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カゲロウ

作者: 春日部 水鳥

 何もない。何もない。何もない。

 ここは見渡す限り白くて、上下左右もわからない。

 自分が立っているのか、寝転んでいるのか、座っているのか、それさえもわからない。

 だけど、私の体には確かに熱や重みが残っている。懐かしい香りと。

 それらは誰から与えられたものなのか。

 知っているはずなのに、考えてもわからない。

 きっと私は彼を好きだったはずで。きっと。

 遠くから声がする。これは私の大好きな歌だ。この声を聞いた事がある。よく知っている。

 でも誰だかわからない。

 思い出さなきゃいけない。思い出さなきゃ。

 じゃないと彼がさみしがってしまう。そんなの困る。

 だって、こんなにも私が砕けそうな痛みを感じるんだもの。彼だって同じはず。

 同じでなければならないはず。だって、愛してた。そう、私達は愛し合ってたはずだもの。

 彼を探さなきゃ。ああ、でも。体が動かない。どこへ向かえばいいのかもわからない。

 どうして。早く行かなければ。彼に会わなきゃ。

 助けて。彼に会わなきゃいけないのに。白紙の世界が私をどこにも行かせてくれない。

 彼の名前を呼びたいのに、名前も思い出せない。何度も何度も呼んだはずなのに。忘れるはずがないのに。

 どうしたらいいの。何もかも壊れてしまいそう。

 彼はどこにいるの。顔も名前もわからないけれど。ああ、どうか、私のところに。

 愛しい声が私を呼ぶ。

「キョンちゃん。」


 激しい痛みに目を開けると、見慣れた天井があった。

「また悪夢見たの?」

 マナトがラグの上であぐらをかきながら、こちらを見た。

「そんなにひどかった?」

 額にうっすらかいた汗を手で拭いながら聞くと、マナトは目を伏せて頷いた。

「そろそろ悪夢の理由、教えてくれない?トラウマとか?」

 ベッドの上で三角座りをすると、滲む涙を布団に押し付けて、首を横に振った。

 マナトに話せるはずがない。

 昔の男に未だに恋焦がれる夢を見てうなされているだなんて。


 二年前の秋だ。私が二十四歳になった三週間後、三十三歳になるヨウのお祝いをした時に、私から別れを告げた。

 ヨウは私の事を、キョウコではなくキョンちゃんと呼んだ。

 私も、タイヘイヨウのヨウの字のヒロシではなく、ヨウと呼んだ。

 そこに深い意味があったのかと言えば、なかったような気もするし、あるとすれば誰も呼ぶ事のない二人だけの呼び名を作りたかった、のかもしれない。

 半年続いたヨウとの関係は、恋人と呼ぶには不完全なだらしないものだった。

 体だけと言い切るにはあまりに心が繋がりすぎていて、心だけと言うには体を知りすぎていた。

 自分の半身のようなお互いを愛する事も必然で、同族嫌悪に苛まれるのも必然で、愛情なのか狂気なのかわからない程に相手を欲していた。

 私達はお互いの全てを欲しがった。全てを与えたがった。

 いつの時代も愛は破滅的だ。

 悲劇的な結末が容易に想像できた。

 つまりどちらかがどちらかを手にかけてしまうまで、という結末だ。

 それを延期し続ける事をいいとは思えなかった。もちろん、それを迎える事も。

 乱れもつれ込んだ愛情は、とても歪で悲劇的な結末をいつにするか、離別するかのどちらかしかなかった。

 そして、私は別れを選んだのだ。私が、別れを選んだのだ。

 ヨウを、守りたかったから。ヨウだけは、壊したくなかったから。

 本当は、自分の口から告げたくはなかった。

 ヨウを、愛していたから。

 だけど、愛しているからこそ。

 自分がヨウを愛しているという気持ちよりも何よりも、ヨウ自身を壊さずにいたかったのだ。

 別れてから、何度も何度も道行く人にヨウを探した。合鍵は返したはずなのに、ヨウの部屋へ足を進めたくなった。

 考えても考えても愛なんて、所詮はどこまでいってもエゴにまみれたものでしかないのかもしれないと、自分の選択を思い起こした。

 もしも別れなかったら、もしも違う別れが来る時を待っていたら、沢山のもしもを想像した。

 現実にならないもしもは、私の心に暗い影を作るだけで、今日一日を終える事すら実感がなかった。

 抜け殻のようにふわふわと世界を彷徨い、ヨウのいない現実を現実とは思えずに。

 それでも、上手に息をしていた。

 毎日、苦痛で仕方なかったけれど。

 傷つける為じゃなく、救済の為の別れならば、正解でなくともせめて間違いではなかったのだと言い聞かせていた。

 喪失感と、ヨウと交わした満ち足りた愛情との矛盾を抱えたまま。

 バイトを辞めていた私は、別れからしばらくして就職活動をし、ショップ店員として就職が決まった。

 主に洋服を扱う店内で、お客さんの試着に付き合ったり棚卸しをしたりの、あのお姉さんをやる事になったのだ。

 女ばかりの職場は陰湿な感じで気後れしていたが、思ったよりも馴染めて安心した。

 そして、ショップ店員同士のコンパに参加したのが一年前。

 ヨウと別れてから、恋愛をする気なんて欠片もなかったし、行きたくなかったのだけれど、頭数合わせだからと強引に連れて行かれた。

 そのコンパでマナトと出会った。

 私以外のメンバーがやけに盛り上がって、全員で連絡先交換という流れだったので、逆らえなかった。

 翌日からマナトの猛攻撃を受け、心底うんざりしていた。

 二歳も年下で、いかついシルバーアクセのショップ店員なので、私からすればそれなりに軽い男にも見える格好をしていた。

 だけど、そんな事はどうでもよかった。

 ヨウ以外の男なんて、欲しくなかった。一緒にもいたくなかった。

 職場では実は私はレズなんじゃないかと噂されている事も知っていた。それでもよかった。彼氏いないイコール同性愛者、なんて安易な思考に、いちいち付き合うのも馬鹿らしかった。

