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矢吹セイジ 〜生きる意味を失った男〜

作者: ロック
掲載日:2026/03/29

矢吹セイジは、30歳で生活保護受給者である。

きっかけは彼が22歳で商社勤務になった時である。


部署配属後、彼は雑用係を担当していたが指先が不器用な彼は顧客に向けた送付資料の仕分けもミスし、単純業務も与えられなくなり、その後半年後に解雇された。

能力不足の彼はその後6社以上の会社から解雇され、25歳の時精神障害者手帳を取得しその後しばらく経ち、彼は生活保護受給者となった。


彼の1日は16:00から始まり彼は、図書館で借りた教育番組の「ぱおばおぶー」や「ペングー」、「れっしゃエジソン」のVHSを3時間ほど見た後、その後10kmほど走り、その後6時間読書をする。

読書が終わったら8:00までゲームをし、8:00にシャワーを浴び、8:30に食事をとり、その後倒れるように眠る。


こんな毎日を26歳からずっと続けている。

彼の読んでる本は、東京大学の赤本や、量子力学についての本を好む。医学書や専門書も好むが、こういった世間との乖離がさらに孤立を悪化させる。


また、彼は職場で吐いたことがあり、それは職場でのランチ会で、彼は1日1食生活を大学時代から続けてきたが同期会でランチをすることになり、なれないランチでランチ会場で嘔吐し、その後彼は職場でランチに誘われなくなった。


また22歳当時彼は自分がディファクトスタンダードだと思い、彼は同期に休日の過ごし方を聞かれたことがあり、彼は「国立国会図書館に行って1956年に執筆された量子論の文献を読むことが好き」ということを話すと、彼はさらに孤立した。

そして、彼自身は孤立した原因をよくわかっておらず、低俗な凡人と周りを見下すようになり、また彼のプライドは著しく高く、今までの経験から、接客業や軽作業関連の業務に従事することを拒み、何度もケースワーカーと対立をした。



彼の部屋はいつも薄暗かった。カーテンは十年以上開けられた形跡がなく、午後の光さえほとんど差し込まない。蛍光灯のちらつきだけが、壁に貼られた古い大学受験ポスターと、床に積まれた専門書の背表紙を不規則に照らし出す。


矢吹セイジは今日も16時ちょうどに目を覚ました。

目覚ましは鳴らない。体内時計が正確に16:00を知らせる。まるで機械の部品がカチリと嵌まるように。


彼はベッドから起き上がり、床に置かれたVHSデッキの電源を入れる。

今日は「れっしゃエジソン」の第12話から。子供向けの教育番組とはいえ、蒸気機関の原理説明が妙に丁寧で、セイジはそれを好んだ。解説者が「ピストンが上下するたびに、世界は少しずつ動くんですよ」と笑顔で言うたびに、彼は小さく頷く。

