者、互いに肩を叩き合う者があった。
「あと一息で寅神門にたどり着くことができる。そして行こう。その向こう側へ!」
男たちは歓声を上げて剣を抜く。 その熱気に押されるように黎華と泰斗は身を引いた。
「莫迦な、世界の最果てを越えるなどと……あの門の向こう側には何もないんだぞ!」
黎華が鋭く一括する。男たちは声を静め黎華をねめつけた。 ひんやりと漂う剣呑とした雰囲気をものともせず、黎華は胸を張って砌剛の前に出る。
何日もの間一度も櫛を通していない髪は風と揺れによって大きく乱れていた。化粧も落ち、香の香すらない。装飾品もほとんどが奪われ、着ている絹の衣、それすら薄汚れていた。 そんな風体でありながらも、黎華の身からは王族としての風格が漂ってくる。 砌剛は黙って目の前に立つ姫君を見据えた。
「かつて、この世界は大いなる災いによって殲滅された。その時、天帝は命の源たる『水神気』を用いて世界を創成されようとした。だが、災いは大きく世の理は混沌に帰したのだ」
天地開闢前、乾坤を揺るがす災ひ有りき。
神『水神気』を以てこれを鎮撫せんとし、然るに乾坤更に乱る。
浮世、理乱れ、混沌に帰する。
黎華は砌剛の瞳を見、さらに言葉を継ぐ。
「その混沌の中にありながらも、天帝はすべてを卵に返し、この世界をお造りになった。何千という年月を重ねてこの世界は造られ、そして我々人間が生まれた」
神これを憂いて、森羅万象卵に返す。
卵、万年の時を経て山河現れ、獣増ゆる。
神、己に類じたる『人』を造り、卵に解放す。
「この門は未だに安定せぬ混沌を封じ、世界を護るもの。決してお前たちのために開門することはできない」
「……この門の向こうには災いしかないと、そう言いたいわけか?」
片眉をあげて砌剛は言った。皮肉るわけでもなく、達観しているわけでもない。
「この門を開けることは危険だと私は言っているのだ」
黎華は微動だにしない。
「それでも俺たちは行く。たとえどんなことがあったとしてもな。それに帰る場所もない……お前さんを誘拐した時点で俺たちに選択肢はなくなったんだよ」
悲観する様子もなく砌剛は淡々とした口調だった。
「そこまでして世界の最果て、その向こう側を目指すのはなぜだ? あの扉の向こうにお前たちの望むものがあると思っているのか」
黎華は砌剛に、そして自分をぐるりと取り囲む男たちに訴えた。男たちは無表情に砌剛を見る。 不毛の大地。乾いた風がそよそよと黎華の髪をなびかせる。
「そんなものは期待していない。だが、俺は生き方が不器用でな、こんなふうにしか生きられないんだ」
兎狸は砌剛の後ろでただ頷く。部下たちに普通の生活をさせてやりたいと言ったこの男が、実は一番それを望んでいたのだとようやく思い至った。 自分が望むものは他者も望むものだと、そう本心から思っているからこそ、部下たちにあそこまで寛容でいられるのだ。それを知っているからこそ、部下たちは砌剛についていくのだ。
「お前たちは、死に場所を求めているのか」
黎華の碧い瞳が強さを増した。
「死にたいんじゃない。俺たちは誰よりも強く生きたいんだ」
「そのためにここまでしたというのか」
黎華の言葉に砌剛は苦笑した。
「他に方法が思いつかなかったんだ……そう言っているだろ」
砌剛は強毛の頭をかきむしった。
「私には理解できない」
黎華は大きく首を振る。
「俺たちはお前さんみたいに豪奢な生活をしたことがない。だから本当の幸せってものが何なのかを知らずに生きてきた」
「幸せとは、その者の心の有り様によって決まるものではないのか?」
黎華は問いかける。砌剛は溜め息交じりに首を横に振った。
「それは優雅に暮らしてきた者の発する言葉だ。お前さんには分からないだろう。飢えに苛まれ眠ることのできない夜を、寒さに凍えながらあてもなくさ迷う路地裏。人のものを掠めることでしか生きていけない環境で、いったいいつ心に余裕を持てというんだ?」