 マナトに会わないまま、二ヶ月が過ぎ、暑い暑い夏を迎えた。

 自宅からヨウの住んでいる部屋は、駅に行く途中の道を逸れて、入り組んだ住宅を抜けるのだけれど、一度も会う事はなかった。

 別れてからもうすぐ二年だというのに、ただの一度も会う事もなかった。

 ただの一度も。

 人は会おうとしないと、会いたい人には会えないのか、と思った。

 ある日、仕事帰りに空腹に耐え切れず牛丼屋に入り、外が見える奥のカウンターでそれをかき込んでいた。

 マナトからの誘いがまたケイタイを鳴らして、ため息をついた時。

 お箸を持ち直そうとした手が震え、テーブルに落としてしまった。

 そのたった数秒を永遠のように長く感じたのは、きっと、心が壊れたから。粉々に、形さえわからなくなるくらいに。

 見間違えたりなんかしない。絶対に。暗い夜でも、道行く人に紛れていても、私がヨウを見つけられないはずがない。

 ヨウは女の子と歩いてた。

 仕事で疲れて牛丼食べてる私の前を、女の子と歩いてた。

 反射的に体が動いて、加速する鼓動に合わせて勝手に足を踏み出す自分がいた。

 だけど、たった数メートルで我に返り、追い駆けるなんて、ストーカーじみていると思った。

 立ち止まると、一気に感情の波が押し寄せて、その場で顔を手で覆った。

 女好きのヨウが一生私だけを思い続けて独り身でいるなんて自惚れた考えは持ち合わせていなかった。だけど、別れの時に二人は一点の曇りもなく愛し合っていて永遠にそれは変わらないと共鳴したはず。

 例えば、一生ふたりぼっちになる事はないけれど、ずっとふたりぼっちでいれる。という思いが、矛盾していたとしても。

 それでも。

 私はもう一度、ヨウに名前を呼んで欲しくて。きっといつか、その日が来ると淡い夢を描いて。この日まで一日一日を数えたのに。

 会えない日をいくつ数えたとしても、ヨウも同じ気持ちだと思ってたから、例えばそれが一生でも構わないと思ってたのに。

 うまく呼吸が、できない。

 真夏のぬるい風に酔いそうになる。

 ヨウの連れていた女の子がどんな子だとか、そんなのは関係ない。

 私以外の女の子といるという事が、耐え難い現実だったのだ。

 月日は経ったのだと、ようやく実感が湧いた。

 とても残酷で悲しい変化を目の当たりにする事によって。

 一生ヨウだけを想って、ひとりでは生きていけない。いつか私もそう思う時がきたのかもしれない。

 ヨウの方がそう思うのが早かっただけで。

 ふらつく頭を抱えたまま、ヨウの部屋へ続く路地に立った。

 涙は出なかった。もう、心壊れてしまったから、そんなものは出るはずもない。

 ケイタイを取り出すと、私はマナトにかけて、デートの約束を交わした。

 マナトは待ってましたと言わんばかりの喜びようで、私は正反対にどんどん気持ちが地底に深く埋まっていく錯覚を覚えた。

 たった数分の電話で、ヨウと別れてから守っていた何かが空っぽになった気がした。

 マナトはとてもよく話す人で、こうも話題が尽きないものかと感心する程だった。

 美味しい料理屋、オシャレなカフェ、面白い雑貨屋、飽きないデートプランも毎回の事で、女の子を女の子として扱うマナトを素直にいい人だと思った。

「どうして私なの?マナトみたくイケメンで楽しい人なら、言い寄ってくる女の子は多いでしょう?どうして自分を好きになってくれた人と付き合おうと思わないの?」

 デートを重ねる度に、からかわれているだけのような気になってきたので、聞いてみた。

 マナトはその質問を笑う事なく、小首を傾げてうーんと考えると。

「自分が選んだ人がいいんだよ。俺は。こういう言い方したら失礼なんだろうけど、用意されたものを手にするんじゃなく、自分であれこれ確かめてこれだって思ったものを手にしたいんだよ。キョウコは、上手く言えないけど、ほっとけない。弱そうだとか、甘えたがりに見えるっていうんじゃなく、ほっといて下さいっていう空気を纏ってるから、いやいやほっとけないですっていう。」

 痛いところを突かれた。と思った。

 本当は、マナトが”ちゃんと”答えない事を期待して質問したのに。

 とても曖昧な言葉だが、マナトには意思があるとわかった。

 女の子と付き合いたいのではなく、ほっといて下さいという空気を纏った私と付き合いたいのだと。

 きっと、その空気の先に何があるのかを見たいのだろうし、見れなくとも自分の精一杯でその空気を放つ私の支えになりたいのだろう。

「私、自分に寄ってくる男はみんな変人だと思ってるから。マナトも相当、頭おかしいね。」

 ヨウもそうだった。変な人だった。小さな仕草ひとつで意思疎通ができる程、身も心も裸になれる、そんな普通とは違うものを交わせる変な人だった。

 言葉を封じる時に、よく口の前に指でバツを作っていたが、言葉などなくても。

「キョウコが変人だから、類友で俺も変人ってわけ?ちょうどいいんじゃん。」

 マナトの言葉で引き戻された。

 もう、ヨウはいないのだ。ヨウが私以外の女の子といるように、私も他の男性といなければならないのだ。

「そうね。私もちょうどいいと思う。」

 自分の言葉なのに、宙に浮いているだけの意味のないものに思えた。

 そして、ちょうどいいという表現が思慮の浅さを浮き彫りにした。

 それからマナトと恋人になった。恋人に。

 同棲するまでに時間はかからなかった。若さ故なのか、性格なのか、マナトの勢いに押される形で、私の自宅のある場所から駅を挟んだ向こう側に部屋を借りた。

 狭いワンルームだったが、不満はなかった。

 マナトがいつも寄り添うようにいてくれたから。

 粉々になったはずの心が、温もりをほんの少しでも感じられたから。

 だけど、夢だけは私を放してはくれなかった。

 同棲を始めてから定期的にヨウの夢を見た。必ず、苦しそうにうなされているとマナトは言った。

 ヨウと過ごした事のない冬。

 私はマナトといた。マナトといても孤独だった。


「キョウコは寝てるから、わかってないと思うけど、うなされてる時に寝言言ってるんだよ。」

 マナトはラグの上にあぐらをかいたまま、じっとこちらを見ていた。

 言いようのない居心地の悪さを覚えたが、罪悪感はなかった。

 ヨウの事は、終わった事だから。過去だから。そう思うだけで、自分という形だけをここに残して、中身が空気に溶けてしまいそうになる。

「何を。何を言ってるの。」

 それは自問しているようでもあったかもしれない。

 ベッドサイドの煙草に手を伸ばすと、火を点けた。ヨウといる時、ヨウがジッポを点けるのでよくふたりで額を寄せ合って煙草に火を点けた。

 体ごとマナトに向き直ると、ため息のように煙を吐いた。

 マナトは煙草を吸わない。私にやめろとも言わない。一緒にも吸わない。ただいつもそこにいる。

「名前。誰かの名前言ってる。男か女かわかんないけどね。」

 肩をすくめたマナトは、わざとらしくテーブルの上の雑誌を手に取り開いた。読むつもりもないだろうに。

 私が名前を呼ぶとしたら、ひとりしかいない。だけど、夢の中ではヨウの名前は思い出せずに終わっている。なので、ヨウと口走っているとも考えにくい。

 灰皿の上で煙草を何度か指で弾くと、灰がぽろりと落ちた。

「マナト。きっと私が無意識にでも名前を口走る人はひとりしかいないの。もしそうだとしたら、男女の判別もつかないと思う。あと、誰かの名前を口走っていたとして、私は何も話すつもりはない。」

