第82話:新堂亜紀
ロビーに響くキーボードの音と、途切れ途切れの電話の声。
直也くんは、到着してからずっと休む間もなく仕事をしていた。
慎一さんと直美さんが横で資料を確認しながらサポートしているけれど、なかなか終わりが見えない様子だった。
(……本当は、いろいろ聞きたいこともあるのに)
どうして前日の夜から飛行機での移動を段取りできたのか。
どうして保奈美ちゃんまで一緒に連れてくる事ができたのか。
どうしてデモの内容に保奈美ちゃんのキスが含まれているのか。
どうして沙織がArchetype Roboticsにジョインしているのか。
どうして、どうして――。
聞きたいことだらけで、胸の奥はざわめいているのに――。
でも、仕事を理由に、直也くんはするりとその場から抜けてしまっている。
問いかける隙を与えない。
(……ズルいなぁ)
思わず口の中で呟いてしまった。
けれど同時に、胸の奥に別の感情が広がっていた。
――敵視される可能性、その恐ろしさ。
今日の出来事を契機に、直也くんはますます多くの「再エネ」勢力から敵視されるに違いない。
壇上で彼が放った言葉は、力強く、そして容赦がなかった。
その正しさゆえに、対立する勢力にとっては脅威でしかないだろう。
(……守らなきゃって思いながら、結局私は……)
終盤、心も体もすっかりボロボロになっていた自分。
それに対して、直也くんは圧倒的だった。
説得力、構成力、そして何より人を動かす力。
あの瞬間、私は痛感してしまった。
――もう、到底敵わない。
誇らしさと悔しさが、ないまぜになって胸を締めつける。
※※※
玄関のほうがざわめき始めた。
松川の皆さんが次々と訪れているのだ。
「困ったなぁ……」思わず私は額に手を当てる。
このままじゃ直也くんが仕事に没頭しすぎて、宴会場に移れない。
どうやって声をかければいいのか――必死に考えていた、そのときだった。
すっと、保奈美ちゃんが私の横を通り過ぎた。
直也くんのそばに立ち、電話を切ったタイミングを逃さずに、柔らかな声で言った。
「直也さん、そろそろ……ご飯、食べませんか?――美味しそうですよ」
その瞬間、空気が変わった。
直也くんがふっと肩を緩め、画面を閉じる。
「うん。そうだな。もうそうしよう。慎一さん、直美さん、もうここで一旦切り上げましょう。キリがない」
あっけないほど、自然に区切りがついた。
(……まいったなぁ)
私があれこれ考えていたことが、まるで無駄になってしまったみたい。
でも、それを誰も咎めない。
保奈美ちゃんの言葉は、直也くんにとって当たり前のように効いてしまうのだ。
ほんの少し、胸の奥がくすぐられる。
――悔しいような、微笑ましいような。
複雑な気持ちを抱えながら、私は宴会場へと足を向けた。
加納屋の広間は、すでに温かな空気で満ちていた。
千鶴さんが台所から笑顔で料理を運び、大地くんが走り回り、千鶴さんのご両親までもが席に着いている。
まだ遅れて来る人もいるけれど、とりあえず区切りをつけて乾杯をしましょう――そういう流れになった。
組合長さんが大きな声をあげる。
「じゃあ、大将が乾杯の音頭をとってよ!」
視線が自然に直也くんに集まる。
でも彼は首を横に振り、静かに笑った。
「いや、本当は今日は亜紀がするべきだと思うよ」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。
けれど私は慌てて首を振った。
「……私も、直也くんに挨拶してほしいです」
一瞬、直也くんの目が私を見つめ、ふっと柔らかく細められる。
それから、観念したように杯を手に立ち上がった。
※※※
「えー……」
声を整えるように、一拍。
「仕事でも、プロジェクトでも――誰がやっても、どうにも上手くいかない時というのが必ずあります」
静かに、けれど確かな響きで言葉が広がっていく。
「そういう苦しい時期に、自分を信じられるか。どう支えていけるか。相手を信じられるか。……そこが本当に大切なんだと思います。いいことばかりなんて、絶対にあり得ない。だからこそ――」
少し言葉を切って、彼の視線がこちらを捉えた。
「今日は本当に苦しい状況がありました。でも、その中で冷静に、最も的確に対応してくれたのは亜紀でした」
胸が震えた。
「そして、その亜紀を支えるために、準備から万端に整えてくれた玲奈と麻里。もちろん、最後まで逃げずに共に戦ってくれた慎一さん、直美さんも。本当に……ありがとう!」
「そして松川の皆さん。最後まで応援を頂き、本当にありがとうございました。皆さんの応援がなければ、到底あのようにはなれなかった。この御恩は、今後の取り組みの中で必ずお返しいたします!」
その声に、広間全体から拍手が広がる。
「では――乾杯!」
杯が高く掲げられ、声が重なり、笑顔が弾ける。
けれど私は、もう駄目だった。
乾杯の声を口にしようとした瞬間、涙が溢れ出して止まらなかった。
「……っ」
頬を伝って落ちていく熱い雫。
(……ズルいよ、直也くん)
泣かないつもりだったのに。
最後まで冷静でいようと思っていたのに。
それでも、彼に「ありがとう」と言われた瞬間、心の奥で何かが解けてしまった。