第63話:一ノ瀬直也
朝の光が差し込む頃、オレと保奈美はArchetype Robotics本社に到着した。
Archetype Robotics本社に付設された工房の中は徹夜明けの熱気に包まれていた。部品が並ぶ作業台、油と金属の匂い、工具の音。スタッフたちが黙々と最後の調整を続けている。
その輪の中に――小松原沙織がいた。
つい昨日まで五井物産で肩身を狭くしていた彼女が、今は真剣な眼差しでモーターを調整し、若い技術者に的確に指示を出している。まるで旧い仲間だったかのように、自然に場に溶け込んでいた。
桐生が額の汗を拭いながらオレに声をかけた。
「……ギリギリ、なんとかなりそうです。ただテストが充分じゃないのが気になるけれど。もう、移動する途上で少しでも確認してもらうしかありませんね」
「分かりました」オレは深く頷いた。
「桐生さん、それから小松原さんも。徹夜明けで申し訳ありませんが、一緒に来てください」
「もちろん」桐生は即答した。そしてふと沙織を見て言葉を続けた。
「それにしても……彼女がいなければ到底間に合わなかったでしょうね。……だいたい、なんで総合商社なんかにいたんだろう。それがむしろ分からないよね」
オレは沙織を見た。彼女は驚いたように瞬きをし、そして小さく肩をすくめた。
「……バカだったんです」
ぽつりと落とされた声は、油と金属の匂いに混じって胸に重く響いた。
「本来なら機械メーカーを志望すべきだった。でも結局、総合商社――五井物産というブランドに惹かれてしまった。最終面接まで残って舞い上がって……自分が本当にやりたいことを見失ったんです」
その横顔には、悔恨と寂しさがにじんでいた。
「総合商社マンがカッコいいのは……結局、直也さんのような人が象徴化しているからなんですよね。全員がそうじゃない。むしろ錯覚でした」
オレは言葉を返せなかった。彼女の声はあまりにも率直で、痛々しいほどだった。
だが、桐生は笑った。
「――合格だよ、小松原さん、だったね?ぜひウチに来て欲しいな」
沙織が驚いた顔で桐生を見た。
「ウチはこれから五井物産からも栗田自動車からもDeepFuture AIからも出資を受ける。でも……だからこそ、外部のプレイヤーと強かに交渉できる人材が必要なんだ。普段は研究開発を一緒にやりながら、ビジネスも理解できる人材がね」
工房の空気が一瞬止まったように感じた。
沙織はしばらく黙ったまま、視線を落とした。震える指先をぎゅっと握りしめ、やがて小さく頷いた。
――敗者の烙印を押された彼女が、今、再び立ち上がろうとしている。
その光景を前にして、オレは確信していた。
(……これでいい。GAIALINQには、彼女の力が必要になる)
徹夜で組み上げられたP-02が、静かに立ち上がった。
その人工の瞳に灯る光が、未来を切り拓く狼煙のように見えた。
横にいた保奈美が目を丸くした。
「え? ロボットなの? コレ……」
彼女は一歩近づき、無邪気な声で問いかけた。
「あなたの名前は?」
機械的な声が返ってくる。
「ワタシハP-02。ハンヨウヒトガタサギョウヨウキキノプロトタイプ02ゴウキデス」
スタッフの一人が慌ただしく端末を操作しながら言った。
「今、ソフトウェアのアップデートが走っていますから、もう少ししたら円滑に話せるようになりますよ」
保奈美はぱっと笑顔を見せた。
「すごい! お話もできるのね。でも名前がP-02なんて、機械みたいで可哀想……」
そう言ってから、何かを思いついたように両手を叩く。
「あっ、そうだ! あなたの名前は“O2さん”。だから――オニーさんね!」
ロボットの人工音声が一瞬間を置いて返す。
「オニーサン……リョウカイシマシタ。ワタシハ、オニーサンデス」
「わあ! オニーさん、よく出来ました!」
保奈美が飛び跳ねるように喜ぶ姿に、工房の空気が和んだ。
桐生が苦笑しながらオレの耳元に寄ってくる。
「あのべっぴんのお嬢ちゃんは一体全体誰なんだい? まさか一ノ瀬さんの恋人か何か?」
「いえ、違います」オレは慌てて首を振った。
「私の義妹です」
保奈美はそんな会話を気にもせず、ロボットに向き直った。
「オニーさん。私は誰?」
人工音声が即座に答える。
「ハイ。アナタハ、ホナミサンデス」
「すごい! オニーさん、よく出来ました!……ねぇ直也さん。直也さんよりこのオニーさんは素直だよ」
その喜びように、技術者たちも思わず顔をほころばせていた。
オレは苦笑するしかない。
端末の画面に「アップデート完了」の文字が表示される。
もう本体を梱包している余裕はない。そのまま運ぶしかない。
充電された予備バッテリーを急いで桐生は梱包する。
「桐生さん、出ましょう」
オレの言葉に頷いた桐生は、スタッフへ短く指示を飛ばした。
P-02――いや、“オニーさん”を中央に据えて、我々は工房を後にした。
タクシーを二台手配し、桐生は作業着のままで、沙織は急いでスーツに着替え、P-02と同乗する。それから保奈美とオレ。
残るスタッフたちは工房から手を振り、夜明けの街に出発する一行を見送った。
(――首長会議までに、間に合わせるしかない。)
タクシーの窓から見える東京の街並みは、冷たい冬の光に包まれていた。