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肆国演義-冒険伝奇-   作者: 山道 歩
第弐章『天鏡之空』
11/14

 天鏡の世界が近づいてくる。

 その時になってようやく、天鏡は単なる鏡でしかないのだと泰斗たいとは悟った。死人の住まう世界。それがただの迷信でしかないと知った時、泰斗たいとの中で何かが音を立てて崩れ去っていった。

 父も母も天鏡の世界になどいない。

 ずっと天鏡から見守っていると信じていた泰斗たいとにとって、頭上に流れる天鏡に映る景色はあまりにも冷たく見えた。


「どうかしたのか?」


 黎華らいか泰斗たいとの顔を覗き込む。

 二人は飛空艇の最後尾、舵を見下ろす場所に腰かけていた。眼下には流れ去る雲が、頭上には天鏡の景色が見える。ずっと見ていると自分が逆さまになって空を飛んでいるような錯覚さえ起こってしまうその景色を、泰斗たいとはぼうっと眺めていた。


「色々なこと」


「色々?」


 黎華らいかが聞き返す。泰斗たいとは黙って頷いた。

「死んだ人たちはみんな天鏡の世界に住んでいるんだって……蓮姉は言っていた。蓮姉だけじゃなくって、街のみんなが言っていたんだ。だから本当のことだって思ってた」


 泰斗たいとは悲しげにうつむいた。


「でも、違ったんだ」


 今にも消え入りそうな声。黎華らいかはたまらなくなって口を開いた。


「確かに、天鏡の世界は迷信かもしれない。この世界は閉じられた世界だ。天鏡とはその蓋にしかすぎない」


 黎華らいかは視線を地平線へと向ける。

 以前はどんなに見上げても見ることのできなかった光竜柱が一目で視野に入る。もうそれほどまで移動しているのだ。そのせいか、昼間だというのに周囲がやや暗くなっていた。


「はるか昔、世界は開かれていたと聞く」


 黎華らいかの言葉に泰斗たいとは顔を上げた。


「だが、天地を揺るがすほどの災いが起き、天帝は災いから人々を守るためこの世界をお造りになった」


 荒れ狂う天変地異から命あるものたちを守るために作り出された世界。それは卵の形をした世界だと黎華らいかは聞いている。


「だが、百年に一度、世界の最果てにある扉を開かなければならない。王族の手によってな」


 泰斗たいとは驚きに目を見開き、黎華らいかを凝視する。


「今回の私の旅の目的はその扉を開くことにあった」


 世界の最果て、妖魔がはびこり雑草すら生えぬ不毛の土地。


「奴らの目的が何なのかを私は知らないが、おそらく奴らの目的は」


「最果ての向こう側?」


 黎華らいかは頷く。


「おそらくそうだろう。あの頭領の言葉からだとそうだとしか思えない……私がいないと扉は開かないからな」


「そうなの?」


 泰斗たいとは首を傾げたが、黎華らいかは強く頷いて答えた。


「世界の最果てにある四つの扉、寅神門、巳神門、申神門、亥神門を開くためには王族の者か、王家に伝わる天宝が必要なのだ」


「天宝……」


 泰斗たいとは呟き、父のことを思う。世界の最果て、その向こうを探し出すと言って出かけていった父は、そのことを知っていたのだろうか。


「だが、天宝は我々の手にない。六年ほど前に何者かによって盗み出されてしまったのだ」


 今までの仕来たりであれば、王族の者がわざわざ世界の最果てに行き扉を開ける必要などなかった。天宝を持った者が行けばよかったのだ。だが、天宝が盗まれてしまった以上、扉を開けるためには王族の者が必要となる。


 天帝との約束を違えてはならない。だから、黎華らいかがその任を果たすことになった。

 泰斗たいとは全神経を黎華らいかの言葉に集中させている。世界の最果てに扉があるなどとは黎華らいかに出会うまで知らなかったことだし、ましてやそれを開ける方法があるなどとは思いもよらなかった。

 同時に胸の奥底から沸き起こる好奇心。

 世界には果てがあり、そこには扉がある。父の夢見ていた最果ての向こう側をこの目で見ることができるかもしれないのだ。


「私は何としても扉を開かなければならない。それが役目だからな」


 真摯な目で黎華らいか泰斗たいとを見る。泰斗たいとは大きく頷いた。


「だが、それはこの世界のためであって、決して賊のためではない」


 黎華らいかはちらりと後ろを見る。屈強な男とひょろりとした男の二人。外室は認められてはいるものの、絶えず二人の監視がついていた。


「お前の父がいったい何のために世界の最果てを目指したのかは知らない。だが、世界の最果てに行くこと事態かなりの危険を伴うことだ。こう言ってはなんだが、おそらくはもう……」


