第84話:神宮寺麻里
杯を手に、私は莉子と高田さんのそばで腰を落ち着けていた。
直也の周囲は、松川の人たちでまるで人だかり。お酒も笑い声も絶えない。
「莉子は直也のそばに行かなくていいの?」
私が軽くからかうように尋ねると、莉子は肩をすくめて笑った。
「行けないでしょ、あんなに囲まれてたら。人垣、厚すぎるもん」
その笑顔に、ついこちらも笑ってしまう。
「でも、保奈美ちゃんはちゃんと隣にいるじゃない」
そう言うと、莉子は少しだけ目を伏せて、苦笑した。
「ズルいよね。でも仕方ないよ。……もう、それは分かってたから」
――意外なほど、あっさりした声。
けれど、その奥に沈む長い時間の重さが伝わってきた。
「ねえ麻里さん」
莉子がふと、真っ直ぐこちらを見る。
「私ね、高校生のときに一度だけ麻里さんを見かけたことがあるんだ」
「えっ? どこで?」
思わず問い返す。
「直也くんと、それから私の家の最寄り駅。学校から帰るとき……駅前の喫茶店で、直也くんと麻里さんが談笑してるのを見ちゃったの」
ああ――そういえば。
昔、一度だけ、直也に呼び出されて駅前の喫茶店に寄ったことがあった。あの時か。
「本当に遠かったなぁ、あのとき」
莉子は小さく笑った。
「“こんなキレイな彼女なんだ”って……すごく悔しかった」
胸の奥がじんわり熱くなった。
私はグラスを見つめながら、呟いた。
「……でも、私はバカだったから」
「ううん」
莉子がすぐに首を振る。
「仕方ないよ。直也くんモテすぎるし、結局どうあっても不安になるんだと思う。分かるよ。……それに、肝心なときにいつも一人でやっちゃうでしょ、彼は」
そう言って、あどけなさの残る笑顔を浮かべた。
――不思議だ。
私はその笑顔を見て、心の奥で思った。
(……好きかもしれない、この子のこと)
年下の彼女が見せる素直さ。
それは、私にはもう持てないもの。
だからこそ、まぶしくて――ちょっと羨ましくなるのだ。
「麻里さんも今日は戦っていたじゃない。……すごくカッコよかったよ」
莉子がふっと笑って、私を見た。
「中継映像見ていて、私、感動してたんだよね」
横で高田さんが苦笑している。
でも、莉子の目は真剣だった。
「でも、直也くんが来て……保奈美ちゃんがあんなデモをやって……空気がもう全然変わっちゃって」
少し悔しそうに、でも素直に彼女は続ける。
「私が着いたときは、もう全部決まったようなものだった。……何も出来なかったなって思った」
彼女は杯を手の中で回しながら、ぽつりと呟いた。
「今日はもう、直也くんは、そういう頑張った人たちと……あとは、この松川の人たちのものだよね。悔しいけど……私には私のやり方があるから。だから――麻里さんが直也くんのそばに行ったほうがいいよ」
その言葉に、胸の奥がじんわり熱くなる。
まっすぐで、ひねりのない優しさ。
思わず笑ってしまった。
「……ありがと。じゃあ、近いうちにさ。一緒に飲みに行こうよ」
軽く杯を掲げてそう言うと、莉子はふっと笑って頷いた。
(……素直で、いい子だな)
思えば彼女は音楽という領域で、自分の居場所をきちんと築いている。
直也に対しても、守られるだけじゃなく、自分のやり方で支えようとしている。
その姿を見て、私もまた決意を固めた。
――やっぱり、私はAIだ。
この時代において直也と最も密接な距離を築ける武器は、それしかない。
莉子が音楽で、自分だけのポジションを守り抜いているように。
私はAIで、直也との距離を作り直す。
それしかないのだと、改めて強く思った。