黎華は言葉に詰まり足もとへと視線を向ける。 砌剛はそんな黎華を責めるわけでもなく、侮蔑を込めるわけだもなく、ただ見つめていた。 砌剛は振り返って背後にそびえる寅神門を見上げる。寅神門は朱塗り、その外は純白の壁が広がっている。 そして、いくつかの小高い柱が目についた。
それは飛空艇で泰斗と黎華が目にしたものと同じであった。 その間を薄く張った雲が流れていく。
「俺たちは所詮違う道を歩んできた者たちだ。普通の社会に戻れと思うかも知れねぇが、いかんせんその方法が分からねぇんだよ」
嘆息する砌剛。その時あらぬ方向から声がかけられた。
「ならばその方法。私が教えてやろう」
声よりも早く砌剛は動き、鋭く飛来する矢を鉄籠手で弾く。泰斗と黎華はその場に立ちつくしたまま一歩も動くことができなかった。
「ぎやっ!」
男たちの何人かが矢を胸に受けもんどり打って倒れ込む。
「運のいい奴らだ」
砌剛は岩の上に立つ人物を睨つける。 その人物は女性だった。 それは砌剛も黎華もよく知っている人物。
「黎華様を誘拐したその罪。お前の命だけでは足りぬぞ!」
芭聆は弓を片手に唸った。
「まて、撃つんじゃない!」
その後ろから声を上げて現れたのは亮馬。
続いて蓮紅が岩を登り、泰斗の姿を見つけるとその場から飛び出そうとした。
「泰斗!」
「行くんじゃない」
抜刀する盗賊の男たちを見、亮馬が蓮紅を制した。
「今行けば状況はさらに悪化するだけだ」
仲間を殺され男たちは殺気立っている。今迂闊に動けば泰斗と黎華の身が危ない。
「蓮姉!」
泰斗が蓮紅に気づき声を張り上げた。どうして蓮紅が、そしてその横に亮馬がいるのか泰斗には理解できなかった。だが、二人が自分のためにここまで来てくれたのだということだけは分かった。二人の姿を見ただけで泰斗の目頭が熱くなる。 泰斗はすぐにでも姉のところに駆けていきたいと思ったが、それでもその場を動かなかったのは自分たちの置かれている状況を把握しているからだ。 その場にいた全員がいっせいに動き、岩陰に身を隠す。
「お前たちは既に囲まれている。砌剛、お前は無事でも仲間までは守りきれまい?」
「こっちには人質がいるんだぜ」
兎狸が泰斗たちに走り寄る。
「撃つんじゃない!」
亮馬が叫んだ。
「兎狸、よすんだ!」
砌剛が制止の声を発した。二人の声は同時。だが、時は既に遅かった。瞬きをする暇もなく矢が兎狸の胸をすいと貫く。
「兎狸!」
砌剛が悲痛の表情で叫ぶ。胸に矢を受けたまま、兎狸は二、三歩と進みその場に崩れ落ちた。 泰斗は兎狸から目を離さず、否、離すことができず。じっと兎狸の瞳を見つめる。その兎狸がにっと笑った。満足げな表情のまま兎狸の首が地に落ちる。
黎華も泰斗も無言だった。
「さあ、剣を引け」
芭聆は腕を差し上げる。 それに呼応するかのように兵たちが一斉に弓を引き絞った。狙いはそれぞれ、砌剛には十人の兵たちが狙いを定めている。
「二度目の警告はない……自分たちの命だ。お前たちで決めろ」
砌剛はしばし芭聆を睨つけていたが、胸に大きく息を吸い込んでそして吐く。 風が唸りをあげて岩と岩の間をすり抜けていく。
「お前たち。絶対に抵抗はするな」
砌剛の一言に男たちは驚きのあまり言葉を失い。自分たちが狙われていることも失念し茫然と砌剛を見る。彼の言葉はすなわち降参を意味していた。
「しかし、頭……」
砌剛は黙って首を振り男たちを黙らせる。
「黙って俺の言う通りにするんだ!」
低いがよく通る声が響く。男たちは唖然と口を開けたまま、それでも言われた通りに剣を地に放る。 きんと澄んだ音を立ててすべての剣が男たちの手から放れた。
