さくや
20分くらいで何も考えずに書き上げました。
不快感を与えたらすいません。
梅雨の時期となり、毎日歩いて帰る道も、人混みの熱と湿気とが混じりあい、
息苦しさを増すばかりだ。
すれ違う人は皆どこか疲れたような顔をして、真正面よりは少し下向きに目を向けて歩いている。
それがまた僕の息苦しさを増長させ、気を張らなければ吐いてしまうのではないかとさえ感じる。
堪らず通りを外れ、薄暗い小道に逃げ込んだ。
幾分か和らいだ熱気に、深呼吸ができる余裕が生まれ、僕はまず思い切り息を吐きだし、そしてゆっくり大きく吸い込んだ。
「くさっ」
思わず声を漏らしてしまう。
その道は確かに人混みなど無く、人の熱もまた無かった。
しかし、人はまるっきり居ないということではなく、連日の雨で濡れた地面にそのまま腰を下ろし、
伸び放題のボサボサの髪を垂らしながら、何を求めるでもない、視線が定まらない人間がそこにいる。
それが一人や二人ではなく、向こう側の垂直に交わる通りを挟んでその奥も、さらにその奥も、
彼らの姿を確認できた。
そして、この狭い通りは、彼ら自身と、彼らの傍らに無数に転がる得体の知れない物から放たれる強烈な異臭に満たされ、
今しがた僕が歩いてきた道が存在する国から切り離されたまるで別の国のような、異様な空間を形作っていた。
僕が声を発したことで、何人かが僕に目を向けた。
向けたのだろうが、そう感じるだけであって、実際は何も視界に入っていないのかもしれない。
何故か、それで安心してしまった僕は、一度止めた足を、再び前方へ動かしていた。
できるだけ呼吸をしないように。
歩いていく。
何も考えず歩いていく。
呼吸をしないようにしているので、当然息が苦しくなる。
後ろから足音のような音がする。
それが「彼ら」のものであるということがなんとなくわかってしまった。
僕は我慢できず空気を吸い込み、そして走り出した。
彼らにぶつかることも、彼らの何かを踏みつぶすことも、何も厭わず。
途中で体をつかまれた。
夢中で振りほどいた。振りほどこうとして、蹴ったり、殴ったりした。
ちっとも向こう側の通りに出れやしない。
こんな狭い道に入り込んだのが間違いだったのだ。
今自分がどんな顔をして、どんな格好になっているかもわからず、ひたすら前に進もうとした。
「出口だ―。」
どれだけの時間が経ったのか。
僕はようやく通りに出ることができた。
酸素を欲しがり激しく鼓動する心臓を休ませるべく、両ひざに手をあて、肩で息をする。
そうしてふと自分の体に目をやったとき、白いワイシャツがところどころ赤くなっているのが見えた。
一瞬何が何だかわからなくなったが、僕は駆け抜けてきた道に振り返った。
そうして全て理解した。
「彼ら」がみな立てることもできないくらいに体中血まみれになり、うずくまっている。
それをやったのは誰か。
言うまでもない。
僕だ。
「は、ハハハ…」
何故か笑いがこみあげてきた。
拳が切れて、血が流れ、あるいは紫色に変色していた。
革靴の先端が何か雨とは別の液体に濡れていた。
それでも、仕事に持っていくカバンだけは何処も汚れることはなく、しっかりと懐に抱きかかえられている。
ガタガタと震える体を鎮めようと、また深呼吸をしようとした。
目をつぶり、今度は息を思い切り吸い込んでから、ゆっくり吐き出した。
臭くもなく、人気も感じない。ただ少し蒸しっとした空気。
震えが収まり、目を開けた。
眼前には制服を着た少女が立っていた。
髪は長く、腰の高さまであった。
僕より背は低く、上目使いで僕を見つめている。
今のこの血まみれの僕を見て、この娘は何を思っているのだろう。
そもそも何で僕の前に立っているのだろう。
そんなことを考えながら、僕の赤黒く染まった手は彼女の細い肩をつかんでいた。
華奢で、力をいれればすぐに骨が折れてしまいそうな肩。
「なぁ、僕に何か用かな」
口調は努めて柔らかく。
しかし、下半身が勃起するほどに興奮していた。
今すぐこの少女の制服を剥がし、素肌を曝け出させ、滅茶苦茶にして、壊してやりたい。
「なぁ、答えてくれよ。僕に何の用だ」
言いながら肩を掴んだ手を襟元に動かし、胸元から一気に制服を破り捨てる準備をする。
少女はなお何も言わず、それでも目線はさっきから俺の目をとらえて動かない。
そのどこか不遜な態度が益々俺を興奮させ、骨の髄までしゃぶりつくしてやりたくて仕方がなくなる。
「そうかぁ、分かったよ」
自分の口元がひどく歪んでいるだろうなぁと思った。
そうして俺は一気に制服を破り捨てようとした。
この娘の肌を想像し、犯されてて泣いて叫ぶ姿を想像し。
そして、俺の両手は宙に舞った。
「あれ?」
手首から血が噴き出している。
何だこれは。
これは誰の血だ。
ボトッ
と両手が落ちた。
僕は彼女を見た。
彼女の手にはナイフが握られていた。
彼女の顔をさっきからちっとも変っていなかった。
そうか。なんだ。
君は微塵も僕におびえてなんていなかったんだね。
血を流し、立っていられなくなった僕は両ひざをついた。
今度は僕が彼女を上目使いで見る形になった。
彼女の顔は変わらない。
変わらないまま、彼女はナイフを持った手を僕の胸元にあてた。
ああ。
僕はどこで間違ったのか。
でも良かった。
彼女が僕を救ってくれるのだ。
「ありがとう」
どんな声だったのか、自分ではわからない。
その言葉を言った時には、ナイフは僕の胸元に入り込み、背中まで貫通してから、再び彼女の太もものあたりまで戻っていた。
電話が鳴る。
「もしもし。あたし。うん……ごめん、今片づけたけど、また逃がしたみたい。うん、分かった。また」
言葉短く電話を切る。
この通りで、いやこの辺りでこんなことは日常茶飯事だ。
いちいち感情を起伏させてなんてやってられない。
血のついたナイフを握ったまま、少女は通りを歩いていく。
世の中からはぐれた浮浪者たちが「彼」のもとに集まってくる。
そんなことは気にも留めず、彼女は歩いていく。
彼女が通りから見えなくなったあと、暗い道の端、残っていたのは、「彼」の幸せそうな最期を迎えた骸だけだった。