「分かってる」


 泰斗たいとは自分に言い聞かせるように小さく頷いた。


「でも、おいらは生きていると思うんだ」


「そうか」


 それ以上は何も言わず。黎華らいかは前を見た。


「おい」


 野太い声に呼ばれ二人は同時に振り返る。


「寅神門が見えてきた。お前たちも見たいだろ」


 返事を待たず砌剛せいごう泰斗たいとの腕を引き立たせる、泰斗たいとは喜々として、黎華らいかは侮蔑を込めた目で砌剛せいごうを見、飛空艇の最先部へと向かっていった。


「お前、砌剛せいごうといったか」


 声をかけられて砌剛せいごうは立ち止まった。


「いずれ天翔がこの船に追いつく。どうするつもりだ」


「それは俺たちを心配してのことか? それとも警告の意か?」


「もちろん警告だ」


 ふんと砌剛せいごう黎華らいかの言葉を鼻で笑って弾く。それが気に触ったか黎華らいかの表情が険しくなった。


「奴らが追いつくのは分かっているさ。だが、こちらにもちゃんと術策じゅつさくがある」


「無駄だ。やめておけ」


 黎華らいかが言うが砌剛せいごうは首を振るだけで答えてはくれなかった。

 海上を飛行することしばし、空に黒点が見え始めた。

 それを最初に見つけたのは泰斗たいとで、それが妖魔だと叫んだのは黎華らいかだった。砌剛せいごうが号令を発し、部下たちが飛空艇の後部に取りつけられている木箱に火をつける。

 しばらくすると薄い渋色をした煙がもくもくと上がり始めた。煙は上常風に乗って飛空艇を覆いつつ流されていく。


「これは?」


「猿煙といってな、香の一種で妖魔の嫌う匂いだ」


「これがお前の言う秘策か?」


 砌剛せいごうは口の端を上げてただ笑っただけ。その時、操縦室の戸が開き、部下の一人が飛び込んできた。緊張した面持ちで兎狸とりに耳打ちする。兎狸とりは大きく頷いてねぎらいの言葉を部下にかけ、砌剛せいごうを振り返った。


「お頭、天翔が見えてきました」


 黎華らいかがにやりと笑って顔を上げる。


「ようし、やっと追いついたか」


 だが砌剛せいごうは、にやりと笑っただけだった。


「頭、妖魔が!」


 男が叫んだ。黒い影がさっと目の前を横切る。巨大な黒い鳥。脚が長く爪は針のように鋭い。


「大丈夫だ。奴らは攻撃してこない」


 砌剛せいごうの言葉通り、妖魔は近づいてくるだけで一向に攻撃しては来ない。攻撃をしようとはするのだが、何かに邪魔をされてそれ以上接近することができないでいる。

 妖魔は時折威嚇の唸りを上げて飛空艇の周りを旋回していた。


「天翔さらに接近してきます」


「どうやら妖魔からは守れても、我が国の飛空艇にはかなわないようだな」


 皮肉げな笑みを浮かべて黎華らいか。怒り出すかと思われた砌剛せいごうはしかし、それを笑みで返した。


「寅神門が見えてきました」


「ついに来たか」


 部屋で蓮紅れんこうと共に茶を飲んでいた芭聆ばりょうは歓喜に顔を緩め立ち上がった。


 飛空艇は海へと到達していた。光竜柱の光は頂竜の刻に程近い。

 蓮紅れんこうも立ち上がり、芭聆ばりょうに続いて部屋を出る。風に吹き飛ばされそうになりながら、早足で行く芭聆ばりょうの背を追って蓮紅れんこうは飛空艇の最先部へと到達した。


