第16話
トマヤの城壁は、鋼のような沈黙を湛えていた。
残り一週間――石の期限が、砂のように指の間から零れ落ちる。
空は淀み、遠くの地平線から、黒い潮が迫る。
民の国イナの軍勢だ。
新聞の断片や斥候の囁きが告げていた通り、彼らは「数」を武器に、すべてを飲み込もうとしていた。
平原に広がるのは、無数の敵――粗末な鎧を纏った農夫、漁師、職人たちの群れ。
槍の穂先が光を鈍く反射し、足音が大地を震わせる。
一万、いや二万か。
彼らの目は、飢えと渇望で濁り、口元に「石は民のものだ」という呪文のような叫びがこぼれる。
百年戦争の残り火が、彼らを狂わせた。
だが、カイトの胸に蘇るのは、そんな高尚なものではなかった。
「またか……この無意味な波が」
双眼鏡を握る手が、わずかに震える。
同盟の角笛が、鳴り響く。
盾の王国軍の歩兵たちが、城壁の基部に槍衾を構え、マラカンの重装騎兵が側面を固める。
テオの傭兵部隊が陣を張る。
リナの弓が弦を確かめ、エラの小さな手が双眼鏡を握りしめる。
カイトは息を整える。
「カイト、気配は?」
テオの声が、わずかに陰りを帯びていた。
「正面から五千、いやもっと。イナの先鋒だ。後方にドラゴン……ルプスの連中が、逆から来てる」
リナが告げる。
「包囲の形。イナの人海で注意を引き、ドラゴンで後方を突く。補給線が細い今、持たないわ」
エラの瞳が、興奮と怯えで揺れる。
「テオ、敵の旗に……変な紋章。三つ、鬼の面を確認」
その言葉で、カイトの背筋が凍る。
斥候の報告が、脳裏に蘇る。
イナの三大鬼――人造の怪物たち。
捕らえた魔女のコアを、民の肉体に埋め込んだ禁忌の産物。
「来たか……」
角笛の合図が、再び鳴る。
平原の潮が、加速する。
イナの軍勢が、叫びを上げて突進を始める。
「石を! 不滅を、民に!」
波のような足音が、大地を叩く。
矢の雨が空を覆い、城壁の魔法灯が淡く閃く。
盾軍の歩兵が盾を構え、槍が敵の先頭を貫く。
マラカンの騎兵が側面を薙ぐが、敵の勢いは止まらない。
一人の農夫が槍に串刺しになりながらも、前へ前へ。
次の男がその体を踏み台に、城壁の基部に肉薄する。
叫びが、連鎖する。
カイトの指が、短銃の引き金に触れる。
乾いた銃声が響き、敵の喉を抉る。
硝煙が広がる中、周囲の傭兵たちが剣を抜き、応戦を始める。
テオが前に出た。
彼の剣が、無言の鋭い曲線を刻み――一閃で先頭の二名を捉え、喉元から腹までを斜めに裂いた。
敵の体がもつれ合いながら倒れる。
後方のドラゴンの咆哮が轟き、包囲の網が徐々に締まる気配を察知したテオは、即座に声を張る。
「陣形を菱形に再構築! 正面の波を盾軍で受け止め、騎兵は右翼を固めて分断を防げ! 後方のドラゴンが近づいたら、煙幕を張って視界を奪う――突破ルートは東門だ。補給線を切られる前に、押し返すぞ!」
その言葉を受けて、傭兵たちの肩が引き締まり、疲れた目が一瞬、炎のように輝く。
盾軍の歩兵が即座に槍衾を密にし、マラカンの騎兵が馬を回して側面を強化――陣形が生き物のように変形し、士気が灯る。
剣を握る手が強くなり、叫びの連鎖が、一瞬の隙に味方の息づかいに変わる。
カイトは短銃を構え直す。
テオの指示が、混沌を少しだけ、秩序づける。
だが、それは束の間。
平原の奥から、低い地響きが響く。
人海の波が、わずかに割れる。
そこから現れたのは、三つの影。
鬼の面を被ったような、異形のシルエット。
胸に黒い脈動が蠢き、魔力が空気を歪める。
三大鬼だ。
先頭の巨漢――ガルドが、岩化した拳を地面に叩きつける。
ドゴン!
衝撃波が広がり、盾軍の歩兵三名が吹き飛ばされる。
「同盟の犬ども……石は、民の血で還る!」
その咆哮に、セリナの霧が渦巻き、ザークが滑るように周囲を回る。
敵が城壁に殺到する。
ドラゴンの咆哮が、後方から轟いた。
テオの目が、鋭く細まる。
「分断される前に、叩く! カイト、お前は岩野郎を。俺とエラで霧女を追う。リナ、後方の男を頼む! ……生き延びろ」
リナが弓を構える。
エラの小さな手が、テオの袖を掴む。
カイトはマシンガンを肩から下ろし、柄を回す準備をする。
回転音が、心臓の鼓動のように響く。
「了解」
三大鬼が迫る。
新たな連鎖の、幕開けだ。
だが、カイトの胸には、祈りにも似た予感が灯っていた。
生き延びろ――それだけが、約束の糧だ。