 話しながら、キッチンで水を飲んだ。冷たいものが体を下っていく。

 何かを落ち着けるように。

「キョウコの得意技だ。」

 マナトが雑誌をめくる姿が視界にある。私は答えない。

「ほっといて下さい。って事だろ。残念ながら、俺はほっとかない。」

 雑誌を置いて、私の背後に立ったマナトはゆっくりと抱きしめてきた。

「煙草、危ない。」

 冷たく言うと、わかっているのかいないのか、んーっとだけ言ってマナトはさらにきつく抱きしめてきた。

 ヨウの事は、ふたりの事は、誰にも話したくない。

 理解されるとも思えないし、理解される事も望まないし、誰にも入ってきてほしくない。過去だから。綺麗なまま、静かに私の中に眠らせていてあげたい。

 ふと、気付いた。

 私は、ヨウとの事を、ふたりの事だと思っている。だけど、マナトとの事は、ふたりの事だという認識をしていない。

 マナトの体温は熱く、確かなものなのに。マナトの何もかもは、今ここにあって確かなものなのに。

 ふたりじゃない。私はひとりだ。

「今日、どこにも行く気分じゃなくなった。」

 ゆるい力でマナトの腕を解くと、ベッドに戻った。煙草を消して、まるですねた子供のように布団を頭までかぶった。

「いいよ。どこにも行かなくていいよ。キョウコがほっといてって言う時は、すごくさみしい時なんだろ。それくらいはわかるようになったよ。」

 マナトは怒らなかった。小さく音楽をかけ、雑誌を読んでいた。

 ふたり休みの平日は、どこへ行っても人が少なくて、デートには最適なはずなのに。マナトはきっと、今日のプランも考えていたはずなのに。

「マナトはきっと私を嫌いになる。」

 ぽつりと零すと、え?と間の抜けた声が返ってきた。

 布団の中で、耳を澄ませたまま、もう一度口を開く。

「私の事、ひどい女だって言うよ。」

 たっぷりの沈黙の後、マナトは布団の上から覆いかぶさってきた。

 押さえ込もうとされる程、もがき、圧迫されるせいで息が苦しくなる。

「嫌いにならせて。ひどい女になって。クリスマスまでに別れたら、お互い傷も浅いから。」

 そう、冬はクリスマスの季節だ。その後にお正月があって、次の年にはバレンタインがある。恋人達はそのイベントを心待ちにし、お金をつぎ込む。

 思い出の品ができる前に別れたなら、忘れるのも早いだろう。

 私がヨウにもらったダイヤのピアスとネックレスをボックスに仕舞い込んで目に触れないようにしていても、それが大事すぎる物である事にかわりはない。

 そこにある限り、思い出さえ拭えないのだ。

 マナトを押しのけて、壁際にもたれて座ると、マナトも並んで同じようにした。

「本当は、悪夢じゃないの。真っ白な世界で、誰かの声がするの。誰だかわからないのに、名前さえ思い出せないのに、私はその人をすごく愛してるって知ってるの。その人のところに行きたいけど、動けないしどこへ向かえばいいのかもわからない。最後にその人が私を呼ぶの。キョンちゃん。って。」