「………」


 驚愕のあまり声が出ない。


「あれが寅神門おうしんもんだ」


 寅神門。蓮紅れんこうたちのはるか前方、光竜柱の光をきらきらと弾く海を越えたさらに向こう、そびえ立つようにして門は針のように天へと伸びていた。


 門は高く山々の鋭い山嶺よりさらに逸脱して天へと伸びている。

 天鏡と大地との間に見える太い雲、神審輪しんしんりんと呼ばれるその雲は左右へと視線を巡らせれば、ぐるりと世界を囲むように広がっていた。


「ずいぶんと大きいんですね」


「ああ、天を支える門とも呼ばれるくらいだからな」


 やはり興奮しているのだろう。芭聆ばりょうもじっと前方を凝視したまま動かない。


「実は私も見るのは初めてなんだ」


 芭聆ばりょうの呟きが蓮紅れんこうに届く。蓮紅は驚いたように芭聆を見つめた。


「なにせ百年に一度のことだからな。それ以外では世界の最果てになど行く者はまずいない」


「どうしてなんですか?」


「世界の果てには妖魔がいるからだ」


「妖魔……」


 蓮紅れんこうははっとなった。


あやかしや魔物を総称して我々はそう呼んでいる。世界の最果ての番人だ。人里に出てくることはほとんどないが……」


 そう言って芭聆ばりょうは眼下を指さした。


「あれが、見えるか?」


「あれは……なんです?」


青い海、その下を巨大な何かが泳いでいる。


「あれは硬殼魚といって妖魔の一種だ。この飛空艇よりも大きい。狂暴ではないが、たまに船を目がけて浮き上がってくることがある。そうなればたいていの船はひとたまりもないな」


 芭聆ばりょうは海の影を指さしてそう言った。蓮紅れんこうは驚嘆し海を見下ろす。


「世界の最果てに近づけばさらに危険度は増す」


「大丈夫なんですか?」


「大丈夫かもしれない我々はな……しかし、問題なのは奴らだ。奴らが死ぬのは構わないが姫まで巻き込まれては困る。何とか寅神門にたどり着く前に奴らを捕まえなければ……」


 蓮紅れんこうは頷きつつ再び視線を門へと向けた。


 その視線の端に何かが映る。


「あれ?」


 蓮紅れんこうの声に反応して、芭聆ばりょうも前を見た。


蓮紅れんこう

芭聆ばりょうさん」


 二人は同時に見つめ合う。


芭聆ばりょう様!」


 時を同じくして見張りをしていた兵が、悲鳴に近い声を上げた。


「分かっている……」


 芭聆ばりょうは唇をかみ締める。

 すぐに伝令の兵が芭聆ばりょうへと駆け寄ってきた。兵が報告をする前に、それを制して芭聆ばりょうは考え込む。

 二人にはおそらくは焔蛇えんじゃのものと思われる飛空艇が見えていた。しかし、その飛空艇は煙をあげ、そしてそれに向かって黒い点が何度も接近と離脱をくり返している。


「あれは……」


「妖魔に襲われているな……全員攻撃準備!」


 伝令の兵が走り芭聆ばりょうもその後を追う。


芭聆ばりょうさん」


「心配するな、この辺りの妖魔はそれほど危険ではない。何とかなる」


 振り返らずに芭聆ばりょうは言いそのまま駆け出していく。

 兵たちが慌ただしく動きだし、飛空艇は騒然となった。


「おっ、やっと追いついたみたいだな」


 どこから現れたのか、蓮紅れんこうの横に立ち、亮馬りょうまがのんきな声で前方を仰ぎ見る。

「今までどこに行ってたのよ」


「どこにって……こんな狭い船の中だ。行くところはたいてい決まっているだろ」


「じゃあ兵の訓練を邪魔してたの?」


「当たり」


 悪びれもせずに亮馬りょうま蓮紅れんこうは溜め息をつく気力もなかった。

 そうしている間にも、飛空艇は帆を張り速度を上げる。焔蛇えんじゃの飛空艇がどんどん近づいてくる。


「炸裂弾用意!」


 伝令の声が響き渡った。兵たちが動き、飛空艇の両端に設置されている大砲の張り布を取る。磨きあげられた黒鉄の砲身。弾が運び出され、敵を狙う狙撃師、火縄を持った発射師がそれぞれ位置についた。