「お前たち、地に伏せて動くな。いいか、俺の命あるまで絶対に動くなよ」
砌剛に言われた通り男たちは地に伏せる。
それを見て芭聆は皮肉を込めてくつくつと笑った。
「あとはお前だけだ砌剛。おとなしくその鎌を捨てろ」
剣の柄に手を添えたまま油断なく芭聆は岩から飛び降りる。
「捨ててもいいが、その前にお前たちが俺たちを攻撃しないという保証が欲しい」
感情を押し殺した口調でゆっくりと砌剛が言った。緊迫した状況の中、泰斗はあることに気づいた。砌剛は時折上空を見、何かを気にしている。
「どうした?」
勝機を見出しきらきらと瞳を輝かせている黎華が怪訝そうに泰斗の肘を小突いた。 泰斗は黎華の方を振り返り、囁く。
「砌剛が何かを気にしているみたいなんだ」
黎華が口の端をあげて笑った。
「当たり前だ、これだけの兵に囲まれ命が危ないというのに落ち着いていられる男がどこにいる」
泰斗も黎華の意見には賛成だったが、それでも砌剛の不可解な行動が気にかかっていた。
砌剛は何かを気にしている。これほどに危険な状況下であるはずなのに、それがまったく眼中にないかのよう、砌剛は空を気にしているのだ。 世界の最果て、この辺りにあるものといえば岩ばかりの荒野と、天を支えるようにして伸びる寅神門。
そして…。
泰斗はもう一つ大事なものを忘れていることに気づいた。
「妖魔だ!」
突然叫んだ泰斗を砌剛が見た。その時、泰斗たちのいる場所に影が差す。
「ぎゃっ!」
兵の断末魔に兵たちの誰もが空を見る。 妖魔だった。それは漆黒の翼を持った白い体毛の虎のような魔獣。
「ぼさっと立っているんじゃない!」
砌剛が黎華と泰斗を突き飛ばし、自らも地に伏せた。 妖魔は全部で四体。鋭い爪で易々と兵たちの体を引き裂き、剣を叩き折る。矢を放つ兵もいたがそれらが妖魔に突き刺さるようなことはなかった。
「何たること。棒火矢を用意しろ!」
芭聆は叫んだが、兵たちは完全に浮き足立ち混乱していた。 焔蛇の男たちはようやく砌剛の意を悟り、素早い身のこなしで岩影に身を隠す。 砌剛も泰斗と黎華の腕を引き岩影に逃げ込んだ。
「ここなら安心だ。奴らは目があまりよくねぇから、兵たちの方に引き付けられる」
振り返り言う砌剛。黎華はその頬を張り飛ばす。 砌剛は表情を変えず肩をすくめただけだった。
「お、お前はどこまで卑劣なのだ……」
怒りのあまり声が震えていた。砌剛はゆっくりと黎華を見返す。
「俺は何もしていない。そもそも妖魔を引き付けたのはあいつらなんだぜ」
「嘘を言うな!」
もう一度黎華は手をあげるが、それは途中で掴まれ振りおろされることはなかった。
「嘘なもんか……あいつらは兎狸を殺してその血で妖魔を呼び寄せたんだ。妖魔は血の匂いには敏感だからな」
その場にいた全員が振り返ると、そこには黎華の腕をつかんだ亮馬の姿。その後ろには蓮紅が、泰斗の姿を見つけて瞳を輝かせる。
「泰斗!」
泰斗は振り向く前に蓮紅に抱きつかれていた。
「秋穂……お前いったいどうやってこんなところまで来たんだ」
砌剛が呆れたように亮馬と泰斗を力一杯抱きしめる蓮紅を見比べる。
「そんなことはどうでもいいだろ。それよりもこれからどうするかだ」
黎華の腕を放し、亮馬が身近な岩に背を預けた。 兵たちの悲鳴、妖魔の咆哮。それらが聞こえているはずなのに、亮馬の動きは冷静そのものだった。
「ここから出ない限りとりあえずは安心だ」
「あの人たちはどうなるのよ!」
蓮紅は泰斗を抱きながら外を凝視する。
「諦めるんだ。俺たちに妖魔と戦う力はない」
「そんな……」
蓮紅は絶句する。何とかしてあげたいという気持ちはあったが、自分にその力がないことは充分に承知していた。そして、それが目の前にいる男たちも同じだということを。
