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第80話:一ノ瀬保奈美

 ――本当に、大変な一日だった。

 でも、まだ終わりじゃない。これから祝賀会があるという。


 加納屋さんの玄関に辿り着いたところで、直美さんの口から飛び出した言葉に、私は思わず目を丸くした。


 「千鶴姐さんと直也くん、裸のお付き合いがあったんですよ」


 ……え?

 思わず直也さんの横顔を見た。

 「ちょ……な、何、言ってるんだ直美さん!」と慌てふためく姿に、周囲はざわめき、女性陣は一斉に眉をひそめる。


 (……これは、さすがに面白くないな)


 胸の奥に、ちくりとした感情が広がる。

 私は直也さんを信じている。そこに疑いなんてない。

 けれど――やっぱり、女性にモテすぎること。周囲に素敵な女性が多すぎること。

 それが、どうしても面白くない。


 だから私は、ときどき直也さんの手をつねる。

 「保奈美は面白くないです」って、そうやって、ちょっとだけ意思表示をしているのだ。


 けれど今回の件については、実は思い当たるところがあった。


 あの日。

 直也さんがお忍びで出張していた金曜日の深夜。

 珍しく、直也さんのほうから私に電話をくれた。

 「いや、その……保奈美の声がちょっと聞きたくなってね」って、低い声で。


 そのときの、声音を思い出す。

あれは、きっと今話題になった“千鶴さんとの『裸のお付き合い』のこと”と関係があるのだろう。


 (……だから、あんな深夜に電話してくれたのかな)


 そう思った。

 直也さんは、不器用なくらい真っ直ぐで、私に嘘をついたことなんて一度もない。

 きっと想定外の出来事でさすがの直也さんも少し焦ったのかも知れない。

 その時真っ先に電話してくれたのだ。

 だったら、もうそれで許してあげようかな。


 ――でも。

 モテすぎるのは、やっぱり面白くない。


 だから私は今日もまた、直也さんの手をつねるのだ。

 「保奈美は、面白くありません」って。


※※※


 宴会場に使うことになった集会場は、まだ昼の名残が漂っていた。

 机や座布団が片付けられた広間に足を踏み入れると、畳の上には細かな埃が光に舞い上がって見える。


 「――少しでも綺麗にしないと」


 私はすぐに宿泊用の部屋を借りて、普段着に着替えた。

 千鶴さんに掃除機を借りると、電源コードを伸ばして勢いよく動かし始める。窓を開けると、冷気が一気に流れ込んできて指先がかじかむ。それでも、頭の中はすっきりしていた。


 はたきをかけ、隅々まで掃除機をかける。

 最後は雑巾を借りて、畳を軽く拭き上げていった。

 膝をつき、雑巾を滑らせるたびに心まで清められていくようだった。


 「……素早い」

 思わず声を上げたのは、亜紀さんだった。

 その視線に気づいた玲奈さんも麻里さんも、それから莉子さんや高田さんも慌てて同じように着替えて戻ってきた。

 「こっちは私がやるから」

 「じゃあ廊下の方は私がやるね」

 そんな言葉とともに、みんなで一斉に動き出す。


 掃除は一人よりも大勢のほうが早い。

 数十分もすると、玄関、ロビーから集会場、そしてそこに至る廊下まで清々しさを取り戻していた。


 廊下を歩くと、ロビーのほうから聞き慣れた低い声が聞こえた。

 直也さんだ。

 電話を耳に当て、片手でノートPCを操作しながら、短く鋭く指示を飛ばしている。


 「……問い合わせは更に増えている? じゃあ、AIで優先度の振り分けを行って。本社メンバーで整理した上で、どうしても対応が難しいものをだけ一旦オレに送って」


 声の調子は冷静そのもの。

 でも、その背中は少しだけ張り詰めて見えた。


 私は近づいて、彼の上着をそっと取り上げ、衣紋掛けにかけた。

 そして千鶴さんに尋ねて給湯器を借り、お茶を急須で淹れた。

 湯気の立つ湯呑みを手に、そっと机の脇に置く。


 直也さんが、ふと視線を上げた。

 「……ありがとう、保奈美」

 短くそう言って、すぐにまた画面に視線を戻した。


 (うん、それでいいんだよ)

 胸の奥で小さく呟いた。


 そのとき、玄関の引き戸が開いた。

 「お邪魔します」

 冷たい風とともに入ってきたのは、環境省の柊遥さんだった。


 今日も変わらぬ快活さを纏いながらも、少し疲れの色を帯びた顔。

 けれどその眼差しは強く、まっすぐに直也さんへと向いていた。


 「今日は……泊まっていけることになりました」

 遥さんが笑みを浮かべてそう言った。


 その瞬間、広間にいた女性陣の空気がわずかにざわついた。

 亜紀さんも玲奈さんも麻里さんも、視線を交わし合っていた。


 集会場の広間は、すっかり掃除が行き届き、空気まで澄んだように感じられた。

 けれど――ここからが本番だ。祝賀会を迎えるために、会場を整えなくてはならない。


 「保奈美ちゃん、こっちお願いね」

 千鶴さんが声をかけてくれる。

 さすがは元女将さんだ。調理から配膳まで、無駄のない動きで的確に指示を飛ばしていく。


 「はい!」

 私はすぐに返事をして、布巾を手に取った。


 テーブルの表面を丁寧に拭き上げていく。水の跡や細かな埃が消えて、木目がつややかに浮かび上がる。

 (……わぁ、こうやって磨くと、こんなに違うんだ)

 千鶴さんの所作を見ていると、どこかしら温かくて、でも凛とした雰囲気があった。


 「拭き終わったら、このお皿とお箸を並べてちょうだい」

 「はい!」


 小皿と取り皿、それに割り箸を一人分ずつ丁寧に置いていく。等間隔に並べるだけで、何だか会場全体がきちんと整っていく気がした。

 (……こういうところから“おもてなし”って始まるんだな)


 一通り掃除を終えた亜紀さんたちが、ちょうど戻ってきた。

 その目に映ったのは、テーブルを拭きながら配膳を進めている私の姿だったらしい。


 「あ……」

 玲奈さんが小さく声を上げた。

 「こっちも手伝わないと」

 麻里さんが慌てて布巾を取りに行く。

 莉子さんも「私もやります」と言って、手際よく皿を重ねて運んでくる。


 ……その様子に、少し胸が温かくなった。

 (やっぱり、こうやって一緒に準備するのって、いいな)


 千鶴さんは微笑んで、的確にまた指示を飛ばす。

 「じゃあ亜紀さんは飲み物の準備お願い。玲奈さんは花を飾ってちょうだい。麻里さんは……そうね、お椀を並べるのをお願い」


 女将の声に従って、皆が慌ただしく動き出す。

 活気に満ちた広間は、まるでお祭りの前夜のように賑やかで、わくわくする空気に包まれていった。


 私は布巾を絞り直し、また一つテーブルを拭き上げながら、ちらりとロビーを見た。

 そこでは直也さんが相変わらず電話を片手に、ノートPCを睨んでいた。

 (……直也さんにも、早くこの温かい空気を味わってほしいな)


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