すね毛カツラが生まれた件
すね毛カツラが生まれた件
作業場には、静かな熱気があった。
長い作業台。
並べられた道具。
何本もの毛の束。
かつてこの場所では、人々の頭上を飾るカツラが作られていた。
今、台の上にあるのは。
脛の型だった。
藤田の脛から型を取ったものである。
◇
職人たちは、一つずつ課題を片付けていった。
最初は、毛流れだった。
「藤田幹部。かつてのすね毛は、どちらへ流れていましたか」
「上から下だ。ただし、脛の内側はやや外へ向かっていた」
「膝の近くは」
「渦を巻いていた」
職人は、それを図に描き起こした。
藤田の記憶だけが頼りだった。
自然な毛流れ。
頭髪用のカツラで長年磨いてきたその技術が、初めて脛のために使われた。
次に、密度。
「どの程度の濃さを再現しますか」
「並ではなかった」
藤田は、はっきりと言った。
「朝に剃っても、夜には存在を主張していた。蚊が入り込めば、出られなかった。あの密度が必要だ」
職人たちは頷き、植毛の間隔を詰めた。
詰めた。
さらに詰めた。
毛そのものも、頭髪用より硬く、太いものが選ばれた。
装着感。
歩く。
座る。
しゃがむ。
走る。
膝の曲げ伸ばしに、土台が追従しなければならない。
技術主任が、素材の配合を何度もやり直した。
耐水性。
汗。
雨。
風呂。
風にも雨にも負けない装着技術。
それは、この業界が長年誇ってきたものだった。
通気性。
夏に使うものである。
蒸れれば、肌が荒れる。
土台には細かな孔が開けられ、風が抜けるよう設計された。
そして、見た目の自然さ。
カツラにとって最も難しいのは、生え際である。
頭髪であれば、額。
脛であれば、足首と膝。
職人たちは、生え際の技術をそのまま応用した。
境目に向かって、毛の密度を少しずつ薄くしていく。
どこからが装着物で、どこからが肌なのか。
見てもわからないように。
誰も、手を抜かなかった。
誰も、ふざけなかった。
これは、カツラなのだ。
◇
試作品が完成したのは、夏の終わりが見え始めた頃だった。
藤田は、実験室の椅子に座った。
職人が、慎重に脛へ装着していく。
右。
左。
固定。
確認。
「どうぞ、ご確認ください」
姿見が運ばれてきた。
藤田は立ち上がり、ズボンの裾を膝まで捲り上げた。
そして、鏡を見た。
「……」
そこに、脛があった。
濃く。
黒々と。
上から下へ、ゆるやかに流れる毛。
膝の近くで、小さく渦を巻いている。
足首に向かって、自然に薄くなっていく。
藤田は、しばらく動けなかった。
「……自然だ」
小さく、そう言った。
手を伸ばす。
触れる。
逆撫でする。
指先に、あの抵抗感があった。
かつて毎日のように感じ、そして失った感触。
あの夜、脱衣所で「ない」と呟いたもの。
それが、戻ってきていた。
藤田は、職人たちに向き直った。
「……ありがとう」
それだけ言うのが、精一杯だった。
◇
翌日。
防蚊試験が行われた。
場所は、地下の実験室。
かつて藤田が、破壊玉の雨の中で身をよじった部屋である。
藤田は、部屋の中央に立った。
右脛には、試作品のすね毛カツラ。
左脛には、比較のため何も付けていない。
会長。
技術主任。
職人たち。
部下たち。
全員が壁際に並び、息を詰めて見守っていた。
蚊が、放たれた。
ぷうん、という羽音。
一匹が、ゆっくりと藤田の足元へ降りてくる。
藤田は、動かなかった。
瞬きすら、控えた。
蚊は、まず左脛へ向かった。
滑らかな皮膚に止まり。
迷わず、口を下ろす。
藤田は、動かなかった。
次の一匹が、右脛へ近づいた。
毛の表面に触れる。
そして、毛の間へ入り込んだ。
奥へ。
さらに奥へ。
そこで、止まった。
細い脚が、毛に絡まっていた。
羽が、毛の間に挟まっていた。
蚊は、もがいた。
抜け出そうとするたびに、毛は脚に、羽に、絡みついた。
少しずつ。
動きが小さくなっていく。
やがて。
蚊は、動かなくなった。
実験室は、静まり返っていた。
藤田は、自分の右脛を見下ろした。
遠い夏に見た光景と、同じだった。
「……効いている」
藤田は言った。
その声は、わずかに震えていた。
誰かが、手を叩いた。
一人。
また一人。
静かな拍手が、地下の実験室に広がっていった。
藤田は、目を閉じた。
左脛が、かゆかった。
右脛は、何ともなかった。
◇
脛用カツラは、正式に商品化された。
商品名は「すね毛カツラ」。
結社の店舗の、目立たない棚の片隅に置かれた。
最初は、誰も気づかなかった。
だが、ある日。
一人の客が、それを買っていった。
理由は、蚊だった。
しばらくして、その客がSNSに投稿した。
『足の蚊よけに、すね毛カツラというのを買ってみた。本当に刺されない』
写真には、黒々とした脛が写っていた。
どこからが装着物なのか、わからなかった。
投稿は広がった。
問い合わせが来た。
客が来た。
また、客が来た。
そして、いつの間にか。
世間では、それをこう呼ぶようになっていた。
『すね毛ウィッグ』
◇
その呼び名が会長の耳に入ったのは、ある日の定例会議だった。
「……ウィッグ、だと」
会長は報告書を握りしめたまま、長い間黙っていた。
ウィッグ。
かつて会長が、外道と呼んだ言葉である。
室内の誰も、口を開かなかった。
やがて会長は、報告書を机に置いた。
「世間が何と呼ぼうと、構わん」
静かな声だった。
「これは、カツラだ」
「はっ」
「我々の中で、その呼び名を使うことは許さん」
「はっ」
「……注文は」
「増えています」
「そうか」
会長は、窓のない地下室の天井を見上げた。
「職人を集めろ」
店に、客が戻ってきた。
カツラ職人の手が、再び足りなくなった。
◇
また、夏が来た。
藤田は、休日の道を歩いていた。
短パンである。
膝から下には、黒々としたすね毛。
風が吹く。
毛が、わずかになびく。
ぷうん、と羽音がした。
一匹の蚊が、藤田の脛へ降りてきた。
毛の間へ入り込む。
そして、出てこなかった。
藤田は立ち止まらなかった。
払いもしなかった。
ただ、歩き続けた。
すれ違う人々の中にも、時折、同じように黒々とした脛があった。
藤田はそれを見るたびに、小さく頷いた。
あの照射の日のことを、藤田は誰にも話していない。
自ら脛を差し出したことも。
脱衣所で踊ったことも。
これからも、話すことはない。
あの夜の誓いは、今も守られている。
藤田は、自分の脛を見下ろした。
この脛もまた、守られている。
そう思った。
◇
――遠い未来。
人類は、毛根を取り戻した。
そして同時に。
カツラ業界は、頭髪ではなく。
すねに、新たな未来を見出したのである。




