第78話:神宮寺麻里
天候は少しずつ回復し始めていた。
桐生社長と沙織さんは、早々に東京へ戻ることを決めた。
「もうメディアに出てしまった以上、増資発表をどう扱うか、五井物産の広報や栗田自動車と至急で協議する必要がある」
――それは当然だ。今回の件は、国内だけでなく海外の報道機関までもが押し寄せるだろう。
けれど、私は直也のそばを離れるつもりは毛頭なかった。
※※※
脳裏に焼き付いて離れない言葉がある。
あのとき壇上で直也が放った、言霊のような響き。
『どうか賢明なる地域首長の皆様、そして今日ここに集ってくださった地域住民の皆様――この“一時金詐欺”のようなメガソーラーに、騙されないでください』
『そして、苦しくてもGAIALINQと――我々と共に手を取り合ってほしいのです』
『AIロボティクスが地域を支え、未来を築く。その時に必要なのは、新しい観光、新しい産業、新しい地方振興を模索し、いち早く形にしていく姿勢そのものなのです』
『それこそが、この地域に本当の利益を生み出す道なのです』
――胸の奥から響き渡ったあの声。
あの瞬間、彼は確かに場を支配していた。
誰も逆らえないほどの熱と説得力を持って。
誇らしさに胸が震える。
私は、この人を愛しているのだと、改めて痛感する。
だが同時に――心は不安でいっぱいだった。
※※※
今回一番過酷な役を引き受け、最後まで耐え抜いたのは亜紀だった。
そのことは誰もが認めているし、今この場で彼女が讃えられるのは当然だ。
玲奈と私も見ていてくれた。直也は感謝の言葉をきちんと口にしてくれた。
それで十分――のはずなのに。
どうしても拭えない影が胸の奥に残っている。
莉子は冷静だった。
彼女は一歩引いた場所から、状況全体を見ていた。
その莉子ですら危険視しているものがある。
――保奈美ちゃんだ。
彼女が発した言葉が、耳から離れない。
『じゃあ――いつもしてるみたいに、保奈美にキスして! オニーさん!』
『ありがとう! オニーさん。愛してる!』
無邪気な声。
けれど、私にはその響きが危うくて仕方がなかった。
そう――もう「義妹だから」という枷では抑えきれない。
直也が理性で踏みとどまっているのは、彼女がまだ“高校生”だから。
その一点にすぎないのではないか。
けれど、その直也による“理性の制御”がいつまで続くだろう。
いずれにしても数年後には――その枷は自然と外れてしまう。
そう考えると、胸が締め付けられる。
時間は、思っている以上に残されていないのかもしれない。
時間は保奈美ちゃんにしか味方をしないのだ。
そしてもう一人――胸に、また新しい影が広がっていく。
それは、環境省の柊遥さんの存在だった。
彼女の直也を見る眼差し。
あれは決して、敏腕事務官僚が自分の支持するプロジェクトの責任者に向けるものではなかった。
そこに含まれていたのは、理屈を超えた――女としての熱量。
前に出会ったレストランの席で、彼女は冗談めかして直也に「デートしてほしい」と言っていた。
その時は軽口だと流した。だが今は、あの一言が耳から離れない。
――もし今後、GAIALINQが環境省から継続的に恩恵を受けるとすれば。
その要請は「冗談」として個人のやり取りに見せかけながら、結局はなし崩し的に受け入れざるを得なくなるのではないか。
遥さんの行動力は驚くほど即断即決で、なおかつ“高貴さ”を帯びている。
直也はその資質に、はっきりと好感を抱いているのが分かる。
まるで――自分と同じ種類の精神性を、彼女の中に見出しているかのように。
(……そこが怖い)
もしも遥さんが「GAIALINQを守るため」という大義を掲げて直也を庇護するとき。
その大義は、いつの間にか二人の間の距離を近づけてしまう。
そしてその先に、男女の関係が生まれないと誰が言えるだろう。
私は唇を噛んだ。
環境省の官僚と、五井物産が主導する世界的大型プロジェクトGAIALINQのCOO。
公の立場では絶対に交わってはならない領域。
でも、人間の心はそんな理屈だけで律することはできない。
(直也……あなたは、あの人の眼差しに気づいているの?)
怖い。
それでも目を逸らすことができない。
私の中で、誇らしさと不安がせめぎ合っていた。
――そして、更にもう一人。
やはり莉子の存在だった。
彼女は会食の席でも、保奈美ちゃんをやや厳しい眼差しで見ていた。
だが、その後すぐに――直也と談笑する柊遥さんへと視線を移す。
その目の奥にある光は、私が抱く不安と同じもの。
莉子もまた、遥さんと直也の関係を気にしているのだと分かった。
けれど莉子の立場は、私のそれとは少し違う。
アーティストとしての彼女には、直也と「作品を通じてしか共有できない領域」がある。
直也はそこに魅了され、同時に守ろうとする。
保奈美ちゃんとは違った意味で――彼女もまた、直也にとって「庇護すべき妹」的存在なのだ。
そして時間の重み。
莉子が直也と過ごしてきた年月は、保奈美ちゃんよりもはるかに長い。
その記憶の積み重ねが、二人を確かに結びつけている。
(……怖い)
だからこそ、思わず唇を噛む。
このまま何もせずにいたら、気づけば直也の傍にいるのは私ではなく莉子になってしまう。
アーティストとして、妹のような存在として、彼女は自然と直也の隣に居場所を得るだろう。
私は胸の奥をかきむしられるような思いで、グラスを見つめた。
――もう、くだらないプライドなんて抱えている場合じゃない。
環境省による『GAIALINQの庇護』を掲げる事が可能な遥さん。
無垢な魅力で心を揺らす『義妹』である可憐な美少女の保奈美ちゃん。
そして、長い時間を共にしてきた『幼馴染』の莉子――アーティストのRICO。
三人とも、私にとっては脅威だ。
けれど――私は負けない。
直也にとって、最も身近で、最も頼れる存在であり続けるために。
私はもう、自分の殻を破るしかない。
下らないプライドをかなぐり捨ててでも、彼に時間を割いてもらうように、懸命に働きかける。
その関係を築けるかどうかに、未来は懸かっているのだから。