第62話:一ノ瀬保奈美
夜の9時を過ぎて、ようやく直也さんが帰宅した。
スーツの上着をソファに置き、黙ったまま夕食の席につく。その横顔は、いつもの穏やかさよりもずっと険しくて、何かを考え込んでいるように見えた。
私は箸を握りながら、ちらちらと直也さんの表情をうかがった。
(……また、難しいお仕事のことなんだろうな)
食卓の沈黙を破ったのは、直也さんの低い声だった。
「――保奈美。明日、八幡平に出張するんだけど……一緒に行くか?」
思わず顔を上げる。
「えっ? わ、私も一緒に行っていいの?」
驚きと嬉しさで、声が上ずってしまった。
直也さんは少し笑って、柔らかく頷いた。
「前から一度、保奈美にもGAIALINQの核心部分――八幡平を見せてあげたいと思っていたんだ」
胸が一気に熱くなる。
「……行きたい! ぜひ一緒に行きたいです!」
答えると、直也さんはすぐにスマホを取り出して、会社に電話をかけた。
「はい、はい。……そうです。私費で私が負担するという事で、ご了承ください」
会話の端々から、どうやら「私の分の費用」について話しているらしかった。
(……直也さんが、私の分まで)
少し胸がじんわりする。
電話を切ると、直也さんは穏やかな声で言った。
「大丈夫だ。了解が取れた。明日は早朝から一緒に、Archetype Roboticsという会社のオフィスに行く。その後で八幡平に入るから……今日のうちに荷物を準備して、すぐに寝よう。朝5時過ぎには出発するよ」
「……はい!」
私は急いで自分の部屋に戻り、旅行用のバッグを開けた。
服や洗面道具を詰め込みながら、胸がどきどきして止まらない。
(……東北に行くの、初めてだな)
海外旅行は直也さんにおかげで経験している。けれど、東北地方には一度も足を運んだことがなかった。
明日、自分の知らない土地で、直也さんのお仕事で大切な場所を見ることができる――そう思うだけで、胸が熱くなった。
夜遅くまで、直也さんはリビングで天気チャンネルを見ていた。
画面には「爆弾低気圧」「東北地方・大雪警報」と、赤い文字が繰り返し流れていた。
私は隣に座っていたけれど、専門用語が多くてよく分からない。ただ、直也さんの表情が硬かったことだけは覚えている。
けれど、その後で彼はいつものように穏やかな声で言った。
「保奈美、もう寝なさい。明日は早いから」
その言葉に従って部屋に戻り、眠りについた。
※※※
朝、4時すぎ。
直也さんとほとんど同じタイミングで目が覚めた。
前夜に直也さんから、加賀谷さんの家に伺う時のように、一番おめかしした格好をして欲しいと言われていたので、銀座で仕立ててもらったハイブランドの服から冬物ドレスを選んだ。上着にはカシミアのコートを用意した。
メイクもエドワードさんから教えて頂いたようにきちんと――。
そして直也さんからプレゼントされたペンダントとブローチとリング。
朝食は前日のうちに用意していたのでレンジで温めてすぐ食べた。そして、まだ夜明け前の空気を吸い込みながら玄関を出る。
「タクシー、もう呼んであるから」
直也さんに促されて外に出ると、黒い車が待っていた。
車内に乗り込むとすぐ、前の座席に設置されたデジタルサイネージモニターが、何度も繰り返してニュースを流していた。
『――東北地方に大雪警報。交通機関の混乱に警戒を――』
赤いテロップが目に飛び込むたびに、胸がざわついた。
「……新幹線、出るのかな?」
思わず不安を口にしてしまう。
けれど、直也さんは落ち着いた声で答えた。
「大丈夫だよ」
その一言で、不思議なほど安心した。
(……直也さんが大丈夫って言うなら、本当に大丈夫なんだ)
私はそれ以上考えるのをやめ、窓の外に目を向けた。
まだ暗い東京の街並みが、少しずつ朝に向かって色を変えていく。
Archetype Roboticsのオフィスに近づくにつれ、胸の鼓動は高鳴っていった。
――今日、私は初めて八幡平に行く。
直也さんの大切にしている場所を、一緒に見に行けるのだ。