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すね毛カツラが生まれた件

作者: kawauso2017
掲載日:2026/10/04

すね毛カツラが生まれた件


 作業場には、静かな熱気があった。


 長い作業台。


 並べられた道具。


 何本もの毛の束。


 かつてこの場所では、人々の頭上を飾るカツラが作られていた。


 今、台の上にあるのは。


 脛の型だった。


 藤田の脛から型を取ったものである。


     ◇


 職人たちは、一つずつ課題を片付けていった。


 最初は、毛流れだった。


「藤田幹部。かつてのすね毛は、どちらへ流れていましたか」


「上から下だ。ただし、脛の内側はやや外へ向かっていた」


「膝の近くは」


「渦を巻いていた」


 職人は、それを図に描き起こした。


 藤田の記憶だけが頼りだった。


 自然な毛流れ。


 頭髪用のカツラで長年磨いてきたその技術が、初めて脛のために使われた。


 次に、密度。


「どの程度の濃さを再現しますか」


「並ではなかった」


 藤田は、はっきりと言った。


「朝に剃っても、夜には存在を主張していた。蚊が入り込めば、出られなかった。あの密度が必要だ」


 職人たちは頷き、植毛の間隔を詰めた。


 詰めた。


 さらに詰めた。


 毛そのものも、頭髪用より硬く、太いものが選ばれた。


 装着感。


 歩く。


 座る。


 しゃがむ。


 走る。


 膝の曲げ伸ばしに、土台が追従しなければならない。


 技術主任が、素材の配合を何度もやり直した。


 耐水性。


 汗。


 雨。


 風呂。


 風にも雨にも負けない装着技術。


 それは、この業界が長年誇ってきたものだった。


 通気性。


 夏に使うものである。


 蒸れれば、肌が荒れる。


 土台には細かな孔が開けられ、風が抜けるよう設計された。


 そして、見た目の自然さ。


 カツラにとって最も難しいのは、生え際である。


 頭髪であれば、額。


 脛であれば、足首と膝。


 職人たちは、生え際の技術をそのまま応用した。


 境目に向かって、毛の密度を少しずつ薄くしていく。


 どこからが装着物で、どこからが肌なのか。


 見てもわからないように。


 誰も、手を抜かなかった。


 誰も、ふざけなかった。


 これは、カツラなのだ。


     ◇


 試作品が完成したのは、夏の終わりが見え始めた頃だった。


 藤田は、実験室の椅子に座った。


 職人が、慎重に脛へ装着していく。


 右。


 左。


 固定。


 確認。


「どうぞ、ご確認ください」


 姿見が運ばれてきた。


 藤田は立ち上がり、ズボンの裾を膝まで捲り上げた。


 そして、鏡を見た。


「……」


 そこに、脛があった。


 濃く。


 黒々と。


 上から下へ、ゆるやかに流れる毛。


 膝の近くで、小さく渦を巻いている。


 足首に向かって、自然に薄くなっていく。


 藤田は、しばらく動けなかった。


「……自然だ」


 小さく、そう言った。


 手を伸ばす。


 触れる。


 逆撫でする。


 指先に、あの抵抗感があった。


 かつて毎日のように感じ、そして失った感触。


 あの夜、脱衣所で「ない」と呟いたもの。


 それが、戻ってきていた。


 藤田は、職人たちに向き直った。


「……ありがとう」


 それだけ言うのが、精一杯だった。


     ◇


 翌日。


 防蚊試験が行われた。


 場所は、地下の実験室。


 かつて藤田が、破壊玉の雨の中で身をよじった部屋である。


 藤田は、部屋の中央に立った。


 右脛には、試作品のすね毛カツラ。


 左脛には、比較のため何も付けていない。


 会長。


 技術主任。


 職人たち。


 部下たち。


 全員が壁際に並び、息を詰めて見守っていた。


 蚊が、放たれた。


 ぷうん、という羽音。


 一匹が、ゆっくりと藤田の足元へ降りてくる。


 藤田は、動かなかった。


 瞬きすら、控えた。


 蚊は、まず左脛へ向かった。


 滑らかな皮膚に止まり。


 迷わず、口を下ろす。


 藤田は、動かなかった。


 次の一匹が、右脛へ近づいた。


 毛の表面に触れる。


 そして、毛の間へ入り込んだ。


 奥へ。


 さらに奥へ。


 そこで、止まった。


 細い脚が、毛に絡まっていた。


 羽が、毛の間に挟まっていた。


 蚊は、もがいた。


 抜け出そうとするたびに、毛は脚に、羽に、絡みついた。


 少しずつ。


 動きが小さくなっていく。


 やがて。


 蚊は、動かなくなった。


 実験室は、静まり返っていた。


 藤田は、自分の右脛を見下ろした。


 遠い夏に見た光景と、同じだった。


「……効いている」


 藤田は言った。


 その声は、わずかに震えていた。


 誰かが、手を叩いた。


 一人。


 また一人。


 静かな拍手が、地下の実験室に広がっていった。


 藤田は、目を閉じた。


 左脛が、かゆかった。


 右脛は、何ともなかった。


     ◇


 脛用カツラは、正式に商品化された。


 商品名は「すね毛カツラ」。


 結社の店舗の、目立たない棚の片隅に置かれた。


 最初は、誰も気づかなかった。


 だが、ある日。


 一人の客が、それを買っていった。


 理由は、蚊だった。


 しばらくして、その客がSNSに投稿した。


『足の蚊よけに、すね毛カツラというのを買ってみた。本当に刺されない』


 写真には、黒々とした脛が写っていた。


 どこからが装着物なのか、わからなかった。


 投稿は広がった。


 問い合わせが来た。


 客が来た。


 また、客が来た。


 そして、いつの間にか。


 世間では、それをこう呼ぶようになっていた。


『すね毛ウィッグ』


     ◇


 その呼び名が会長の耳に入ったのは、ある日の定例会議だった。


「……ウィッグ、だと」


 会長は報告書を握りしめたまま、長い間黙っていた。


 ウィッグ。


 かつて会長が、外道と呼んだ言葉である。


 室内の誰も、口を開かなかった。


 やがて会長は、報告書を机に置いた。


「世間が何と呼ぼうと、構わん」


 静かな声だった。


「これは、カツラだ」


「はっ」


「我々の中で、その呼び名を使うことは許さん」


「はっ」


「……注文は」


「増えています」


「そうか」


 会長は、窓のない地下室の天井を見上げた。


「職人を集めろ」


 店に、客が戻ってきた。


 カツラ職人の手が、再び足りなくなった。


     ◇


 また、夏が来た。


 藤田は、休日の道を歩いていた。


 短パンである。


 膝から下には、黒々としたすね毛。


 風が吹く。


 毛が、わずかになびく。


 ぷうん、と羽音がした。


 一匹の蚊が、藤田の脛へ降りてきた。


 毛の間へ入り込む。


 そして、出てこなかった。


 藤田は立ち止まらなかった。


 払いもしなかった。


 ただ、歩き続けた。


 すれ違う人々の中にも、時折、同じように黒々とした脛があった。


 藤田はそれを見るたびに、小さく頷いた。


 あの照射の日のことを、藤田は誰にも話していない。


 自ら脛を差し出したことも。


 脱衣所で踊ったことも。


 これからも、話すことはない。


 あの夜の誓いは、今も守られている。


 藤田は、自分の脛を見下ろした。


 この脛もまた、守られている。


 そう思った。


     ◇


 ――遠い未来。


 人類は、毛根を取り戻した。


 そして同時に。


 カツラ業界は、頭髪ではなく。


 すねに、新たな未来を見出したのである。


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