第90話:柊遥
――見てしまった。
あの姿を。
直也さんが広間の真ん中で歌い上げた瞬間。
私は、かつて夢中になった司馬遼太郎の小説を思い出していた。
幕末から明治へ――激動の時代を駆け抜けたサムライたち。
古い体制を打ち砕き、新しい世界を切り拓いた者たち。
(……まだ、この国にサムライは残っていたんだ)
それが、直也さんだった。
現代に生きるサムライ。
洗練されたスーツ姿で、洋楽をガンガン歌いこなし、デュエットではさらりと女性を立て、その色気まで引き出す。
圧倒的な戦略的思考でプランニングし、プレゼンをすれば超一流。
ディベートに臨めば完璧な論理構成で相手をねじ伏せる。
――ソフィスティケートされた現代のサムライ。
そう呼ぶしかない存在。
私は喉の奥が熱くなるのを覚えた。
「マズいな」と心の中で呟く。
これまでだって多くの人に出会ってきた。
霞が関の会議室も、各地の首長や議員との調整の場も、国際会議の壇上も。
けれど――その誰ひとりとして。
官僚を辞めてまで共に生きたいと思える男性など、ひとりとしていなかった。
……なのに。
(これはマズい。これはすごくマズい……どうしよう……)
胸の奥がざわめき、理性が揺らぐ。
仕事で鍛え上げてきた冷静さも、距離を保つ術も、全てが無力化されていく。
――この人だけは、別格だ。
「制御できない感情」というものを、私は軽蔑してきた。
けれど今、自分がその渦中にいる。
(……まさか、私がこんな思いに至るなんて)
盃を手にしながら、指先がわずかに震えていた。
私はただ、笑顔で拍手を送りながら、胸の内に走る動揺を誰にも悟らせまいと必死だった。
――これは、「恋愛」という言葉だけで括れるものじゃない。
盃を置きながら、私は自分にそう言い聞かせていた。
胸の内を焼き尽くす熱は、確かに恋の炎にも似ている。
だが、それだけではない。
(……このような人物が、今の日本に存在しているという奇跡を、どう受け止めるべきなのか)
直也さんの姿は、ただのエリート商社マンの枠には収まりきらない。
今日のような愚劣な茶番に巻き込まれ、無意味に消耗する――そんなことが二度とあってはならない。
彼の背負うものはもっと大きく、もっと遠くまで響くはずなのだから。
(……むしろ心配だ。五井物産という看板が、直也さんの未来を縛る鎖にならないかどうか)
私の脳裏に浮かんだのは、愛読してきた司馬遼太郎の『峠』の一頁。
――幕末、長岡藩の河井継之助。
理想を掲げ、藩を近代化へと導いた、あの孤高のサムライ。
私は彼を尊敬している。だが同時に、彼の末路を思い浮かべずにはいられなかった。
戦の中で志を果たせず、無念のうちに散ったその姿。
直也さんに、あんな結末は絶対に辿らせてはならない。
(……もし私に出来ることがあるなら)
心臓が高鳴る。
「女として彼を守る」――そんな選択肢すら、もはや否定できなかった。
立場も、肩書きも、官僚としての矜持も。
すべてを置いてでも、あの人を守るためなら。
私は唇を噛み、視線を落とした。
(……由佳さんと、彩花さんには一度話しておいたほうがいいかもしれない)
誰にも見せたことのない弱さを、あの二人になら打ち明けられる気がする。
いずれにせよ、この感情を抱えたまま、一人で立ち続けるのはあまりにも危うい。
酒の匂いに満ちた広間の片隅で、私は静かに息を吐いた。
――この夜が、私にとっても転換点になるのだと、薄々分かっていた。
※※※
宴会は、ようやく深夜になってお開きとなった。
広間の熱気も少しずつ薄れ、残されたのは杯や皿の山、そして笑い疲れた人々の声。
その中で――ひときわ目を引いたのは保奈美ちゃんの姿だった。
小柄な身体で、誰よりも早く立ち上がり、空いた器をまとめ、テーブルを拭き、次々と片付けを進めていく。
誰に言われるでもなく、自然に。
まるで、それが一番似合う居場所であるかのように。
(……やっぱり、この子なんだ)
私の胸に、確信のような思いが芽生えた。
最大のライバルは亜紀さんでも、玲奈さんでも、麻里さんでもない。
――保奈美ちゃん。
坂本龍馬には「乙女」という姉がいた。
彼を叱咤し、支え、家族として常に傍らに立ち続けた存在。
その姿を思い浮かべたとき、すべてが整理できた。
保奈美ちゃんは、直也さんにとっての「乙女」だ。
姉であり、妹であり、家族であり――その全てを担う、かけがえのない存在。
誰も入り込めない距離を、すでに手にしている。
(……敵わない。でも、認めざるを得ない)
私はゆっくりと息を吐き、グラスを置いた。
同時に、心の奥で明確に自覚していた。
――私は、これまで環境省の官僚という立場で物事を見ていた。
だが今は違う。
一ノ瀬直也の視点から、環境省をどう利用し、どう動かすか。
その観点に、自分の思考が切り替わっていることを。
(……完全に踏み越えてしまったな、私)
けれど、不思議と怖くはなかった。
むしろ胸の奥に灯る熱は、これまで味わったことのない確信を伴っていた。
直也さんを守るためなら、私の立場も、官僚としての枠組みも――すべて使えばいい。
それが、今の私の答えだった。