第92話:加納千鶴
朝の廊下は、まだ静かだった。
私は自室に戻ろうと歩いていたが、その途中で、ふと足を止めた。
――一ノ瀬保奈美ちゃん。
彼女が直也さんの部屋から出てきたところだった。
私と目が合った瞬間、保奈美ちゃんは顔を真っ赤に染め、慌てて小さく会釈をした。
私は立ち止まり、すれ違いざまに「……おはよう」と微笑みかける。
保奈美ちゃんは一層赤くなり、そのまま逃げるように自分の部屋へ駆け込んでいった。
(――やっぱり。まさか、そこまでとはね)
昨日の昼食のときから感じていた。
あの二人の間にあるのは、単なる義兄妹という枠を超えた、長年連れ添った夫婦のような濃密な空気。
だが今朝の光景で、それが確信に変わった。
私は軽く息を吐き、皆の朝食の支度に向かうことにした。
※※※
調理場に入ると、すぐに保奈美ちゃんがやってきた。
普段着に可愛いエプロンを付けて、手早くお手伝いをしてくれる。
「ありがとうね。保奈美ちゃん」
私が声をかけると、彼女はびくりと肩を震わせた。
「保奈美ちゃんは、まだ若いんだから……焦らずともいいのよ」
からかうでもなく、そっと言葉を添えると、保奈美ちゃんは真っ赤になって小さく頷いた。
言い返すこともできず、ただ俯いたまま。
(かわいい子……でも、この真剣さが直也さんを惹きつけるんでしょうね)
※※※
集会場の支度でも、保奈美ちゃんがテーブルを並べ、座布団を整え、てきぱきと準備を進めてくれる。
その姿に思わず笑みがこぼれる。
そこへ、直也さんがやってきた。
「オレも手伝うよ」
そう言って布巾を手に取ろうとする姿は、いつも通り自然体で、けれどどこか照れくさそうでもあった。
私は布巾でテーブルを拭きながら、軽く笑った。
「直也さんも……こんなに可愛い女の子の気持ちを弄んじゃダメですよ」
ガタッ。
保奈美ちゃんと直也さんの動きが同時に止まった。
二人の間に走る微妙な緊張。
私はくすりと笑い、布巾で机を拭きながら小さく囁いた。
「ふふふっ。大丈夫。ナイショ、ナイショ」
そう言って微笑むと、保奈美ちゃんはますます真っ赤になり、直也さんは視線を逸らした。
大人だけが知る「秘密」の愉快さを胸に抱きながら、私は拭き掃除を続けた。
布巾を手にテーブルを拭いていると、廊下から足音が近づいてきた。
眠そうな顔で髪の毛がぼさぼさのまま現れたのは玲奈さん。
そして、欠伸を噛み殺しながら伸びをしているのは亜紀さんだった。
「……ん? 直也がもう手伝ってるの?」
玲奈さんの視線が保奈美ちゃんと直也さんに向いた。
途端に、二人の姿を認めた彼女の表情が固まる。
亜紀さんも同じく気づき、「ちょ、ちょっと……」と目をこすりながら慌てて姿勢を正す。
二人して「私も手伝う!」と声を上げかけたものの――互いに相手の寝起きの姿を見て、固まった。
「……え」
「……あんた、目の隈が、ちょっと……」
互いに言い合ったあと、ハッとしたように赤面して、急いで部屋に引き返していった。
その背中を見送りながら、思わず小さく笑ってしまう。
(……可愛い子たちね。あんなに取り繕わずともいいのに)
代わって、姿を現したのは麻里さんだった。
きちんと身なりを整えた浴衣姿に羽織を重ね、髪もきれいに整えてある。
「おはようございます」
そう言って自然に直也さんと保奈美ちゃんの動きに加わり、無駄のない手つきで配膳を手伝い始めた。
さらに遅れて莉子さんと高田さんがやってきて、楽しそうに料理を並べ始める。
とりわけ莉子ちゃんは元気そうだ。
今日は八幡平周辺で、フェスに最適そうな場所を探そうと直也さんが昨日言っていたので、莉子さんが言ってみれば主役の日になる。
そして――。
「お待たせ!」
勢いよく障子を開けて入ってきたのは、ばっちりメイクを決めた玲奈さんと亜紀さん。
さっきまで寝起き姿で慌てていたのが嘘のように、華やかな顔立ちを整えて登場する。
「さあ、手伝うわよ」
「ええ、もちろん!」
二人が並んで配膳を手伝い出す光景は、どこか張り合っているようで、それでいて楽しげでもあった。
私は布巾を動かしながら、心の中で小さく笑った。
(……やっぱり、女の子たちの朝は戦場よね)
朝食の支度が整い、みんなでちゃぶ台を囲んだ。
炊きたてのご飯に味噌汁、焼き魚に漬物。素朴だけれど温かい膳を前に、自然と会話も弾んでいく。
「昨夜は皆さん、ちゃんと眠れましたか?」
私がふと問いかけると、すぐに声が返ってきた。
「いやぁ〜、流石にちょっと飲み過ぎましたね〜」
苦笑いする亜紀さん。
「私はお風呂から上がったら、すぐに寝入っちゃいました」
玲奈さんはあくびを噛み殺しながら答えた。
莉子ちゃんや麻里さんもそれぞれ頷き合う。
ただひとり――保奈美ちゃんだけが、顔を真っ赤にして俯いていた。
お箸をぎゅっと握りしめて、視線を上げようとしない。
(……あら、やっぱりね)
食事を終え、みんなで後片付けをする。
調理場に皿を運んでくれた保奈美ちゃんが、そのまま手際よく洗い物を始めてしまった。
「ありがとうね、保奈美ちゃん。でも、もう大丈夫だから、自分の支度をしたほうがいいわよ」
私がそう声をかけると、彼女は小さく首を振った。
「あの……今朝のは、別に、そういうんじゃなくて……」
ぽつりと落とした声に、私は手を止める。
「そうなの?」
笑みを含んだ問いに、彼女はさらに真っ赤になりながら言葉を継いだ。
「……でも、そうだとしても……時間の問題のような気がするわね」
からかうように言うと、保奈美ちゃんは勢いよく首を振った。
「あの、直也さんは……そんな人ではないです。ただ……抱きしめてくれただけで。それで、安心して寝られました。……直也さんが、そんないい加減な人だと誤解されたままなのはイヤなので、それだけは知っていただきたくて」
真剣な眼差し。
その必死さに、私はふっと笑みを深めた。
「そっか。……でも、それが本当なら、直也さんは本当に保奈美ちゃんのことを大切にしているのね」
私は濡れた手を布巾で拭きながら、少し冗談めかして続けた。
「でも、良かった。……それなら私も納得できるかな。……だって温泉で裸だった私には何もしてくれないのに、もし保奈美ちゃんにだけそんなだったら――女としては、ちょっと悔しすぎるし、納得いかないもの」
保奈美ちゃんは、ますます俯いてしまった。
その耳まで真っ赤に染まっている。
「……直也さんって、本当に真面目な方なのね」
保奈美ちゃんが頷く。
私は優しく言い添えた。
「じゃあ、このことは二人だけの内緒にしておきましょう。ナイショ、ナイショ」
そう言って人差し指を唇に当てると、保奈美ちゃんはまた小さく頷いた。
その仕草は、まだあどけなさを残す少女のようで――けれど、その心は確かに大人に近づこうとしているのだと、私は感じていた。