第85話:谷川莉子
――八幡平にまで、保奈美ちゃんを連れてくるなんて。
それが、今も胸の奥に重く響いていた。
あのAIロボティクスのデモ。
保奈美ちゃんが壇上で、堂々と声を響かせ、そして……オニーさんにキスをしてみせた。
その瞬間の衝撃は、胸の奥を鋭く貫いて、今も焼き付いて離れない。
(……八幡平に来なければ)
もしここに保奈美ちゃんがいなかったなら。
私はきっと、誰が何と言おうと直也くんの隣の席を主張し、確保しただろう。
私にだって、その覚悟はあった。
だけど――今は違う。
保奈美ちゃんだけが、その特権を「当たり前」として行使できる。
誰も止められない。
そして直也くん自身も、自然にそれを受け入れている。
悔しさに胸が震えた。
でも、それ以上に突き刺さってくる光景があった。
――甲斐甲斐しく直也くんに尽くす保奈美ちゃんの姿。
昔から知っていた。
直也くんは勉強はあれほど出来るのに家のことは苦手で、日常的な細やかなことには本当に不器用だった。
それは直也くんの亡くなったお母さんが、そういう方針で直也くんを育てていた事と関係していると思う。今どき古い考え方だと言えばそれまでだけど。
だから直也くんのお母さんが亡くなった後、日常における細やかな対応が必要となる際に、なにくれと理由をつけて直也くんをサポートできるのは幼馴染である自分だけだと思っていた。
でも、そうじゃなかった。
保奈美ちゃんは本当に自然にしてしまっている。
食事のことも、身の回りのことも、自然に気づいて動ける。
ロビーでの忙しく仕事している時間でさえ、上着を掛けてお茶を差し出していた。
(……あそこまでは、私でも気が回らない)
その光景が目の奥に差し込んできて、どうしようもなく胸の奥が痛むのだ。
才能だけじゃない。
美貌だけでもない。
彼女は、日常の延長線上で直也くんを“守る”ことができてしまう。
(……ズルいよ、ほんとに)
直也くんをめぐる争いで、私は音楽という舞台でなら独自のポジションを確保出来ている。
でも今、義妹という立場でごく自然に普段の直也くんの隣を占める彼女を前にすると――。
私は正直なところ、ものすごくダメージを受けていたのだ。
(……このままじゃ、ダメだ)
胸の奥に重い痛みを抱えたまま、私は杯を見つめていた。
保奈美ちゃんが直也くんの隣を“当たり前”にするなら、私はその隙間に居場所を探すしかない。
普段の生活の中で、直也くんを支える力は――私はきっと敵わない。
だったら、別の場所で。
保奈美ちゃんが不在の時間を狙って、直也くんと二人きりの時間を作るしかない。
今の直也くんなら、私が「デートしよう」と言えば普通に応じてくれる。もちろん直也くんはいつも忙しいから、“好きなように、いつでも”とはいかないけれど。
それでも、それくらいの関係には、もうなっている。
そして――デートで二人きりの時なら、キスをしても受け止めてくれるのだ。
(……それって、普通なら“彼女”ポジションだよね)
そう思う。
でも現実は、保奈美ちゃんが直也くんの“日常”を上書きしていく。
私が積み上げた特別な時間も、次の日には彼女の甲斐甲斐しさで塗り替えられてしまう。
だから――。
私はその上に、また自分の色を塗り重ねていくしかない。
彼女に奪われたものを、もう一度奪い返すように。
(……勝負だね、保奈美ちゃん)
心の中でそっとつぶやく。
悔しさと切なさと、それでも諦めない気持ちを全部飲み込んで、私は杯を一気にあおった。
――でも、麻里さんと話せたこと。
それは、私にとって本当に大きかった。
私にとって麻里さんは、ずっと“届かない人”だった。
直也くんが心から好きになった「彼女」。
その記憶に勝てるはずがないって、何度も思った。
でも――その麻里さんが、今も直也くんとの距離を必死に考えている。
「どうすれば、もっと近づけるのか」って。
そうやって悩みながらも戦っている姿を見たとき、胸の奥で何かがほどけた気がした。
(……私、恵まれてるんだな)
ずっと直也くんに守られてきた。
それは当たり前じゃない。
麻里さんが羨むくらいの「距離」を、私はもう手に入れているんだ。
数年経って、私と麻里さんとの立場は逆転していた。
だったら――。
いつまでも不安に沈んでる場合じゃない。
直也くんの仕事の領域で、私が果たせる役割はどんどん広がっている。
音楽を通じて、表現を通じて、彼にしか背負えないものを少しでも軽くすることができる。
それは、私だからこそできること。
(……大切にしなきゃ)
悔しさも、切なさもある。
でも結局、直也くんとのプライベート領域での時間は、私が自分の手で掴んでいくしかない。
グラスの底を見つめながら、心の奥で静かにそう決意した。