第91話:一ノ瀬保奈美
宴会の余韻を残しつつも、私たちは急いで後片付けに取りかかった。
お皿や盃を下げ、畳を拭き、散らかった座布団を整える。
松川のみなさんも一緒に手伝ってくださって、思ったよりも早く片付けは終わった。
「じゃあ、あとはお風呂入って休もうか」
千鶴さんが声をかけ、みんな頷く。
加納屋には大きな温泉もあるけれど、各部屋にも小さなお風呂がついている。
人によってはそちらでさっと済ませることにしたようだ。
私は自分の部屋に戻り、浴槽に湯を張った。
熱めの湯に身を沈めると、今日の緊張やざわめきが少しずつほどけていく。
でも――胸の奥に残る心配は消えなかった。
(……直也さん、あんなにお酒を飲んでいたのに、大丈夫かな)
湯から上がり、浴衣に着替えると、自然に足が直也さんの部屋へ向いていた。
手に持ったのは、冷たい水の入ったコップ。
「直也さん……」
戸を軽く叩くと、中から「どうぞ」と声がした。
扉を開けると、そこには座卓の上のノートPCで仕事をしている直也さんの姿があった。
「はい、お水……飲んでください」
私が差し出すと、直也さんは「ありがとう」と微笑み、ぐいっと飲み干した。
「体、壊さないか……心配なの」
思わず口からこぼれた言葉に、直也さんは少し照れたように笑った。
「うん、分かった。もう寝るよ」
けれど――。
「そう言って、結局また仕事するでしょ? だから心配なの」
私はまっすぐ見つめてそう言った。
直也さんは一瞬言葉を失い、それから苦笑を浮かべた。
私は彼の布団の隣に、自分の布団をひいた。
ふわりと畳に広がる布の音に、直也さんは肩をすくめる。
「……保奈美、仕方がないな」
「だって、そうしないと、いつまでも直也さん無理しちゃうから……」
小さくそう答えて、布団に横たわる。
直也さんがやっと資料を片付け、布団に入る気配がした。
直也さんの布団に潜り込むと、彼は小さく溜息をついて言った。
「ダメだよ、保奈美。それはルール違反だ」
私は首を横に振った。
「……別に、何もしないよ。いきなりキスしたりもしないから」
驚いたように彼が目を向けてくる。
私は少しだけ笑って言った。
「次にキスする時は、直也さんからしてほしいの。私が本当に“大人の素敵な女性”になったって直也さんが認めてくれた時に――義兄妹として最初で最後のキスをしてもらうの」
言葉にしながら、胸が熱くなる。
「だから……それまでは、私からは勝手にしたりはしないよ」
直也さんは眉を寄せ、低い声で答えた。
「……保奈美をちゃんと育てることが、オレの責任なんだよ」
「うん……分かってる」
そう頷きながら、私はそっと彼の肩に額を寄せる。
「でもね、保奈美は……もう直也さんに、いつでも“好きにしてもらっていい”って思ってるの。キスだけじゃなく、その……全部……。だから、そう思ってるってことだけは……それだけは、直也さんに知っておいてほしいの」
「……保奈美」
直也さんの低い声が、暗がりの中で響いた。
一瞬、言葉を探すように沈黙が落ちる。
でも彼は何も言わなかった。
ただ、そっと私の頭に手を置いて撫でてくれた。
優しく、迷いながらも確かに――その温もりが胸に届く。
そして、ふいに私を抱き寄せた。
浴衣越しに感じる体温。
どきどきして動悸が激しくなったけれど、それ以上に大きな安心感が私を包み込んだ。
(……ああ。直也さんとなら、何も怖くないな)
目を閉じると、全身がふっと緩んでいく。
自然に、眠りが落ちてきた。
最後に覚えているのは、直也さんの穏やかな寝息。
きっと彼も、ようやく眠りについたのだろう。
――その夜、私たちは朝が来るまで、ずっと寄り添ったまま眠っていた。
眩しい光が障子の隙間から差し込んできて、私はゆっくりと目を開けた。
すぐ隣には――直也さん。
腕の中で眠っていたはずなのに、今はもう目を覚ましていて、少し困ったような表情でこちらを見ていた。
「……おはよう、保奈美」
声はぎこちなくて、どこか照れている。
きっと、朝になって改めて自分たちの姿を見てしまったからだろう。
私は、ふわっと笑みを浮かべた。
「おはようございます、直也さん」
胸がどきどきする。
でもそれ以上に、どうしようもない嬉しさが溢れていた。
直也さんの腕の中で眠れたこと。
朝、最初に目に映るのが直也さんだったこと。
――全部が幸せだった。
直也さんは小さく息を吐いて、視線を逸らす。
「……これはやっぱり、ルール違反だよ」
そう言いながらも、声に厳しさはなかった。
私は首を横に振り、柔らかく答えた。
「いいんです。だって……すごく安心できたから」
直也さんは照れたような笑顔だった。
その姿が、なんだかとても愛しく思えて、私も笑みをこらえきれなかった。
それから簡単に身繕いだけして、急いで自分の部屋に戻ろうと、直也さんの部屋を出た。