蓮紅れんこう、俺たちは邪魔にならない場所行こう」


 蓮紅れんこうの返事を待たずに亮馬りょうまは彼女の腕を引く。そう言ってたどり着いた場所は、飛空艇の操縦室だった。


「ここなら誰の邪魔にもならない」


「ここは関係者以外立ち入り禁止だ。とっとと失せるんだな」


 武将の一人が剣に手を掛けて、亮馬りょうまを睨みつける。これ以上は入ってくるなという完全な脅しだった。


「この緊急事態になにを莫迦ばかなことを言っているんだ?」


 亮馬りょうまの一言に操縦室の空気が一瞬にして殺気立つ。


「それにお前たちはこのまま莫迦正直に弾を発射していったいどうするつもりなんだ?」


「妖魔を撃墜するに決まっている」


 顎髭を生やした武将がずいと前に出た。

 亮馬りょうまはその男を侮蔑を込めた眼差しで見る。


「妖魔が炸裂弾程度でどうにかなると本気で思っているのか? かえってこちらの状況を不利にさせるだけだぞ」


「きさま。儂を愚弄する気か!」


 武将は顔を赤らめ、息も荒々しく亮馬りょうまにつかみかかる。

 亮馬りょうまはその場を動かなかった。ただ動かしたのは手先のみ。

 亮馬りょうまが弾いたのは果実の種だった。


「ぐえっ!」


 眼を押さえ武将がひるむ。その隙を突いて亮馬りょうまは武将を殴り飛ばした。武将は眼を押さえたまま受け身を取ることもできずに無様に壁にぶち当たる。


「相変わらずやることが荒々しいな」


 芭聆ばりょうは全く意に介したふうもなく平然としていたが、その隣で蓮紅れんこうは顔面蒼白になっていた。


「き、貴様……不意打ちとは卑怯な」


 武将たちが亮馬りょうまを取り囲む。


「不意打ちを卑怯というなら、多勢に無勢のこの状況も卑怯だと言えるな。それに、今はこんなことをしている状況ではないと先から言っているだろ。早くしないと姫様の乗った飛空艇が妖魔の腹におさまっちまうぞ!」


 武将たちはすぐに青くなった。


「素人が生意気なことを言うな! ええい、かまわん炸裂弾発射だ!」


 武将の合図に従い、弾が発射された。

 耳を聾するほどの爆音。操縦室をびりびりと震わせて炸裂弾が空を横切る。弾数は二だ。 弧を描いて弾が飛ぶ。だが、妖魔はそれを難なくすいとかわす。それた炸裂弾は少ししてから光を伴って爆発していった。


「避けられました」


「そんな!」


 さらに何発かの炸裂弾が発射されたが、そのどれもがあっさりとかわされ、または届く前に落ちていった。


「おい……まさかと思うが、空中戦は初めてか?」


「当たり前だ」


 芭聆ばりょうの言葉を聞いて亮馬りょうまは大きく溜め息をついた。


「どうりでこんな莫迦なことを思いつくわけだ」


 亮馬りょうまの皮肉げな言い回しに、芭聆ばりょうは振り返った。


「どういうことだ?」


焔蛇えんじゃの煙は火災でもなければ煙幕でもない。妖魔を寄せつけないための香だ」


 亮馬りょうまの言葉に武将たちの表情が一変した。


 芭聆ばりょうも口をあんぐりと開け亮馬りょうまを見る。


「だいたい考えてもみろ。自分よりも足の速い敵が迫ってきているのを知っていて、それでも先行する奴がいるか? 俺ならどこかに隠れてやり過ごすか、待ちぶせして奇襲をかけるか……」