「妖魔たちは門を護る者だ。神聖なる門の前で人の血が流れれば、それだけでも万死に値する。だから奴らは襲いかかってきた……それぐらいは分かっているはずだが?」
亮馬は冷笑しながら黎華を見る。
「貴様……それを分かっていながら……黙っていたというのか」
黎華は亮馬をに憎々しげに睨つけた。蓮紅は黙って亮馬を見つめる。そこには彼女の知らない亮馬の姿があった。
「誰も俺の言うことなんか聞いてくれないんでね」
「だがそれでも……忠告するのがお前の役目だろう!」
亮馬と蓮紅、砌剛が顔を上げる。 そこには皮鎧に身を包んだ芭聆が立っていた。
「芭聆」
黎華は歓喜に顔を輝かせ、そのまま芭聆に走り寄った。
砌剛は黎華を追いかけようとしたが、上からの妖魔の威嚇音に身を潜めてしまい、姫を捕まえることができない。
「姫、よく御無事で」
黎華と体を入れ替えるように芭聆は剣を構えて前に出る。 その時、再び猫の威嚇音のような音が頭上から降ってきた。
「しまった、見つかったぞ!」
砌剛が黎華と芭聆を突き飛ばした。一瞬の差で鉤爪が宙を掻く。
「貴様の助けはいらない」
「助けてもらってそんなこと言うなよ」
砌剛はぐいと黎華の腕を引く。黎華を引き戻そうとした芭聆を砌剛はぞんざいに蹴り上げた。悲鳴を上げて芭聆は倒れ込む。
「放せ!」
「そうは行くか」
暴れる黎華に当て身を食らわせ、砌剛は黎華を担いだ。
「芭聆さん!」
蓮紅が芭聆を助け起こした。亮馬は冷めた目でその様子を見ている。動こうとしない亮馬に蓮紅は信じられないと目を見張った。
「亮馬……いったいどうしちゃったのよ!」
無表情の亮馬。自分のまるで知らない人間に出会ったようで蓮紅は気持ちが悪かった。今目の前に立っている亮馬は彼女の知っている亮馬とはまるで別ものだった。
「俺は……こいつらがどうしても許せない」
「どうしてよ。困った人がいたらそれが誰であれ助ける。私の知っている亮馬はそういう人だったわ」
「だがここに立っている奴は、お前の知っている亮馬じゃねぇ。こいつは秋穂さ」
砌剛の言葉に芭聆は目を見張る。
「秋穂?……その面構え、確かに……お前はあの秋穂なのか!」
芭聆は蓮紅に支えられながら叫んだ。
「はるか昔に捨てた名だ」
呟くように言う言葉はあまりにも冷たい。
「亮馬」
蓮紅の横で泰斗が、すがるような目で亮馬を見る。 亮馬は黙ったまま、芭聆と蓮紅の前に立つ。蓮紅は身を強張らせ、泰斗は姉を護るように蓮紅の身にしがみついた。
「早くしねぇと妖魔が仲間を呼ぶぞ!」
頭上を振り仰ぎ、砌剛が身を縮める。泰斗たちも頭上を見ると、二匹の妖魔が旋回していた。 兵たちの声はしない。だが気配で辺りに潜伏しているということは分かる。気配を押し殺して身を隠しているのだ。
時折矢が飛んでくるが、それも狙いを定め切れていない無駄矢だった。矢を放つことで注意され妖魔に襲われる兵さえもいた。
「行くぞ」
砌剛に促されて亮馬が踏み出す。
「待って」
蓮紅が亮馬を引き止めた。立ち止まり蓮紅を振り向く亮馬。
「お前たちはここにいろ。もう、ついてくる必要はない」
「いったいどうするつもりなの?」
蓮紅が問う。
「俺も寅神門の向こう側に行く……そして親父を見つけ出す」
「亮馬のお父さん?」
亮馬はただ頷いた。
「こいつの父親の名は、罧忠溜。六年前まで王宮の護衛隊長をしていた」
芭聆は小さく息を吐き、亮馬を睨つけて言葉を継ぐ。
「そして、王宮から天宝を盗み出した張本人だ」
搾り出すように、すべての苦痛を吐き出すようにのどの奥から絞り出す声。寅神門を開くことのできる鳳凰帝国無二の宝。それを盗み出したのが亮馬の父。 天宝が盗み出されたのが六年前、それから二年の潜伏期間と準備期間を経て罧忠溜はこの地へとやってきた。
「そのせいで俺の一族は皆殺しにあった!」
