第76話:新堂亜紀
――どうして。
どうして間に合うことができたの?
どうして保奈美ちゃんまで一緒に連れてきているの?
会議が終わり、拍手と歓声と記者のフラッシュに包まれる直也くんを、私はただ遠くから見つめていた。
一刻も早く本人に聞きたいのに、メディアに取り囲まれ、近づくことすらできない。
(……何があったの? どうして間に合ったの?)
胸の中の疑問と焦燥が募っていく。
※※※
仕方がない。
私はすぐそばにいた沙織に向き直った。かつての同期、今は直也くんと行動を共にした彼女なら――きっと何かを知っているはず。
「沙織。……どうやって盛岡まで来たの? あの大雪で、普通に新幹線じゃ到底間に合わなかったはずよ」
沙織は小さく息をつき、目を伏せてから答えた。
「……Archetype Roboticsの本社を出発したとき、行き先が“羽田”だと聞いて、私も驚いたの」
「羽田……?」
周囲の皆が息を呑んだ。
「直也さんは前日のうちに、チャーター便の手配をしていたみたい。羽田からビジネスジェットですぐに飛び立って……。それだけじゃない。前夜には五井物産の物流部門に依頼して、花巻空港の滑走路凍結防止の対応まで済ませていたらしいの」
「えっ……!」
私の声が震えた。
信じられない。そんな準備を、前夜のうちから――?
沙織はさらに続ける。
「だから、あの大雪でも着陸できた。そして、空港にはすでにワゴンが待機していて……そのまま皆でここまで走ってきたの」
沈黙が広がった。
私も玲奈も麻里も慎一も直美さんも、さらには莉子や遥さんまで、皆が耳を傾けていた。
直也くんがどうやって間に合ったのか――誰もが、その答えを必死に求めていたから。
※※※
その時、玲奈が声を上げた。
「……なんで。なんでそれを、私たちに教えてくれないのかな」
涙が頬を伝っている。
怒りと悔しさが入り混じった声だった。
沙織は静かに答えた。
「『玲奈と麻里は、もう一番大切なタスクを果たしてくれている。だから、つまるところオレ自身が一刻も早く到着すればいいんだ』――直也さんは、そう言っていた」
麻里が、きゅっと唇を噛んだ。
「……でも、せめて一言くらい、教えてくれてもいいじゃない」
直美さんが苦笑混じりに言う。
「カッコいいとは思うけど……なんか納得いかないですよね」
皆の気持ちを代弁するようなその言葉に、私も思わず頷いた。
そう――私だって、胸の奥がざわついていた。
(直也くん……どうして、全部を背負い込んで、一人でやろうとするの)
誇らしさと、悔しさと、寂しさと。
複雑な感情が胸に絡まりながら、私は遠くで記者に囲まれる直也くんの背中を、ただ見つめ続けていた。
「……亜紀さんのことを、信じていたんじゃないんですか?」
莉子ちゃんの言葉に、場が静まり返った。
その大きな瞳が、まっすぐに私を見ていた。
「もっと言えば、玲奈さんと麻里さんのことも。だから任せておいて、とにかく少しでも早く直也くん自身が到着するようにする。……もちろん全部最初から明かしてしまうと、安心してしまって、気が緩むとかも思っていそうだけど」
淡々と、でも強い確信を持って告げられたその言葉に、胸の奥が震えた。
沙織が続けた。
「でも機内でもずっと中継を見守っていたよ。
『亜紀は時間を稼いでくれている。相手の挑発に乗らずに、冷静に的確に返しているよ。……さすが亜紀だ』って」
――その瞬間だった。
目の奥に熱いものが込み上げ、気づけば視界が滲んでいた。
必死にこらえていた涙が、頬を伝って次々に落ちていく。
「……っ」
声にならない嗚咽が喉を震わせた。
玲奈も、麻里も、肩を揺らして泣いていた。
誰も声をかけない。ただ静かに、同じ涙を流してくれていた。
――あの時が一番、辛かった。
直也くんに対して浴びせられる、あまりにも酷い言葉の数々。
「無責任だ」「青臭い理想だ」「子どもの遊びだ」……。
何度も、何度も、矢のように突き刺さる悪口雑言。
(直也くんは、そんな人じゃない……!)
本当は声を張り上げて言い返したかった。
けれど、挑発に乗れば彼のためにならないと分かっていたから。
ただ、必死に堪えて、冷静を装い続けた。
あの瞬間――心が、張り裂けそうだった。
でも。
今、ようやく分かった。
直也くんはずっと見てくれていたのだ。
冷静に、そして私を信じて。
涙は止まらない。
けれど胸の奥に、確かな誇りが芽生えていた。
(――私は、彼に信じられていたんだ)
メディアの取材もようやく一段落し、首長たちもそれぞれ会場を後にしていく。
喧噪の余韻だけが残るホールの隅に、私たちは肩を寄せ合っていた。
――その時。
直也くんが、保奈美ちゃんと“オニーさん”を連れてこちらに歩み寄ってきた。
落ち着いた表情、けれどその瞳には確かな疲労と安堵が滲んでいた。
視線が合った瞬間、堪えていたものが一気に溢れ出した。
「……っ、直也くん……!」
気づけば私は駆け寄り、彼の胸に飛び込んでいた。
嗚咽がこみ上げる。抑えきれない涙が、頬を濡らして止まらなかった。
その背中を支える腕の力強さ。
直也くんは何も言わず、ただ私を抱きしめてくれていた。
「……亜紀。よく我慢して、頑張ってくれたね」
低く優しい声。
その一言で、張り詰めていた糸が完全に切れてしまった。
胸の奥に積もり重なっていた苦しさが、涙となって溢れ出していく。
肩を揺らしながら泣き続ける私を、直也くんは静かに宥め、抱き締めてくれていた。
――その光景を、玲奈も麻里も、莉子も、そして保奈美ちゃんも。
みんな、笑顔でただ黙って見守ってくれていた。
誰一人、何も言わなかった。
けれどその沈黙が、何よりも温かく、優しかった。