第77話:宮本玲奈
ようやく――亜紀さんの嗚咽が収まりつつあった。
直也が背中を支え、あの人の低い声で「よく我慢して頑張ってくれたね」と告げていた姿が胸に残る。
……本当に、泣けるくらい絵になる光景だった。
直也は次にこちらを見て、穏やかに笑った。
「玲奈。麻里。本当に大変だったな。よくサポートしてくれた、ありがとう」
その言葉を聞いて、胸の奥が熱くなる。
……でも、どうしても納得できないことがある。
思わず、プイッと顔を背けてしまった。
そこに、タイミング悪く莉子がすっと入ってきた。
「直也くんが飛行機での移動プランを共有しなかったから、玲奈さんと麻里さん、不貞腐れてるんだよ」
「莉子、余計なこと……!」
慌てて声を上げる。顔が熱くなる。
でも直也は少しも取り合わず、むしろ真っ直ぐにこちらを見て言った。
「玲奈。よく我慢してくれたな。麻里も。二人が到着したのを中継で見たとき、本当にホッとしたよ」
――ずるい。
なんでそんな言い方をするの。
(……怒れなくなるじゃない)
胸の奥がふっと軽くなって、思わずため息をついた。
「……なんかズルいんだから」
拗ねたように口にしたけれど、気持ちは少し解けていた。
※※※
まだまだ聞きたいことは山ほどある。
どうやってチャーター便を確保したのか、本当に危険はなかったのか、そして――なぜ黙っていたのか。
でも今はもう、お昼を過ぎてしまった。
直也が皆に声をかける。
「とりあえず、どこかで軽く昼食をとろう。それから加納屋に移動しよう」
幸い、会場に併設されたホテルのレストランなら席を確保できそうだった。
応援してくれた松川の人たちも含めて、そこで一緒に食事を取ることになった。
緊張に縛られ続けた時間が、ようやく緩んでいく――そんな瞬間だった。
直也が一同を見回し、ゆっくりと口を開いた。
「慎一さんも、直美さんも。本当に最後まで支えてくれてありがとうございました」
その言葉に、普段はクールで淡々としている直美さんが、ほんの一瞬だけ目を潤ませた。
(……あ、珍しい)
思わず私も息を呑む。
高村さんが軽く頷きながら言った。
「でも結局は、COOが来て全部ひっくり返しましたね。本当に鮮やかでした」
「そうそう」
周りからも同調の声が上がる。
けれど直也は首を振った。
「いえいえ、本当の殊勲者は亜紀ですよ。亜紀がとにかく冷静に時間を稼いでくれた。あとは玲奈と麻里がね。二人はもう準備万端に対応してくれていましたから……まずはそれに尽きます」
胸の奥がふっと熱くなった。
(……やっぱり、見てくれていたんだ)
「そして――あとは、オニーさんのおかげかな」
直也が軽く笑うと、保奈美ちゃんも隣でにこりと頷いた。
そしてはじめて気づいた。
保奈美ちゃんが見事にハイブランドのドレスを「当たり前」のように着こなし、
直也がLAでプレゼントしたペンダント。
きっと直也がプレゼントしたのだろうブローチ。
そして銀座のティファニーで直也が買った――買う場面を目撃してしまった――リングを付けているのを。
それらを実に見事に着こなし、そして素敵な感じで身につけているのだ。
――心にまた影が少しだけさしてきてしまった。
※※※
レストランに運ばれてきたのは、幕の内弁当だった。
ふたを開けて、少しほっとする。会議の張り詰めた空気からようやく解放されて、温かいご飯の匂いが広がった。
――けれど。
目の端に映った光景に、私は箸を止めた。
保奈美ちゃんが、当然のように直也の手元に小皿を差し出し、醤油を注いでいる。
次にサラダを見て、添えてあるドレッシングを吟味すると、それをサラダにかけて、それから自分の分と入れ替えて直也の皿に置いた。
(……え? そこまでする?)
驚いて思わず凝視してしまった。
けれど当の二人は、何事もないように自然に振る舞っている。
直也も受け入れるのが当然のようで、保奈美ちゃんもそれが当たり前という顔だ。
……普通じゃない。
少なくとも、私の感覚からすれば。
何十年も連れ添った夫婦でも今どきそこまでしないだろう。
でも直也は全然気にせずに環境省の遥さんと話しているのだ。
気づけば、そのやり取りをじっと見ていたのは私だけじゃなかった。
近くの席で莉子も同じように視線を向けていた。
(やっぱり……気になるよね)
胸の奥に、言葉にならないざわつきが広がっていった。