吐き捨てるように言い放つ。蓮紅が驚き亮馬を見た。訳あって街を追い出されたと聞いていたが、まさか皆殺しにあっていたとは思わなかった。ならば亮馬の今までの態度も納得できる。
「鳳凰帝国唯一無二の天宝を盗み出したのだ。一族皆殺しでも手緩い」
「ふざけるな!」
蓮紅と泰斗を荒々しく押し退け亮馬は芭聆の胸倉を掴んだ。
「本当はあの時……お前を殺してやりたかった」
首筋に冷たいものを感じて芭聆は表情を凍りつかせる。
「やめて亮馬!」
蓮紅が必死になって亮馬の腕にしがみついたが亮馬はびくともしない。
「だが殺してしまうと、ここまで来ることができそうになかったからな。生かしておいて利用したってわけさ」
「亮馬やめてよ!」
泰斗も涙を流して懇願したが亮馬の表情はぴくりとも動かない。亮馬は泰斗を見下ろす。
「本当はな……お前の親父さんを引っ張り出したのは、俺の親父なんだ。世界の最果ての向こう。そんなものに魂を奪われて、俺の一族どころかお前たちまで巻き込んじまった。すまないと思っている」
亮馬の一言に蓮紅も泰斗も動きを止めた。
「お前は、我々に責任があるというのか。そもそもの原因はお前の父がしたことだというのに!」
芭聆は肩をいからせ亮馬を睨み返した。
「『失われし太古の記憶の間』には、世に出してはならぬ多くの記憶が眠っている」
聞き覚えのある言葉に泰斗は芭聆を見た。
「それを閲覧したばかりか、その知識を持ち出し。天宝を盗み出した。いいか、四年前に一度、この寅神門は開かれているのだぞ! それがいったいどういうことなのか、お前なら分かっているはずだ」
混沌とした世界に浮かぶ卵。その中にあるのがこの世界だと黎華は言っていた。扉を開くことはすなわち、混沌を招き入れるということになる。
「ああ分かっている。だから俺たちも行くんだ」
「何のために?」
「六年前にどうしてあんなことをしたのか聞き出すためさ。返答次第では親父を殺す。それだけだ」
亮馬の答えはそっけなかった。
「俺もだ……もっとも、こいつと違って俺は泰斗と秋穂の親父たちと酒を飲みたいだけだがな」
そう言って砌剛は白い歯を見せた笑った。
「行かせはせぬぞ!」
芭聆は亮馬の腕を掴む。亮馬はその腕を無造作に払い芭聆の体を岩壁に叩きつける。芭聆は息を詰まらせその場に崩れ落ちた。
「お前を殺してやろうと思ったが、やめた」
それだけ言い。亮馬は背を向ける。
「生きてせいぜい後悔するがいい」
「ま、待て……」
芭聆が腕を伸ばすがそれは全く二人には届かない。 砌剛が黎華を担いだまま岩を登っていく。
亮馬もそれを追い軽々と岩を登っていった。
「おいら……行ってくる」
「泰斗!」
走り出した泰斗を掴もうと蓮紅は身を起こしたが、時既に遅く。泰斗は亮馬たちを追って岩の向こうに消えていった。
「行ってくれ……私のことはいい」
蓮紅は驚いて芭聆を見つめる。芭聆は弱々しく息を吐きながら蓮紅の背を押した。
「でも……」
蓮紅は言い澱む。だが、芭聆の視線に押されるように立ち上がり、砌剛たちの後を追って走り出していた。 芭聆のことも心配ではあったが、蓮紅にとってはやはり泰斗の方が大事であった。 細い岩と岩の間を泰斗は鹿の如く駆けていく。決して平坦ではなかったが、悪路を走ることは泰斗にとって苦ではなかった。 少しだけ足が痛んだ。 走る泰斗の表情は固い。 別れ際に見せた亮馬の表情が今でも脳裏にこびりついている。
(どうしてあんな……)
冷たい表情ができるのだろう。仕事場の人間が見たなら驚きのあまり卒倒してしまうだろう。それほどまでに荒れた表情。瞳の奥に鋭利な刃物を潜ませた相眸をしていた。 そして泰斗にはもう一つ黎華のことが気にかかっていた。彼女だけでも何とかして救い出したいという気持ちが泰斗の中で沸き起こっていた。
「黎華……」
泰斗は駆ける足にさらに力を込めた。