「だが、空では隠れることはできまい」


 芭聆ばりょうは腕を組む。


「だから奴らは先行したんだよ。俺たちが追いつくことを計算に入れて」


「それはいったいどういう…」


 芭聆ばりょう亮馬りょうまの顔を覗きこんだ。


芭聆ばりょう様!」


 兵が悲鳴を上げる。

 何事かと振り返った芭聆ばりょうは驚きのあまり声にならない悲鳴を上げた。


「妖魔が迫ってきます!」


「そして、俺たちが攻撃をしかけて妖魔を引き付けるのを計算に入れていたんだ」


 亮馬りょうまの声を芭聆ばりょうは冷静に聞いていた。






 兎狸とりが舵を取り、飛空艇の各部所では全員が緊張した面持ちで作業を進めている。

 黎華らいかは蒼白のまま砌剛せいごうをねめつける。


「貴様……何と卑怯なことを」


「何とでも言いな」


 部下たちの動きと報告に全神経を集中させて砌剛せいごうは冷たい声で言う。

 妖魔たちは去っていった。

 正確には砌剛せいごうたちを追ってきた天翔へと向かっていったのだ。


「妖魔でも人でも襲いやすい方を襲う。当たり前のことだ」


 ぎりぎりと黎華らいかの歯ぎしりが聞こえ、泰斗たいとはおびえたように黎華らいかを見つめる。


「それに忘れるな。俺たちは盗賊なんだぜ」


 兎狸とりが声を上げて笑った。黎華らいかは歯を食いしばる。

 足もとで鎖が乾いた音を立てた。


「安心しな、こいつらはそれほど狂暴じゃない。運がよければ切り抜けられるさ」


「運がなかったとしたら?」


 憎々しげに言う黎華らいかに、砌剛せいごうは笑って答えた。


「それまでってことだな」


「貴様は……人間のくずだな」


 黎華らいかは吐き捨てるように言った。


「なんだと」


 砌剛せいごうが荒々しく黎華らいかの肩を掴み、黎華らいかは身をよじってそれを避けようとする。だが砌剛せいごうの堅く大きな手はあっさりと黎華らいかの肩を掴み、ぐいと彼女の小柄な身を引き寄せていた。


「お前たち……そこまでしていったい何を企んでいる?」


 砌剛せいごうはただにやりと笑っただけ、黎華らいかが周りを見回すと男たちも真摯な面持ちで砌剛せいごう黎華らいかを見比べている。

 黎華らいかは理解に苦しんだ。世界の最果て、その向こうは何もない世界だと言われている。それははるか昔から王家に言い伝えられている事、黎華らいかの信念そのものだった。


「世界の果てには何もないんだ」


 黎華らいかの言葉が響く。砌剛せいごうは黙って黎華らいかの前に座った。椅子がみしみしと悲鳴のような音を立てる。それに構わず、砌剛せいごうは椅子の背もたれを抱き込むようにして座り、椅子の背にあごをのせて黎華らいかと向き合う。


「本当にそう思うのか?」


 遠くから爆音が響く。ささやき合う男たちの声で、天翔が妖魔に対して攻撃しているのが分かった。


「五年前のことだ。その頃俺はただの荒くれでな、兎狸とりが唯一の仲間だった」


 ちらりと視線を変え、隣に立つ兎狸とりを見る。


「ある時、俺は商人の荷馬車を襲った。何の術策じゅつさくもなしに、兎狸とりと二人でだ……結果は大敗退、命だけは助かったものの二人共大怪我しちまってな……」


 傷を負い、共に支え合いながら岩陰に隠れる砌剛と兎狸。満身創痍まんしん、既に立つ気力も悪態をつく余裕もなかった。


「その時に助けられたんだ。こいつの親父とその仲間にな」


 砌剛せいごうの視線を受けて、泰斗たいとは戦慄が背筋を這うのを感じた。


「こいつの親父、いや、欽杷苙きんはりゅうは俺たちを救ってくれたんだ」


 何もかもが絶望的な状況の中で、杷苙はりゅうは砌剛たちを救った。怪我の治療を行い、水と食料を与えてくれたのだ。


「あいつらは世界の最果てを目指すと言っていた。そして、その向こうにも行ってみたいと……」


 それは砌剛せいごうたちにとって何の得にもならないことだった。それを一生懸命目指す杷苙はりゅう達。


 初めは夢物語をかたくなに信じて突き進む杷苙はりゅう達を心の中では笑っていた砌剛せいごう達だったが、彼らの話を聞くうちにふつふつと胸の中に熱いものがこみ上げ来るのを知った。


