時計台の下の天使
街を見下ろすように、大きな時計台が立っていた。
欠けたレンガ。湿った壁。古い地下に染みついた、かすかなカビの臭い。
その地下には、天使がいた。
大きな翼を持つ、ひとりの娘。
重たい鎖に繋がれ、暗がりの中に沈められていた。
階段を下りてくる足音が、冷たく、硬く、地下に響くたびに、天使の身体がびくりと震える。
喉の奥で潰れたような呻き声が漏れ、鎖がかすかに鳴った。
ひび割れた壁の隙間から差し込むわずかな光が、翼だけを照らしている。
それは異様なほど白く、美しかった。
けれどその下にある身体は、もはや翼を支えるためだけに残されたようなものだった。
骨と皮ばかりの、娘の亡骸じみた肉。
生きているのか。
それとも、まだ死に切れていないだけなのか。
「……久しぶり、ミェロ」
足音が止んでいた。
そこに立っていたのは、フードを目深に被った眼鏡の女だった。
妙に親しげで、妙にやさしい声音だった。
カチャ、カチャ。
返るのは、鎖の張る音だけ。
「……聞こえている? 私よ、ミェロ。安心して」
女はそう囁いて、痩せこけた頬を両手で包んだ。
骨ばった輪郭を、慈しむように撫でる。
「あぁ……こんなにも痩せてしまって」
その声音は、まるで本当に痛ましがっているようだった。
やがて女は大きな革の鞄を開き、中からパンを取り出す。その香ばしい匂いが鼻の奥に広がった途端、天使の身体がかすかに前のめった。
そして、貪る。
目は潰されたのだろう。
耳も、声も。
けれど空腹だけは、まだ残っているようだ。
パンにかじりつくたび、白い喉が細く上下する。
その無防備な首筋に、女は慣れた手つきで注射針を差し込んだ。
天使は気づかない。
いや、気づいても、もう抗えないのかもしれない。
やがて食べ終えると、女はその肩を抱き寄せた。
抱擁というには少し強すぎる力で、ぎゅうと。
「大丈夫よ、ミェロ。私は貴方を忘れない。この先もずっと……」
ボーン、ボーン。
時計台の鐘が鳴る。
重く、鈍く、地下の奥まで揺らすように。
その瞬間、天使の身体が強張った。
見えないはずの目を、それでも何かを見ようとするみたいに見開いて。
鐘の振動で、地面がわずかに震える。
その揺れを、何度も何度も、この子は恐怖と結びつけて覚えてしまったのだろう。
「……きっと、よく眠れるわ。疲れたでしょう」
女の声はひどくやさしい。
子どもを寝かしつける母親のように。
やがて、天使の手から力が抜けた。
長いあいだ擦りつけられてできた床のくぼみに、その指先が落ちる。
その瞬間だった。
翼の白さが、すっと深まった。
濁りが抜け、凍るように澄み、限りなく完全な白へ近づいていく。
まるで、残っていた身体のすべてを喰い尽くして。
肉も、血も、命の名残も。
最後の最後まで、翼のための養分に変えてしまったかのように。
「……大丈夫よ、ミェロ」
女は囁く。
「私にとって、貴方は特別だから」
その白い翼に手を伸ばす。
そして、ためらいもなく、羽根を数枚むしった。
ぶち、ぶち、という小さな音。
「……ここまで育ててくれて、ありがとう。ミェロ」
女は羽根を胸元に抱き、静かに微笑んだ。
彼女の亡骸は、大きな翼の白さの下に隠れた。




