第61話:神宮寺麻里
時計の針は、すでに日付を跨いでいた。
深夜バスも、飛行機も、もう手立てはない。
「明日は朝イチの新幹線に賭けるしかないわね」
そう玲奈と確認し合い、それぞれ自宅へと戻った。
マンションのドアを閉め、バッグを床に置いた瞬間、張りつめていた緊張が一気にのしかかってくる。
すぐにテレビを点けると、専門チャンネルの画面には、赤い文字が踊っていた。
「爆弾低気圧 東北全域で大雪警報」
「……なんで、こんな最悪のタイミングで」
思わず声が漏れた。
これまで積み上げてきた準備。
何度も想定問答を練り直し、反論の切り口を磨いてきた。
そのすべてが――大雪ひとつで水泡に帰すかもしれない。
苛立ちが胸の奥で渦を巻く。
いつもなら冷静でいられる自分が、今夜ばかりはどうにも気持ちを抑えきれない。
(……こんな時に、直也がいてくれたら)
思わず自分で自分に苦笑した。
現実的じゃない願いだと分かっているのに、頭に浮かんでしまう。
もし隣にいてくれたら――恋人だった頃のように、体を重ねて抱きしめてもらえたら、それだけで心が静まるのに。
仕方なく、ワインを少しだけ注いだ。
赤い液体がグラスの中で揺れるのを見つめ、ひと口。
喉を通る熱が、かえって胸のざわめきを強めるようだった。
(……眠らなきゃ。明日は、必ず盛岡に行かないと)
そう自分に言い聞かせてベッドに横になる。
けれど、瞼を閉じても、雪に覆われた線路と、孤軍奮闘する亜紀の姿ばかりが浮かんでくる。
「……頼むから、動いて」
盛岡に向かう新幹線の姿を心に描きながら、私はようやく目を閉じた。
※※※
東京駅に着いたのは、まだ午前5時40分を少し回った頃だった。
ホームに立つと、冷たい風が吹き抜けていく。
すでに駅構内はいつもよりざわついていて、電光掲示板には赤字で「東北新幹線・福島以北 大幅遅延見通し」と点滅していた。
「麻里!」
人混みの中から玲奈が駆け寄ってきた。
互いに頷き合い、二人で始発のはやぶさに乗り込む。
座席に腰を下ろした瞬間、玲奈はすぐに携帯を耳に当てていた。
「……亜紀さん、私たちの到着、遅れる見込みです!必ず行きますから、時間を稼いでください!」
声を押し殺しながらも、切迫した響きが伝わってくる。
私はタブレットを開き、直也にチャットを送信した。
――「新幹線は全部遅延の見通しです」
返ってきたのは、短い一言だけだった。
「わかった」
(……やっぱり、何か考えている)
直也らしい簡潔な返事。けれど、その奥にあるものは読み切れない。
窓の外には、雪をかぶったホームが後ろに流れていく。
車内のアナウンスが「盛岡到着は大幅に遅れる見込み」と淡々と繰り返していた。
(もし間に合わなかったら……?)
最悪のシナリオが頭をよぎる。
私はすぐに自分の役割を思い出した。
「せめてデモ映像を」
タブレットのフォルダを開き、前夜イーサンから送られたデータを確認する。
P-01が加納屋のデジタルツインで配膳し、廊下を歩き、客をもてなす姿。
それを即座に投影できるよう、プレゼンファイルに組み込む作業を進めた。
(映像でもいい。現実感を訴えなければ)
胸の奥の不安は消えない。だが、それを上塗りするように冷静さを自分に叩き込む。
戦場は明日ではない。今日、午前十時半の首長会議だ。
「麻里、あとで私の分もチェックして」
玲奈が小声で言ってきた。
私は頷き、彼女の資料ファイルを開く。
利権で論点をすり替えようとする相手に対し、反論の矢を一本でも多く用意しておく。
「……絶対になんとかしなければ」
声にならない誓いを胸に、私はタブレットの画面をにらみ続けた。