「俺はその時、損得抜きであいつらについていきたいと思ったさ」


 体力が回復したとはいえ、それでも二人の怪我は大きく、長旅に耐えられるとは到底思えなかった。


「出会ってから三日目に俺たちは杷苙はりゅうたちと別れた。だが別れる時に俺は誓ったんだ。いつの日にか、俺も世界の最果てを目指すってな」


「だからといって他に方法はなかったのか?こんなことをする必要なんてないだろう」


 黎華らいかは拳を握りしめる。考えれば世界の最果てに行く方法などいくらでもある。そう思えた。


「じゃあ聞くが、俺たちにいったいどうやって世界の最果てに行けっていうんだ? 頼み込めばお前たちが連れていってくれるとでもいうのか?」


 黎華らいかは言葉に窮する。

 砌剛せいごうの言うことももっともだった。


「俺たちに選択の余地はなかったんだ」


 砌剛せいごう黎華らいかを見、黎華らいかは押し黙ったまま砌剛せいごうを睨らむ。

 しばしの間、二人の間に沈黙があった。


「お頭!」


 男の一人が大声を上げ、二人の間の沈黙を打ち破った。


「どうした」


 振り返りもせずに砌剛せいごう


「天翔が妖魔を打ち倒してこっちに向かってきています」


「何だと!」


 男をつき飛ばす勢いで砌剛せいごうが操縦室を出、甲板の手すりから身を乗り出す。

 天翔は煙をあげながらも飛行していた。時々放たれるのは火矢。

 矢を食らった妖魔はまるで油を染み込ませた布のようにてらてらと燃えていく。

 威嚇音をあげながら妖魔は天翔の周りを旋回する。相手が油断ならぬ相手だと悟ったのだろう。


「向こうに妖魔の弱点を知っている奴がいるな」


 感心したふうの口調で砌剛せいごうが呟いた。同時に舌打ち、苛々と振り返る。


「おい、風凧を用意。全速力でここを抜けるぞ」


「風凧だ!」


 兎狸とりが復唱し、男たちが動き始める。


泰斗たいと、私たちは邪魔にならない場所にいこう」


 黎華らいか泰斗たいとの手を引いて操縦室の隅へと移動する。泰斗は何か黎華に言いたいふうであったが、真摯しんしに考え込む黎華を見てやめた。

 泰斗たいとは窓から外を見、目を見張る。

 飛空艇の前部から巨大な凧が二つ飛び出していく。凧は風をいっぱいに受け飛空艇にぐんと加速がかかった。

 天翔がどんどん遠ざかっていく。


「向こうは妖魔にやられて早くねぇ。結果的には追いつかれるかも知れねぇが、その時までに世界の最果てにたどり着ければそれでいい」


 砌剛せいごうの言葉に男たちはただ頷いた。世界の最果てを目指す。ただそれだけのためにこの男たちは動いているのだ。


「世界の最果て……」


 泰斗たいとは夢見るように呟いた。父の目指していた場所、自分が目指していた場所だ。


「世界の最果てには何もない。行ってどうする? もう逃げ場はないんだぞ」


 呆れ顔で黎華らいか砌剛せいごうはただ黙ってそれを見返した。


「寅神門がある……その向こうに俺は……俺たちは行ってみたい」


「莫迦なことを」


「莫迦なことか……だろうな」


 怒るわけでもなく砌剛せいごうは冷静にその言葉を受け止めた。

 兎狸とりを見ると彼は黙って、砌剛せいごうを見つめている。


「おいらも……一緒行きたい」


 泰斗たいとが呟き、黎華らいかも含め全員が驚きの目で泰斗たいとを見つめた。




 飛空艇はやがて雲の中へと突入した。

 それから約一日。飛空艇は灰を撒いたような重い雲の中をひたすら飛び続けた。

 天翔の動きは分からない。まだ飛び続けてはいるだろうが、いったいどの辺りを飛んでいるのか、見当をつけることすらできなかった。

 泰斗たいとはその日も砌剛せいごうに交渉していた。曰く自分も世界の最果ての向こうに連れていってくれと。


「あのなぁ、俺たちだって死ぬ覚悟で行くんだ」


 操縦室の床に寝転がり、目だけを上げて砌剛せいごう泰斗たいとを見上げる。


「おいらだって役に立てると思うんだ」


 泰斗たいとはすがるような目で砌剛せいごうを見た。黎華らいかは黙って殺気立った顔で泰斗たいとの後ろに立っている。

 兎狸とりはその三人の様子をおもしろそうに眺めていた。


「なぁ、頭はどうすると思うか?」


 隣に立っていた男を捕まえ囁く。


「さぁね。俺には分からねぇな」


 男の答えはそっけなかったが、泰斗たいと黎華らいかの二人から目を離すことはなかった。今は兎狸とりとこの男が二人の監視役だった。

 兎狸とり黎華らいかから一時も目を放さない。彼女が一番危険な存在だと彼は判断していた。

 砌剛せいごうは確かに油断のない男だが、完璧ではない。一瞬の隙をついて黎華らいかが何かするとも限らなかった。


「このまま姫様がおとなしくしていればいいが……」


 兎狸とりが呟いたその時。

 飛空艇にぐんと加速がかかった。それも今まで感じたことがないほどに。


「どうした?」


 さすがに不思議に感じて砌剛せいごうは弾かれたように起き上がり操縦士の肩をつかむ。


「突然風が強まったんです。舵も効かない!」


 男の声は最後に悲鳴になった。

 殴られたような衝撃が飛空艇を襲う。黎華らいか泰斗たいとにしがみつき、泰斗たいとはよろよろとなって砌剛せいごうにしがみついた。その肩を砌剛せいごうの力強い腕がぐいと抱く。


