参
飛空艇「天翔」は夜の下常風を利用して東へと向かっていた。目的地は寅神門。遥か東、世界の最果てにある門だ。
夜といえども飛空艇の中では絶えず軍議が行われていた。それ以外でも兵たちは飛空艇の整備に、また剣の訓練にと余念がない。その中で亮馬はただ甲板の上に寝転がり高鼾をかいている、そして時々起き出しては兵たちの訓練を邪魔していた。
そんな中、蓮紅は終日つくねんと空ばかりを眺めている。
「何だか信じられない」
飛空艇の甲板、手すりに身をもたれさせ、蓮紅は一人呟く。夜風が髪をなびかせ乾いた土の匂いが鼻腔をくすぐる。この匂いをかいでいるだけで泰斗のことを思い出してしまう。
毎日土の匂いを体中に染み込ませて帰宅する泰斗。また近くの丘に登って、汽車が来るのを眺めていたのだろうと蓮紅は溜め息交じりに嘆いたものだ。
だが、それを今では懐かしく思えてしまう。ほんの数日しか会っていないはずなのに、今ここにいないというだけで、ひどく寂しかった。
「泰斗……」
「眠れないのか?」
唐突に背後から声をかけられる。びくりとして振り返ると、そこには私服の芭聆の姿。
「弟のことは心配するな。姫と一緒であれば早々危なくなることもあるまい」
そう言って、蓮紅の隣、手すりに寄りかかる。
蓮紅は不思議な思いで、隣の芭聆を見る。
結った髪をほどき、いかつい鎧を脱いだだけで、彼女は妖艶な美女へと変貌していた。外見が美女でありながら言葉づかいが男であるのに、蓮紅は可笑しさを感じる。
「何か可笑しいか?」
芭聆は首を傾げて蓮紅の顔を覗き見た。
「だって、美人なのに言葉づかいが男なんですもの」
「お前は、姫と同じことを言うのだな」
芭聆は薄く笑った。芭聆の髪が風に舞い揺れた。
「お前、剣の心得があるそうだが、誰に習った?」
「父からです…母は女がそんなものを覚えてもしょうがないって、よく嘆いてました」
言ってから蓮紅は小さくくしゃみをする。
「ここにいては風邪をひくぞ。中に入って温まるといい」
芭聆は蓮紅の手を引いて部屋の中へと導いた。
「えっ、でも……」
蓮紅は戸惑う。そこは芭聆に当てられた部屋。もちろんこの船の中で二番目に上等な部屋である。
「心配するな」
そう言って芭聆は口の端をあげて笑った。
戸を開けると、目に飛び込んできたのは鮮やかな紫の色。絨毯から壁、天井に至るまですべてが紫。
蓮紅は部屋に圧倒され声すら出せない。細かな装飾品に至っては、黄金や銀などを使い巧みな技巧を凝らした物が多いが、それを上回って、紫が視野を占めていた。
「すごい部屋ですね」
「初めて入った者はみんなそう言うな」
芭聆は椅子に腰かける。
漆塗りの卓上にある急須に茶葉を入れ、湯を注ぐ。しばらく経ってから、湯飲みに注いで茫然と立ちつくす蓮紅を見上げた。
「座ったらどうだ?」
「あっ、はい」
慌てたように蓮紅も椅子へと腰かけ、陶器の湯飲みへ手を伸ばす。湯飲みは熱く、蓮紅は弾かれたように手を引っ込めた。
「熱かったか?」
蓮紅は小さく頷く。それを見て芭聆は苦笑した。
「………」
「………」
沈黙が続く。
二人はしばし無言のまま椅子に腰かけていた。蓮紅は手をもじもじとさせたまま、言葉を探している。
「私が怖いか?」
唐突に芭聆が口を開いて言った。
「いえ、そういうわけじゃないんです」
蓮紅は激しく首を横に振る。
「分かっている。冗談だ」
芭聆はくつくつと笑い、懐から煙管を取り出す。
「莨を吸われるんですか?」
「ああ、たまにな」