 煙草に手を伸ばす私を、マナトは不思議そうな目で見ていた。

 あまりに突然の告白に、意味を理解できていないのかもしれない。

「ちなみに、起きたらその人が誰なのか私はわかっているし、名前も覚えてる。ううん。覚えているのはその人の全て。」

 煙を吐き出し、マナトと視線を合わせると、なぜだか謝りたくなった。

「その人の名前を聞いてもいい?」

「私は、ヨウって呼んでた。」

「本当は、寝言なんて嘘。カマかけた。ごめん。」

 マナトは膝をぎゅっと抱えて、小さくなった。

 どうして、と問いたい気持ちを堪えて、そっと頭を撫でる。

「キョウコはいつも、俺なんか見てないから。大好きだよって言っても、言われても、こうして一緒に暮らしてても、遠い。」

 どうしてマナトがいつも私を楽しませようとしていたのか、少しわかった気がする。

「その人。」

 マナトは私の手を握り、まるで縋るように。

「その人の事を、今でも。」

 マナトの言葉の続きを引き取るべきではないとわかっていた。

 長くなった煙草の灰がベッドに落ちた。

 マナトはさみしそうに微笑むと、大きく伸びをして、

「やっぱり出かけよう。」

 と言った。いつもの無邪気な笑顔で。

 曖昧に頷いたが、本当は言いたかった。言うべきではないのに。

 マナトがそれを察したのかどうかはわからない。

 その人の事を、今でも、愛している。絶望的に。


 クリスマスもイブも、私達は仕事だったけれど、せっかくなので帰りにご飯でも行こうと駅前で待ち合わせていた。

 休憩中に買いに走ったホールケーキを持った私は、浮かれた人達のひとりに入れているのだろうか。

 ブランドロゴの入ったプレゼントの紙袋を持つ私は、盛り上がる恋人達のひとりに入れているのだろうか。

 少し遅れてきたマナトは、ケーキに驚いていたけれど、同じようにブランドロゴの入った紙袋を持っていた。

「食べに行ってたらケーキ駄目になるかな。」

 マナトが心配そうに言うのをよそに、

「せっかくだから、何軒か飲んでまわろう。きっと目ぼしいお店は混んでるだろうし、新しいお店行こう。」

 腕を組んで歩き出す。

 小さいお店が並ぶ路地の小料理屋で和食を堪能し、その隣のイタリアンでシャンパンを開けた。

 細い路地はいつも寂れて見えていたが、ここにもクリスマスがやってきているようだった。沢山の人で賑わい、赤や緑の装飾があちこちに見える。

「もう一軒行く?」

 ほろ酔いのマナトは、ようやくエンジンがかかってきたらしく、上機嫌で目に付くお店を覗き込んでいた。

 一緒に覗き込んだりをしながらはしゃいでいたが。

 振り返ってはいけない。

 五感ではその存在を認識していないはずなのに、私の本能がそう囁いた。

 ぐっと爪先に力を入れて、振り返りたい衝動を押しとどめようとした。急に立ち止まる私を、マナトは笑顔で見つめたが、ゆっくりと視線を後ろへ向けた。

 振り返ってはいけない。

 だって、そう思う時は、必ずヨウがいるはずだもの。

 本能で呼ばれる存在は、ヨウしかいないもの。

「キョンちゃん。」

 スーツ姿のヨウは、数メートル先にいた。

 ヨウの横にいる女の子は、以前見た女の子とは違う子だった。

 女の子が、誰?という顔でヨウの袖を引っ張っている。

 だけど、マナトは私をキョンちゃんと呼ぶこの人が誰なのかわかっているだろう。いや、正確には私にとってどんな存在なのかわかっているだろう。

 声が、出ない。

「キョウコ、行こう。」

 マナトが強引に手を掴んできたが、反射的にそれをするりとかわした。

「何?ヒロシの元カノとか?彼氏イケメンじゃん。てか、超美人じゃない?」

 はしゃぐ女の子に、私がどう見えているのかはわからなかった。女の子は、マナトと同じくらいの年か、それよりも若いのかもしれない。

 ヨウは女の子と手を繋いだまま、じりじりと近づいてきた。

「キョウコ、クリスマスだよ?」

 マナトがそう言いたい気持ちはわかる。

 だけど、聖なる夜にこうして向かい合えた事。それは”ふたり”にとって尊い運命なのだと思いたい。

「キョンちゃん、ごめんね。」

 あくまで平静を保っているヨウの右手の指が忙しなく爪を撫でている。

 何に対しての謝罪なのか、私には明確にわかった。

 私に別れを告げさせた事も、去っていく私を追わなかった事も、一度も連絡をしなかった事も、私以外の女の子といる事も、私が彼氏といる事さえも、私が今日のこの瞬間まで沢山の感情をすり減らしてきた事も、何もかも。

 わかるだけに、底なしの悲しみと暴発しそうな腹立たしさを覚えた。

「何もかもヨウのせいだし、何もかもヨウが悪い。」

 そう、手を伸ばせば触れられるのに、触れられない事も。

 きっとヨウは責められたかったはずだ。私ならきっと、そう思うもの。そうやって受け入れたいと思うもの。

 だけど、これ以上この場にいてはいけない。

 一瞬、マナトが息を飲むのがわかった。

「彼氏なの。ヨウも、ひとりじゃなくてよかった。ひとりじゃなくて。」

 にっこり笑うと、ヨウは眉間に皺を寄せて、何か言いたげに口を開いた。

 が、先に言葉を発したのは私だった。

「メリークリスマス。」

 ヨウの口を封じるのは、私の得意技だった。だって、聞かなくてもわかる。

 私の笑顔が作り物だって事、わかっているんでしょう。本当はさみしくてたまらない事、本当はお互いひとりぼっちで”ふたり”でしかいられない事、わかっているんでしょう。

 ヨウの肩に寄りかかった女の子は、メリクリ!と言い、マナトも控えめな声でそれを返し、歩き出す。

 私もゆっくり前を向き歩き出したが、視界から消える最後までヨウが私の名前を呼んでいた事、わかっていた。

 早足になったマナトは、そのまま真っ直ぐ部屋に帰った。何も聞かれなかったし、何も話さなかった。

 帰り着く頃には、酔いはすっかり冷めて、空気も冷めていた。

 ラグの上に座り、テーブルの上の小さなツリーを恨めしそうに見つめるだけ。

「ケーキ。」

 脱力したマナトの声は、それ以上続かなかったが、私はキッチンからフォークだけを取ってきて箱を開けた。

 怒っているのか、マナトはそれをぶつけるようにケーキを突き崩していった。

 ヨウは、あの子と一緒にケーキを食べたのだろうか。ずいぶん痩せて、白髪も増えていた。二年たったのだ。ヨウは、三十五歳。私よりも九つも年が多いのだから、当然の変化かもしれない。

 二十四歳のマナトから見たら、ただのおじさんかもしれない。

 二十六歳の私も、あの子から見たら、おばさんかもしれない。

 お互い、ブランドロゴの入った紙袋には触れずに眠った。

 同じベッドにいるのに、とても遠くに感じるのは、私がここにいないからだ。ヨウのところに心があるからだ。そんな事はわかっている。どうしようもない。

 だから、私はひどい女だって言った、のに。


 翌日、仕事から帰ると部屋の真ん中に鎖が真っ直ぐに引かれていた。

「キョウコは奥ね。俺の陣地はこっちだから。」

 マナトは背中を向けたまま、移動させた自分の持ち物を整理していた。

 子供みたいな事をされている。そんな事はどうでもいい。どんな形であれ、私を責めさせなければいけない事が、やりきれなかった。

 そして、その事に対して少しの罪悪感も持ち合わせていない自分に、失望に似たものを感じる。

 コートも脱がないまま、キッチンの前で棒立ちになった私は、ヨウを思い浮かべた。

 ヨウは、今でも私といてくれるだろうか。私がこの部屋を捨てたとしたら、同じようにヨウも今を捨ててくれるだろうか。

「マナト、私達もう駄目なんだよね。ううん。私が駄目なんだよね。ごめんね。わかってもらおうなんて思わない。」

 ヨウに言いたい事は溢れる程思い浮かぶのに、マナトに聞かせられる言葉がもう出てこない。

 ずるく汚い私をこれ以上、マナトに見せられはしない。

 鎖で分断された部屋に踏み入れた私は、ボックスの中からヨウにもらったダイヤのアクセを取りバッグに入れた。

 ひとつ大きく息をして、石のように動かないマナトの背中を見た。

 思い返してみれば、マナトと喧嘩らしい喧嘩をした事がなかった。

 お互いをぶつけ合う事がなかったというだけのような気がして、虚しかったけれど、ぶつけ合う程の何かなど存在していなかったのかもしれないと思うと、とても軽い関係にも思えた。