「足を踏んばれ……おい、風凧を切り離すんだ」


「とっくにやっています!」


 操縦室が大きく傾いだ。

 固定されていない小物がすべて、板床を転がっていく。がたがたと窓が唸りをあげ、男たちは柱にしがみつくのに必死だった。

 雲が周りを覆い、いったいどうなっているのか状況の判断ができない。

 しばらくの間、砌剛せいごうは黙って飛空艇の前方を凝視する。

 不意に雲が途切れた。

 そして、視野が開け目の前に現れたものを見て砌剛せいごうは目を見開く。


「しまった……神審輪しんしんりんか」


「神審輪!」


 黎華らいかが悲鳴を上げ目をきつく閉じる。

 天帝が虚ろ世の魂を裁き、封じ込めるために造られた世界の最果てにあると言われる途方もなく巨大な雲の輪。輪と言うが、実際泰斗たいとたちの目の前にそびえるそれは巨大な雲の壁だった。

 遥か下方から果てなき上空へと雲が流れていく。その中に混ざる黒い点は妖魔か、空を我が物顔で飛ぶ妖魔ですら神審輪に飲み込まれればひとたまりもない。


 世界の中央、光竜柱で起こった上昇気流は天蓋を流れ世界のふちへとやってくる。そこで世界の壁を下方に流れ再び世界の中心に流れ行くのだ。その時に起こる巨大な気流の渦、それが神審輪しんしんりん。世界を囲む壮大で巨大なの塊だった。


 その巨大な風の流れが目の前にある。既に飛空艇は逃れることのできない位置にまで引き寄せられていた。


「頭、天翔が迫ってきてます」


 兎狸とりが仲間の伝令を受け、砌剛せいごうに伝える。


「この糞忙しいときに!」


 砌剛せいごうが舌打ちしながら窓際まで走り後ろを見る。

 飛空艇が一隻迫りつつある。


「ちっ、あいつらまで流されてやがるぜ」


 鳳凰ほうおう帝国最大の飛空艇、天翔も砌剛せいごうたちの飛空艇に迫ろうとしていたが、風に翻弄され横に流されつつあった。

 動力炉を全開にし、逃れようとしているが飛空艇が大きいためにそれも効を成していなかった。

 周りには既に妖魔の姿はない。

 危険を察知した彼らは既に彼方へと飛び去っていったのだ。

 雲が唸りをあげ飛空艇を叩く。


「畜生、このままじゃ船がばらばらにされちまうぞ」


 兎狸とりが死に物狂いに操縦席にしがみついている。

 操縦士は体が動かないよう席に体を固定しているが、何もできずただ舵を握っているだけだった。


「やばいな、このままじゃ下降も出来ねぇ」


 深刻な顔で砌剛せいごうが独白する。

 今飛空艇は上常風を利用して飛行している。夜間は下常風を利用して飛行しなければならない。よって昼と夜の境目、陽が沈んでしばらく後、上常風と下常風が止む時、その一瞬でしか、飛空艇を下降することはできない。もし時期を見誤れば飛空艇は風の境界線に飲み込まれ瞬時に引き裂かれてしまうのだ。

 だが、今砌剛せいごうたちの飛空艇は風の刃に引き裂かれるどころか粉砕されようとしていた。神審輪は既に目の前にあった。


 泰斗たいと黎華らいかも男たちも、砌剛せいごうまでもが動くことができずにただじっと歯を食いしばって迫り狂う激震に耐えていた。

 揺れがさらに激しくなり、飛空艇全体が悲鳴を上げた。

 窓に張られていた硝子が砕け、風が室内を舞った。

 あまりの強さに目を開けることもできず、耳に飛び込んでくるのは風の唸りと、男たちの叫び声。


泰斗たいと!」


 黎華らいかがさらに力を込めて泰斗たいとを抱きつく。揺れはひどく足が地についている感じは全くない。


(こんなところで死んでたまるか!)


 泰斗たいとの頭の中にはその言葉だけが鮮明に浮かび上がった。

 風の唸りも地の揺れもすべてがどこか遠くの出来事のように曖昧になっていく。

 ただしっかりと感じ取れたのは、しがみつく黎華らいかの腕の感覚だけだった。

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