卓上の灯火の火を煙管に移し、芭聆は莨の煙を楽しむように吸い込む。体に煙が染み渡り、芭聆はゆったりと椅子に身を沈めた。
蓮紅は周りの装飾品に目を奪われながら、芭聆の邪魔をしないようにと気配を殺していた。
「蓮紅といったか」
あまりにも唐突に名を呼ばれ、蓮紅は素早く反応することができなかった。
「はい?」
「お前はあの男をどう思っているんだ?」
「あの男?」
「お前と一緒にいるあのふざけた男のことだ」
芭聆の言葉に蓮紅は、ああと頷いた。
「亮馬のことですね」
「何であんな男を連れてきたのか……私自身今でも不思議でしょうがない」
何度も頭を振りながら、芭聆は煙管を卓上の灰皿の上に置く。ゆらりと煙が立ちのぼり、やがてそれも消えていった。
「お前もあんな男とつき合っているとロクなことにならないぞ」
「つき合ってません!」
芭聆は強く言い返した。
「そうか、私はてっきり二人は恋仲だと思っていたのだが、私の勘ぐりだったらしいな」
蓮紅は頬をふくらませたまま大きく頷いた。おもしろそうに芭聆はそれを見て笑っていたが、すぐに真顔に戻る。
「あの男、ずいぶんと私を嫌っているみたいだが」
「亮馬のこと……怒ってます?」
芭聆は蓮紅を見つめる。美女に見つめられ同性であるはずの蓮紅も赤面してしまった。
「人それぞれ好みがあるからな。私はそれを咎める気などない」
そう言って芭聆は喉に手を置く。締めつけられた痛みと、その時に感じた死の恐怖が彼女の顔を強張らせた。
「彼のこと、悪く思わないで下さい」
「なぜだ?」
「彼の父は軍人だったそうです。でも、軍を追われて……そのせいで亮馬の家族は街を出ていかなければならなかったんです」
芭聆は表情を動かさずじっと蓮紅の言葉に聞き入る。
「それで、あいつは我々を憎んでいるというのか?」
芭聆の言葉に力が入る。蓮紅は首を振って呟くように言う。
「いいえ、彼が本当に憎んでいるのは……自分自身だと思います」
一つ息を吐いてから、蓮紅は再び言葉を継いだ。
「だから、死ぬ気で闘うことができるんだと思います」
蓮紅の脳裏に砌剛へと戦いを挑む亮馬の姿が映った。結局は勝つことができなかったが、否、勝てるはずのない戦いだった。周りには砌剛の仲間、それだけの相手を目の前にして、勝てる見込みなどまったくなかった。
それでも亮馬は戦った。泰斗と、そしておそらくは黎華のために。
「いつ死んでも後悔しない…あいつはそういう生き方をしているように思えたが」
芭聆の言い様に蓮紅は笑う。つられて芭聆も笑った。
「お前もただこの船に乗っているだけでは居心地が悪いだろう」
芭聆はさりげなく言い、蓮紅は頷いた。
振り子時計の時を刻む音だけがやけに大きく響く。
「料理はできるか?」
「はい、今までずっと飯店で働いていましたから」
芭聆はその言葉を聞いて、笑みを浮かべる。
「ならば、この船の食堂で働いてはどうだ? もちろん専用の者はいるが、何しろ男ばかりだから、何かと味に疎くてな。お前がいてくれると私も安心して食事ができる」
「安心?」
蓮紅が首を傾げると、芭聆は軽く笑った。
「この船に女は私とお前しかいない。もし姫が乗られるのであれば女官を乗せたであろうが、事態が切迫していたので女は乗っていないのだ……だから女というだけで目立つ」
芭聆は当たり前の如く言った。それに、もともと軍自体に女は少ない。とも言った。
「あの男はあの男なりに、時々兵たちに稽古をつけている……やり方はまずいが、乱闘のときは大いに役に立つ」
紫の部屋に二人の笑い声だけが響いていった。