 同棲して、平和な日々を送ると、いつまでも私を離さない過去から逃れられるような気がしていた。逃れるどころか、自ら過去に留まり続けているのに。

「マナト?」

 何も言わずに出て行くのも気が引けたので、声をかける。

 マナトは寂しそうな眼差しをこちらに向けた。

 手を伸ばし、肩に触れようとしたが。

「駄目。俺の陣地に入ってこないで。」

 マナトの口調が本当に子供みたいだったので、思わず笑ってしまった。

「あのさ、言っとくけど俺はキョウコと別れる気なんてないの。そこんとこ間違えないでほしい。もしも、俺があの男よりキョウコをわかってないとしても、もしも、あの男より愛せてなかったとしても、面白くない男だとしても、何もかも負けてるとしても。もしも、キョウコが俺よりあの男の方がいいって言ったとしても。どんなもしもがあったとしても、俺はここにいる。キョウコが俺に言ってくれた好きとか愛してるとか、自分が持ってる気持ちとか、信じてるから。信じなければ、愛せないから。あ、でもあの男に身長だけは勝てない。悔しいけど、あいつでかかった。俺サバ読んでも百七十がいいとこだもんな。だけど、つまり、俺はここにいる。だから、キョウコもここにいるべきだ。」

 不機嫌に顔を歪めたマナトは、積もりに積もった言葉を一気に吐き出したように見えた。

「わかった。マナトはここにいる。私もここにいる。」

 鎖を挟んで見詰め合う私達は、決して触れる事はない。

 断絶されているのに、一緒にいる。それは今までのマナトと私の関係を実現しただけのような気がしてならない。

 距離はないのに、絶対に越えられない一線は常にある。

 きっとその一線を越える必要はないのに、ヨウといた時の一体感を思うと、もう一度あれが手に入ればヨウを本当に過去にしてしまえるのに、と思う。

「私、今でもヨウの事を愛してる。本当に、心が粉々になっちゃうくらい、自分でもどうしていいかわからなくなるくらい。ヨウがいるから、私がいるの。ヨウがいるから、世界があるの。いつも”ふたり”なの。どんなに離れ離れでも、昨日の夜、あの時、あの場所で、ああ、ヨウがいるって振り向かなくてもわかっちゃうくらい。マナトを好きな気持ちは嘘じゃない、けど。だからね、マナトはこんな私に優しくなんてしなくていいの。私なんか追い出すべきなんだよ。」

 マナトは真剣に話した私から目を逸らし、肩を震わせたかと思うと声を上げて笑い出した。

 何がおかしいのか全くわからなかったが、私を追い出すつもりがない事はわかった。

 この部屋から自分で温もりを追い出した事が、冷えた体に染みた。

 

 マナトは分断された部屋を元に戻そうとはしなかった。

 それどころか、お正月を迎えても一切触れ合おうとすらしなかった。

 お互い仕事は初売りが新年の二日からあるので、ゆっくりも休めなかったが、初詣に行った時ですら手も握らなかった。

 ただ、話すだけ。

 友達に戻ったと思えば受け入れられる距離感だけれど、まだ一緒に暮らしているのだから、そう思おうにも思えない。

 マナトはそれで私を罰しているつもりなのだろうか。

 もしもそうであれば、効果は薄い。

 マナトに触れたいとはがゆい気持ちを募らせる事もなかったし、許しを請いたいという気持ちにもならなかった。

 どうせ”ふたり”になれないのだから、終わればいいとさえ思った。

 だけど、自分から別れを切り出さないのは、少なからずただそこにマナトがいるという現実が、これ以上失うという行為に繋がらないからだ。

 マナトとは全てを与え合えない。欲しがれもしない。

 むしろそうである事が、ある意味この関係の希望であるように思えた。

 破滅衝動がないのだから、壊れようがない。

 静かに平坦に続く日々が、一生であれるかもしれない。

 正月のセールも過ぎて落ち着いた一月下旬。やっと重なった休みの日は、鎖を挟んでの会話の時間になった。

「もう一ヶ月もキョウコに触ってないね。」

「あ、うん。話してるけど。ご飯も食べるし。自分の陣地で、だけど。」

「こんな状態だし、もし俺がキョウコ以外に触れたらどうすんの?あ、キョウコは。あいつしかいないか。」

 マナトは私の嫉妬心を掻き立てて、縋ってほしいのかもしれないと思った。だけど、私がヨウに縋る事を今更、心配したらしい。

「どうかな。マナトが他の人と何かあっても、どうもしないよ。私は、あいつ、に会う事もないよ。」

「どうもしないって、どうでもいいんだ。連絡したらいいんじゃないの?」

「そう思われてもいい。連絡、取ってほしいの?」

 ケイタイを手に、マナトを見つめた。

 マナトは苦い顔で、じっと私の手元を見つめていた。

 沈黙に耐え切れず、ディスプレイにヨウを表示させる。チラリとマナトを見ても、何も言わないので、通話ボタンを押した。

 あっという顔をしたマナトは、きっと私が本当にそうするとは思っていなかったのだろう。

 呼び出し音が響く間、ヨウが出る事も出ない事も願った。

「キョンちゃん?」

 意外にもヨウは数コールで出た。マナトに目配せをすると、ごくりと喉を鳴らしたのがわかった。

「ヨウ?」

「仕事中なんだ。七時においで。じゃあ。」

「彼女は?」

「愚問だよ。彼氏は?って聞く必要がないのと同じ。」

「うん。じゃあ。」

 通話が切れて、部屋の中に澱んだ物が充満する。マナトの視線が痛い。

「何でそんなすぐに切るんだよ。もっと話す事ないの?そんなんじゃ何がなんだかわかんないんだけど。」

 嫉妬と不安が入り混じったマナトにかける言葉が見つからない。

 きっと私はヨウの部屋に七時に行くだろうし、それをマナトに悪いとも思わない。

 ヨウが彼女に対して罪悪感を持たないのと同じだ。

 ヨウと私はとても歪んでいて、例え他の相手と関係を持ったとしても、帰る場所がお互いならばさして問題にもならず、嫉妬の対象にもならない。刺激剤にはなったとしても。

「私はあいつの部屋に行く。それでわかるでしょ?でも、私はここに帰ってくる。その後どうするかはマナトが決めたらいい。」

 マナトはラグの上に突っ伏して、ごろごろと体を揺らした。

「ああー、どうして?どうしてキョウコはそんな意味わかんない事をするの?言うの?馬鹿なの?」

「わかんなくないよ。馬鹿は否定しないけど。連絡したらって言われたからした。したら相手が出た。会う事になった。それだけだよ。」

 こうなったのはマナトの意図だと言うように話したのは、ヨウに会いたいと思っている自分を擁護する為だ。どこまでも、私は。

 まだ体をごろごろ揺らしているマナトは、仰向けのまま私を睨んでいた。

「もういいよ。どうせキョウコは俺とは関係ない人なんだ。関係ないってのは、そういうんじゃなくてさ。俺の意思なんか届かない場所にいるって事なんだよ。疲れた。」

 マナトはペタンとうつ伏せになると、そのまま動かなくなった。

 マナトの言った事はとても的を得ていた。

 例えば、ヨウと私がお互いの意思の届く場所にいて、長い長い寄り道も休息もお互い無言の承諾の上のものだったとして。彼氏彼女なんて関係ないし、二年の空白がたったあれだけの言葉で埋まる。望めば、死ぬまでふたりでつくりあげた世界にいられるだろう。