世界は動いている。だが自分は動いていない。それが彼にとって唯一の確信だった。


三時間後、テープが終わると彼は立ち上がり、靴を履く。

ランニングウェアはもう色褪せて、脇の縫い目が裂けかけている。それでも彼は毎回同じものを着る。新しい服を買う金はないし、買う意味もないと思っている。


外に出ると、冬の空気が肺に刺さった。

彼はいつものコースを走り始めた。10キロ。

正確には10.2キロ。公園の外周を7周半、住宅街の裏道を突っ切り、最後に川沿いの遊歩道を往復する。距離はいつも同じ。時計はいつも同じ時間を刻む。


走りながら、彼は頭の中で論文の要約を反芻する。

今日の読書予定は『量子力学における測定問題――コペンハーゲン解釈と多世界解釈の相克』。

著者はもう亡くなっている。セイジはそれを知っている。知っているからこそ、ページをめくるたびに奇妙な優越感と、深い虚無が同時に胸を刺す。


走り終えると汗で全身が冷えていた。

彼はコンビニの前に立ち、自動販売機で500mlのスポーツドリンクを買う。

いつも同じ銘柄。いつも同じ味。

変化を拒むことが、彼の唯一の抵抗だった。


帰宅してシャワーを浴び、6時間の読書が始まる。

机の上には赤本が三冊、医学書が二冊、量子力学の原著が一冊、そして図書館で借りたばかりの『シュレーディンガーの猫はなぜ死なないのか』が置かれている。

彼は一ページも飛ばさず、鉛筆で線を引きながら読む。

時折、ページの端に小さな字でメモを入れる。


「多世界解釈において、観測者は分岐するすべての世界に同時に存在する。

しかし『俺』という意識は一本の時間軸にしか乗れない。

それが苦痛の根源である」


彼はそこで鉛筆を止めた。

ふと、自分の指先を見た。

爪の周りが荒れ、皮膚がひび割れている。

不器用な指先。

あの頃から何も変わっていない。


22歳の夏。

初めての職場で、顧客宛の封筒に間違った資料を入れてしまった。

上司に呼ばれ、会議室で叱られた。

「矢吹くん、君は本当に何もできないんだね」


その言葉が、今でも耳の奥に残っている。

何もできない。

何もできない。

何もできない。


彼は立ち上がり、冷蔵庫を開けた。

中には納豆が三パックと、賞味期限切れの豆腐と、昨日コンビニで買ったおにぎりが二つ。

彼は納豆を一パック開け、ご飯の上に乗せた。

箸でかき混ぜながら、窓の外を見た。

外はもう真っ暗だった。


食事を終え、ゲーム機の電源を入れる。

画面には見慣れたRPGのタイトル画面。

彼はレベル上げを始めた。

キャラクターを同じ場所で何時間も戦わせ、経験値を稼ぐ。

目的はない。ただ、数字が上がっていくのを見るのが好きだった。

現実では何も上がらない。

だからせめて、ここでは。


午前8時。

ゲームを終え、シャワーを浴び、食事を済ませ、布団に倒れ込む。

いつもと同じサイクル。

いつもと同じ無。


だがその夜、いつもと違うことが起きた。


眠りに落ちる直前、携帯が鳴った。

着信音は古い着メロのまま。

画面を見ると「ケースワーカー 山田」と表示されていた。


彼は一瞬、息を止めた。

ケースワーカーからの電話は滅多にかかってこない。

しかも夜のこの時間に。


「……はい」


「矢吹さん? 夜分にすみません。山田です」


声はいつもより硬かった。


「実は、明日、ちょっと大事なお話があって。

できれば直接お会いしたいんですが……明日の午後、こちらに来ていただけますか?」


セイジの喉が鳴った。


「大事な話って、何ですか」


「ええと……その、保護の継続に関わる内容なんです。

詳しくはお会いしてからお話しします」


沈黙が落ちた。


「……わかりました」


電話が切れた後、彼はしばらく天井を見上げていた。

心臓が、いつもより少し速く鳴っていることに気づいた。


翌日、14時。

役所の面接室。


山田はいつものように穏やかに微笑んでいたが、目尻に深い皺が刻まれていた。


「矢吹さん、今日はお忙しいところありがとうございます」


「いえ」


「実はですね……今年度から、生活保護の運用方針が一部変わりまして」


セイジは目を細めた。

嫌な予感がした。


「具体的には、『就労可能な状態にある受給者』に対して、より積極的な就労支援を行うという方針が強化されたんです」


「……それが、俺にどう関係するんですか」


山田は一瞬、視線を落とした。


「矢吹さんの診断書を確認したんですが……

うつ病の症状は現在、比較的安定していると記載されていますよね。

精神障害者手帳も3級ですし」


「……だから?」


「ハローワークと連携して、就労支援プログラムに参加していただくことが、保護継続の条件になる可能性が出てきたんです」


セイジの指が、膝の上で固まった。


「拒否したら、どうなるんですか」


「……最悪の場合、保護の打ち切りもあり得ます」


部屋の中に、重い静寂が落ちた。


セイジはゆっくりと息を吐いた。


「……俺は、働けないんですよ」


「それはわかっています。でも――」


「働けないんです。

働こうとしたら、吐くんです。

人前に立つと、胃が裏返るんです。

それが、俺の体なんです」


山田は目を伏せた。


「矢吹さん……正直に言います。

私も、ずっとあなたをこのままにしてはいけないと思っていました。

あなたは、頭がいい。

読んでいる本を見れば、誰だってわかります。

こんなに難しい本を、毎日何時間も読んでいる人が、

本当に何もできないわけがない」


セイジは笑った。

乾いた、短い笑いだった。


「低俗な凡人がわかったことを言うんじゃない!」


山田は言葉を失った。


セイジは立ち上がった。


「俺は、もういいです。

保護を切るなら、切ってください。

どうせ、俺みたいな人間は、いなくなっても誰も困らない」


彼はそう言い残し、面接室を出た。


外は冷え込んでいた。

セイジはいつものコースを歩き始めた。

走る気にはなれなかった。

ただ、足を動かしたかった。


川沿いの遊歩道を歩きながら、彼はふと思った。


――もし、多世界解釈が本当なら。

今この瞬間、別の俺は、別の世界で、別の人生を生きているのかもしれない。


普通に会社に勤めている俺。

結婚して子供がいる俺。

笑って酒を飲んでいる俺。


でも、この世界の俺は、ここにいる。

誰もいない遊歩道で、凍える指を握りしめて。


彼は立ち止まった。


川の水面が、街灯の光を乱反射していた。

黒く、冷たく、静かに流れている。


「……俺は、どの世界でも、きっと同じだ」


呟いた声は、風に消えた。


その夜、彼はいつものようにVHSを入れた。

だが、再生ボタンを押す前に、ふと手を止めた。


テープのラベルには、子供の字で「れっしゃエジソン」と書いてある。

図書館で借りたものだ。

返却期限は、明後日。


彼はテープを手に持ったまま、しばらく動かなかった。


そして、ゆっくりとデッキから取り出し、

ゴミ箱の横に置いた。


初めてだった。

四年ぶりに、子供向けの教育番組を見ない夜が来た。


彼は机に向かい、いつものように本を開いた。

だが、今日は赤本でも、量子力学の原著でもなかった。


机の隅に積まれていた、一冊の薄い文庫本。


『カラマーゾフの兄弟』


大学一年のとき、講義で名前だけ知った本。

一度も開いたことがなかった。


彼はページをめくった。


最初の数行を読んだ瞬間、胸の奥が震えた。


「私はね、人間がこんなにも苦しめることを、許せないんだ」


セイジは目を閉じた。


涙は出なかった。

ただ、喉の奥が熱くなった。


彼は本を閉じなかった。

そのまま、夜が明けるまで読み続けた。


翌朝、8時半。

いつものように食事を終え、布団に倒れ込むはずだった。


だが彼は、立ち上がった。

立ち上がってフラフラと家を出て歩いた。

しかし、目の前になんと動物園から逃げ出した18メートルほどの巨大なカバが矢吹に突進。


矢吹は死んだ


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