第93話:一ノ瀬直也
――昨夜の言葉が、まだ頭から離れなかった。
「次にキスする時は、直也さんからしてほしいの。私が本当に“大人の素敵な女性”になったって直也さんが認めてくれた時に――義兄妹として最初で最後のキスをしてもらうの」
「保奈美は……もう直也さんに、いつでも“好きにしてもらっていい”って思ってるの。キスだけじゃなく、その……全部……。だから、そう思ってるってことだけは……それだけは、直也さんに知っておいてほしいの」
その真っ直ぐな眼差しと、震える声。
オレは思わず彼女を抱き寄せてしまった。浴衣越しに感じた温もりと鼓動が、まだ腕の中に残っている気がする。
けれど――そこで踏みとどまれたのは、やっぱり保奈美を本当に大切に思っているからだった。
彼女を焦らせたり、無理に背伸びさせたりすることは、絶対にしたくない。
だからこそ余計に、今朝、千鶴さんにすれ違いざま見透かされたようで、気まずくて仕方がなかった。
※※※
朝食を終えて、皆で部屋を片付けをしている時のことだ。
掃除機をかけていると、千鶴さんが横に来て、ふと笑った。
「直也さんは、真面目すぎるのね」
ドキリとした。
そのまま、彼女はさらりと続けた。
「保奈美ちゃんがね、“誤解されたままじゃイヤだ”って必死に言っていたわよ。……でも逆に、直也さんも、少しは羽目を外すくらいのほうがいいんじゃない?」
「……っ」
言葉に詰まり、布巾を持つ手が止まった。
真面目にやっているつもりが、かえって彼女にはそう映ってしまっているのか。
けれど、笑みを含んだ千鶴さんの瞳には、責める色はなくて――ただ、からかうような大人の余裕が漂っていた。
「いや……それは、その……」
うまく返せない。
「真面目なだけでは絶対にもたないわ。たまには吐き出さないと。……でもそいういう時は……こっそり五井物産グループ指定療養施設『加納屋』にいらしてくださいね」
イタズラっぽい表情のまま千鶴さんにそう言われてしまった。
「それとも、こんなシングルマザーな女将は全く興味がないのでかしら?」
「いや、そういう事ではなくてですね」
頬が熱くなるのを自覚しながら、返答に窮したまま、オレは視線を外した。
「ふふっ」
千鶴さんはそれ以上追及せず、軽く肩をすくめて立ち去っていった。
残されたオレは、心臓が落ち着くまで深く息を吐くしかなかった。
※※※
今日は日曜日。
それでも朝の時間は慌ただしい。
遥さんは「早めに戻って、どうしても片付けたい案件があります」と言い、タクシーを加納屋まで呼んでもらって、東京へ戻っていった。
(……あの人らしいな)
最後まで凛として背筋を伸ばした姿に、ただ感心するばかりだった。
その一方で、オレたちはすぐに次の行動へ移る。
視察に向かうため、加納屋の玄関先に三台の車が並んだ。
慎一さんのステーションワゴン、直美さんの軽バン、そして千鶴さんの軽自動車。
「じゃあ、誰がどこに乗るか決めようか」
慎一さんの声に、一同の空気がぴしりと固まった。
まず莉子が元気よく手を挙げる。
「私は直也くんと一緒に居ないと……そこで場所の相談をしたいし」
オレの隣で、保奈美は静かに一歩前へ出た。
「……私は直也さんの隣って決めています」
「え?」
待て待て、どっちも当然みたいに言わないで欲しいんだけどな。
亜紀、玲奈、麻里は苦笑してこの様子を見ている。
結局――。
慎一さんのワゴン、助手席に高田さん。後部座席に 莉子(左)‐オレ(真ん中)‐保奈美(右) という、微妙な感じの板挟み配置にされてしまった。
慎一さんは「これ、このワゴン運転したくないなぁ」と苦笑しているが、冗談ではない。いっそのことオレが運転させてもらった方がいいくらいだ。
「……いや、ちょっと狭いんじゃないかなぁ?」
と言うのだが、保奈美も莉子も全く聞き入れようとしない。
一方その頃、直美さんの軽バンには亜紀と玲奈が分乗し、千鶴さんの軽自動車に大地と麻里が乗り込む事で分乗の割り振りは決まった。
さて、慎一さんの車内の雰囲気は微妙だ。
保奈美はオレの腕をがっちりとつかんだままだ。
莉子は莉子で周辺地図を見ながらオレにくっついて話しかけてくる。
そしてあのカラオケ対決事件依頼、この二人は仲直りは絶対しないとお互いに言い張ったままなのだから、オレも非常に気詰まりだ。
ルームミラー越しに慎一さんと目が合った。
「……がんばれ」
小声でそう言われた。
(がんばれるのかなぁ、オレ……)
こうして、八幡平視察の車列は出発した。