 だけど、マナトと私はお互いの意思に関係なくただ一緒にいる。一緒にいるという事に意思は働いているけれど、通じ合う意思とは違うものだ。だから、思い通りにならないと感じる。通じ合えないと感じる。それを、少なからずマナトははがゆく思う。

「関係ないと思う。でもそれでいいと思う。」

 私の言葉にマナトは顔だけをくるりとこちらに向けた。眉をひそめて怪訝な表情。

「鏡をずっと見ていたら気が狂うのと同じだよ。鏡の中にいる人は自分の意思でしか動かないし話さない。ヨウと私は鏡なの。お互いの中にお互いを見て、自分を愛してるのか相手を愛してるのかわからなくなってた。だけど、マナトは鏡じゃない。鏡じゃないから自分の意思なんてそっちのけの相手がいる。だけど、気が狂う事もないし、何を愛してるのかわからなくなる事もないよ。私は、ヨウと一緒に朽ちていく事さえ幸せに思えたけど、マナトといる方が人間らしいと思える。だから。」

 マナトはそっと鎖を越えて、指先で私の手首に触れた。

「すっごくネガティブに受け取ると、お前はただの他人で、あいつは一心同体の愛する人。ポジティブに受け取ると、あいつの呪縛を解けるのは、俺だって事。」

 呪縛。本当にそうだ。きっと、ヨウも私の呪縛に苦しんだだろう。出会った頃から今もずっと。

 マナトは指先を自分の陣地に引っ込めると、立ち上がった。

「出かける。キョウコは勝手にあいつのとこ行って、帰ってくるなら帰ってきて。俺は何時に帰るかわかんないけど。ちなみに、俺に浮気相手はいないから。」

 マナトはスウェットにダウンを羽織るとさっさと出て行ってしまった。

 静まり返った部屋の中、さっきの自分の言葉を反芻していた。

 

 七時ちょうどに懐かしいヨウの部屋の前に立った私は、二年ぶりという事を忘れそうなくらい緊張していなかった。

 インターホンを押すと、

「開いてるー。」

 と、声が返ってきたのでドアを開けた。

 あの頃と変わらないヨウの匂いがそこにあって、胸いっぱいになる。

 キッチンを抜けて奥の部屋に入ると、やっぱりあの頃と同じままの部屋があった。

 ヨウはベッドに座って、煙草を咥えて微笑んでいた。まるで、待ち焦がれたメインディッシュを見つめるみたいに。

「鏡をずっと見ていたら気が狂う。」

 思ったより低い自分の声に、震えた。

 ヨウは意味がわかっているのだろう。だから何?って顔で煙を吐いている。

 バッグを床に置こうとかがんだ私に被さるようにヨウが抱きしめてきた。

 それは、マナトとは違い、よく知った大きくて重みのある感触で、私が望んだものだった。

「キョンちゃん。キョンちゃん。キョンちゃん。」

 床に崩れ落ちながら、器用に煙草を消したヨウは何度も何度も私を呼びながら、唇を頬に寄せた。

 それは途切れる事なく、私の唇を犯した。

 さみしかったよ。会いたかったよ。やっと会えたね。ふたりになれたね。例え気が狂おうとも、自分の半身を愛さないわけがないでしょう。

 心が共鳴するというのは、きっとこういう事だ。

 貪るようにキスをして、ただそれだけで、涙が出る。熱い雫がお互いの体をも濡らしていく。

 でも。

「呪縛。」

 吐息混じりの一言が、ヨウを止めた。

 床に転がって、お互いを引き寄せたまま。

「ヨウの呪縛を解けるのは俺だって、言われた。」

 誰から、とか、どうして、とか説明する必要はない。

 ヨウは不敵に笑うと、

「それは思い上がりだ。呪縛、だとして。キョンちゃんのそれを解こうと思ったら、同時に俺もキョンちゃんの呪縛から解かれなければならない。イケメンくんはそれをわかっていない。つまり、同時にそれが行われる確率は皆無。」

 私を抱き上げてベッドに倒れ込んだ。

 私の爪先にキスをするヨウは、まるで神でも崇めるかのように見えた。

 湿った唇は、足首を這い、内腿を這い、胸、首へと上がってくる。

 乱れた洋服から侵入した手が、体だけでなく心にも触れているようで。

「逃れられない運命。」

 そう言うと、自ら洋服を脱いだ。

 ヨウの言う事は最もだった。どちらかだけがこの世界から逃れるなど不可能なのだ。

 ”ふたり”でつくった世界なのだから、”ふたり”で終わりを迎えなければ。

 そして、それを迎えられる確率が皆無ならば、抗う理由がなくなる。

 いっそ、本当にお互いに溺れて苦しくなって、息が止まればいい。

 密着した熱い肌は、冷えた室温と正反対に汗ばんだ。

 今以上など、望むものなどない。繋がった私達に恐れるものもない。

 ”ふたり”以外を破壊して、”ふたり”すら破壊して。

 裸のまま煙草を手にして、ジッポを点けたヨウの手元にお互い額を寄せる。

「キョンちゃん。愛してる。」

 無邪気にじゃれついてくるヨウは、何ひとつ変わっていなかった。

 マナトと付き合っている事が非現実で、こちらが現実に思えてくる。

 白髪の増えた短髪をくしゃくしゃと撫でると、ヨウは気持ちよさそうに顎を上げる。

 目尻の皺も少し増えて、その微かな筋さえ愛おしいと感じる。

「だけどね、愛してるのに、どうしてこうなっちゃうの。」

 決して約束された関係ではないのに、切っても切れない関係。壊してゆく事で、壊れゆく事しかできない。

 ヨウは私の背中にちゅっちゅと音を立ててキスをすると、下着を履いてキッチンへ消えた。

「キョンちゃんさー。」

 お湯を沸かす音が聞こえたので、何を飲むか問われるのかと思ったが。

「俺が何も考えてないと思ってるでしょう。ただキョンちゃんを盲目的に溺愛してる馬鹿だと思ってるでしょう。」

 初めて、ヨウの言いたい事がわからなかった。一瞬で体が冷える程の気持ち悪い違和感を覚えた。

 洋服を身につけ、ベッドに座りなおす。

「盲目で、溺愛で、馬鹿で、それがヨウでしょう。」

 もしかしたら、私の知らないヨウがまだいるのかもしれない。そう思いながらも、自分が言った通りの姿でいてほしかった。

 ココアの入ったマグを持ってきたヨウは、あちちと言いながら、それをテーブルに置いた。

 それを飲みながら、噛み合わない場所を探る。

「俺は自分を一番愛してるんだよ。その人を愛してるんじゃなくて、誰かを愛してる自分が好きなんだよ。ここまでなら、ありがちな話。」

 確かに、恋愛をしているとわからなくなる。自分の気持ちに酔っているだけなのか、本当に相手を愛せているのか。

「俺とキョンちゃんは鏡。だけど、最初からそうだったのかと言えば、そうじゃなかったはず。俺は意図的にこういう関係をつくりあげた。きっとこの女は俺の手で壊れてくれるだろうと思ったから。つまり、キョンちゃんを標的にしたと言ってもいい。とても利己的な意思で、鏡であり続けた。よく、男を”馬鹿”にする女って言うけど、キョンちゃんはまさにそうだった。俺はキョンちゃんに出会って馬鹿になった。キョンちゃんのためなら何でもできたけど、唯一できなかったのが、自分よりもキョンちゃんを愛する事。俺は俺のためにキョンちゃんを繋ぎ止めていたんだ。離れ離れになってもなお、キョンちゃんの中にいられるよう、自分を植えつけていたんだ。」

 ヨウが自分の心情をここまではっきり言葉にしたのは初めてで、しかもその内容が自己愛に満ちた異常とも言えるもので、私は何の反応もできなかった。

 ただ、他愛ない話をするように、にこにこ笑いながら話すヨウの顔を、じっと見つめていた。

「俺はとても弱い人間で、人をちゃんと愛せないんだ。両思いになったとして、それがゴールじゃないんだよ。自分が可愛いから、もっともっと愛されたい、どうしてもっと愛してくれないのか、そうやって深みにはまっていく。キョンちゃんは自分を投影する為の鏡だった。キョンちゃんが俺と同じように欲しがるように、同じように与えたがるように。仕組んだと言うのは大袈裟かもしれないけど、きっと、そういう事で。綿密に計算された意思や言動によってふたりをつくった。とても相性がよくて、思惑通りに同化し、壊れていけた。」

 何度も見詰め合った瞳は、いつの時も同じ闇を持ち、その奥に必ず震える心が見えていた。

 マナトが言った呪縛が、ヨウの言った通り仕組まれたもので、さらに私を壊す為のものだとして、そこに本当の幸せはあるのだろうか。

 きっと、ヨウは何度も自問自答したはずだ。異常なまでの自己愛と歪んだ関係が、自分が望んだものだったのかと。

 ヨウはそっと私の頬を撫でた。かすかに湿った感触に手を伸ばすと、涙。

 弱々しく首を横に振ると、バッグを持って玄関に向かったが、腕を掴まれた。

「キョンちゃん。」

 思い切りバッグをヨウの腕に振り下ろすと、鈍い音がしてそれが離れた。

 私が何よりも離したくなかった大好きな大きな熱い手。

「私を壊したかったんでしょう?思い通り壊れたよ。ヨウの事が好きで好きで大好きで、世界がそれだけで、一挙一動に心乱れて壊れた。あなたは哀しい人だよ。壊す以外の手段を知らないんだもの。幸せなんて望んでないんだもの。」

 叫びは虚しく空気に溶けていった。

 ヨウはじっと私を見つめて、唇だけで私の名前を呼んだ。それさえも、呪縛、のようで。

 力任せにヨウの体を突き放して、外へ出た。

 初めて一緒に過ごした冬の夜は、とてもやるせなかった。空には雲ひとつなく、星が綺麗に瞬いていた。


 帰るとマナトの姿はなく、とうとう愛想を尽かされたのだと思ったけれど、翌朝には鎖の向こう側でいつものように眠っていた。

 何もなかった事にしたいのか、マナトはヨウの事を聞いてこなかった。私もあの夜にマナトが何をしていたのか聞かなかった。

「もう一ヶ月以上経つ。」

 マナトが言った目線の先には、お互いを分断する鎖。

「マナトがやったんでしょう。」

「キョウコがさせたんじゃん。」

 こんな押し問答はいかにも痴話喧嘩らしくて、平和な関係であるのがわかる。

「ね、もう一度だけ。あいつに会いにいこうと思ってるの。その後、できたら鎖をなくしてほしい。」

 どうしても、ヨウとあんなまま別れているのは嫌だった。ふたりはこんなはずじゃなかった。その重い気持ちを払拭したかった。そう思う事がヨウの思い通り、だったとしても。

 マナトは何も言わなかったので、イエスという解釈をした。

 もしかしたら、マナトは言えなかっただけかもしれない。ノーと言ったら私が別れを切り出す事を察知して。

 翌日も仕事だったが、夕食を済ませるとすぐにヨウの部屋に向かった。

 もしかしたらクリスマスの夜の女の子といるのかもしれない。まだ帰ってきていないかもしれない。そう思ったけれど。

 何を言いたいのか、どうしたいのかもわからなかったけれど、どうにかしなければという気持ちだけがあった。

 部屋の電気は消えていた。午後十時。ドアにもたれて座ると、コンクリートの床が冷たくて、それでもなぜか待たなければいけないという気持ちが膨らむ一方だった。

 待つ事が極端に嫌いな私は、宛てもなく待つなんてした事はなかったが、ヨウに会えるまで何時間でも待つつもりだった。

 氷のように冷たくなる指先に息を吹きかけながら、ただヨウを思い浮かべながら、星を数えた。

「キョンちゃん?」

 名前を呼ばれるよりも早くそちらを向いた私は、寒さのせいで立ち上がる事ができなかった。

 駆け寄ってきたヨウは鍵を開けて、私を包むように部屋に入れた。

「いつから待ってたの?ごめん。仕事が長引いて。あ、暖房入れるし、ココア入れようか。早く入って。風邪引く。」

 早口であれこれと動くヨウを無視して、ベッドに座った。しばらくして、ヨウは私の前に跪いて、そっと両手で私の手を包んだ。

「キョンちゃん。ごめんね。ごめん。」

 今は何に対して謝られているのかわからない。以前ならきっとわかったのに。

 祈るようなポーズのまま動かないヨウは、知っているはずなのに知らない人に見えた。

 お湯の沸く音がして、一度ぎゅっと握られたかと思うとそれが離れた。

 大きなマグを持ったヨウはテーブルに置くと、やっとコートを脱いだ。

 ココアを飲むと、寒さで凍えた体も思考も動き出す。

「私、今はヨウの事がわからない。何を考えてるのか。それは自分の鏡じゃなくなったからなのか、意図的にヨウがそうしているのか、それもわからないけど。少なくともヨウも、今は私の事がわからないと思う。」

 マグを持っていた温かい手で、ヨウの頬に触れた。

 ふたりで過ごした日々に意味があるのか、本当に愛し合えていたのか、今となっては何もかもが不確かだけれど、こんなにも愛したのも憎んだのも初めてで、自分の中からヨウがいなくなるなんてありえないような気がする。

 でも、もう変わってしまった。私もヨウも。

 だから”ふたり”ではいられない。

「さみしい。どうしてこんな気持ちにさせるの?どうしてヨウとはいつもハッピーエンドがないの?さみしくてたまらない。どうして壊すの?壊れたら元には戻れないのに。」

 ヨウの胸に崩れ落ちると、強く抱きすくめられた。

 この場所で、何度交錯した愛情と欲望を味わっただろう。

 規則正しく背中を叩かれ、あやされているようだった。

 顔を上げると、二重の大きな目が私を捕らえた。 

「メドゥーサ。」

 唐突に発されたその言葉は、何かの暗号のように聞こえた。

 首を傾げると、ヨウは笑わずにじっとこちらを見たまま。

「キョンちゃんは、見た者を石に変える。メドゥーサみたい。石になった人が動けるようになるには、キョンちゃんの涙がいるんだよ。」

 わからないという顔をすると、

「俺はキョンちゃんに出会った時から石になってしまったんだよ。だけど、ずっと側にいてほしかった。石にされたまま、放っていかれるのはさみしいから。手段は間違っていても、繋ぎ止めておきたかった。知ってる?メドゥーサの左側の血管に流れる血は死者を蘇生させる効果が。右側のそれは人を殺す効果があるんだよ。」

 ヨウは私の頭を自分の肩に乗せて、腕に力を込めた。

 きっと、悲しい。この先の言葉は、きっと。

「俺を生かすか殺すか、キョンちゃんの血を飲ませてよ。」

 ヨウのくぐもった小さな声は、耳元でぬるい息になり消えていった。

 とうとうこの時が来たのかと、全身が脱力していくのがわかった。

「私、ヨウを愛した事を悔やんだ日は一日もない。この先もずっと、悔やむ事はない。」

 密着した胸から、ドクドク鼓動が伝わってくる。私の鼓動もヨウに伝わっているのだろうか。

「ああ、俺もキョンちゃんを愛した事を悔やんでないよ。ただ、壊す事しかできなかったけど。自分が望んだ事だけど、本当にこれでよかったのか、こんなに愛し合えるなら、他の形でずっと一緒にいれたのかもしれない、何度も色々な事を考えた。選択するのは、いつも同じで、キョンちゃんを自分の為に離さない事だったけれど。」

 人は私達を愚かだと笑うだろう。それでもいい。

 ふたりの世界に終わりを迎える時は、ふたりでなければならないのだから。

 壊れたものを終わりにしなければ、何も始められない。

 残骸の上にいくら積み上げても、不安定で崩れてしまう。

 終わる事も始まる事も選べなかった臆病な私達は、それらを同時に行うのだ。

 まっさらになって、本当に望むものがある世界にしようとしているのだ。

 私達は死刑囚のごとく煙草に火を点けて、立ち上る紫煙が消えていく様を見つめた。

 今、ふたりの意思によって下される判断を、一生忘れはしなくとも、一生正しかったと言えるだろう。ふたりにとって。

 ヨウの部屋を出た私は無機質なドアに耳を当てた。

 物音ひとつしないそれは、冷たいけれど、私には温かかった。

 堪え切れない涙を拭う事なく、真っ暗な空を見上げた。

 星が、とても綺麗で、ひとつひとつ数えても、数え切れなくて、何度もそれを繰り返した。

 静まり返った暗黒の世界で、私はひとりぼっちだった。

 だけど、とても満たされているのは、自分の気持ちが固まったからだ。

 いつしか涙が視界を覆って、それが星を反射して、光が満ちた。


 夢を、見る。

 起きた時にはうっすら汗をかくほど、うなされる不思議な夢。

 ただ、何度見ても、私は必ず同じ答えに辿り着くだろう。


 何もない。何もない。何もない。

 ここは見渡す限り白くて、上下左右もわからない。

 自分が立っているのか、寝転んでいるのか、座っているのか、それさえもわからない。

 だけど、私の体には確かに熱や重みが残っている。懐かしい香りと。

 それらは誰から与えられたものなのか。

 知っているはずなのに、考えてもわからない。

 きっと私は彼を好きだったはずで。きっと。

 遠くから声がする。これは私の大好きな歌だ。この声を聞いた事がある。よく知っている。

 でも誰だかわからない。

 思い出さなきゃいけない。思い出さなきゃ。

 じゃないと彼がさみしがってしまう。そんなの困る。

 だって、こんなにも私が砕けそうな痛みを感じるんだもの。彼だって同じはず。

 同じでなければならないはず。だって、愛してた。そう、私達は愛し合ってたはずだもの。

 彼を探さなきゃ。ああ、でも。体が動かない。どこへ向かえばいいのかもわからない。

 どうして。早く行かなければ。彼に会わなきゃ。

 助けて。彼に会わなきゃいけないのに。白紙の世界が私をどこにも行かせてくれない。

 彼の名前を呼びたいのに、名前も思い出せない。何度も何度も呼んだはずなのに。忘れるはずがないのに。

 どうしたらいいの。何もかも壊れてしまいそう。

 彼はどこにいるの。顔も名前もわからないけれど。ああ、どうか、私のところに。

 愛しい声が私を呼ぶ。


 目が覚めても、その声が私を呼ぶ。

 私は呼ばれるままに腕の中に潜り込み、キスをする。何度も何度も、確かめるように。

 何も言わなくとも、笑顔が零れ、形を確かめるように抱き合う。

 そして私はまた夢を見る。

 ふたりがここにいる。ただそれだけが胸をいっぱいにする。



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