第59話:新堂亜紀
秋田の山道は、すでに真っ暗だった。
雪を踏みしめるようなタイヤの音と、時折吹き付ける風のうなり声だけが車内に響く。
直美がハンドルを握り、助手席で慎一がタブレットを操作している。私は後部座席から外を見やりながら、次々と訪ねた温泉街の光景を思い返していた。
(……これで、ひと通りは回り切った)
午前から続いた説明行脚。秋田側の主要な温泉街を一件ずつ訪ね、GAIALINQのビジョンを語った。
冬の東北は移動だけでも消耗する。だが、岩手と秋田――双方の理解を得て足並みを揃えなければ、明日の首長会議で岩手側が賛同しても「秋田はどうなのか」という壁に必ずぶつかる。
日本の調整にありがちなこと。
「先方がOKなら、うちもそれでいいよ」という横並び志向。
それが、逆に物事を停滞させる一因になる。だからこそ、僻地の一軒でも軽視してはいけない。全ての声を拾っておく必要があった。
「新堂さん、これで秋田側の主要どころは押さえましたね」
慎一が静かに言った。
「ええ。あとは明日、岩手の首長会議でしっかり理解を得られれば……県庁への正式アプローチに進めます」
言葉にしながらも、胸の奥にずしりとした疲労が沈んでいた。
資料を何度も繰り返し説明し、時に懐疑的な視線を浴び、それでも一歩ずつ説得していく。簡単なことではない。
(けれど、ここで妥協したら何も前に進まない)
時計はすでに18時を回っていた。最後の訪問先を出たとき、空には雪雲が広がり、携帯の電波は途切れたままだ。
東京なら当たり前に繋がる通信も、地方では繋がらないケースはままある。
「繋がらないですね……」直美が苦笑する。
「この辺りは仕方ないわ。明日の準備を頭の中で整理するしかないわね」
そう答えながら、車窓の外に続く真っ暗な雪道を見つめる。
4WDのライトが白い雪壁を照らし出し、その先に細い舗装道路がかろうじて浮かび上がる。もしスタックしたら、それだけで数時間は動けないだろう。
加納屋に戻ると、時計はすでに21時を回っていた。
雪道の移動に心身ともに削られ、私も直美も慎一もぐったりしていた。
それでも女将が用意してくれていた温かい料理に手を合わせ、三人で遅い夕食を囲んでいたときだった。
机の上に置いていた携帯が、甲高い着信音を響かせた。
画面に映る名前に思わず背筋が伸びる。――玲奈。
「もしもし、亜紀さん?大変です!」
受話口から飛び込んできた声は、切迫していた。
「明日の地域首長会議に、五井物産の再エネ部門統括取締役と本部長が介入する可能性が高いです。GAIALINQの心象を悪くする工作が予定されているみたいなんです!」
「……なんですって」
思わず箸を握る手に力がこもる。
玲奈は矢継ぎ早に続けた。
「麻里と一緒に、明日の朝一番で盛岡に入ります。直也さんはP-02をArchetype Roboticsで受領し次第、こちらに向かうことになりました。どういう妨害を仕掛けてくるのか分からないので、最悪を想定して備えてください」
胸の奥が冷たくなる。
(……やっぱり仕掛けてきたか)
秋田側での調整が終わり、あと一歩で前進できる――そう思った矢先の報だった。
慎一も直美も、食事の手を止めて険しい表情を浮かべている。
私は深く息を吸い、冷静に言った。
「分かったわ。こちらは予定通り明日の首長会議に出席する。玲奈、メモランダムを送って。どんな論点を突かれても反論できるようにしたい」
「もう送付済みです。高村さんと佐川さんにも共有しておいてください」
通話を終えると、机の上に再び重い沈黙が落ちた。
(首長会議で“太陽光か地熱か”の最終判断が揺らぐ……そうなれば、ここまで積み上げてきた努力が一瞬で崩れるかもしれない)
携帯に届いた玲奈のメモランダムを三人で確認した。
太陽光発電のリスク――稼働率、廃棄パネル、森林伐採、中国依存。
地熱発電とAIロボティクスの優位性。
要点は押さえられている。だが、明日どんな形で攻撃されるかは分からない。
「……一旦、休みましょう」
直美が静かに言った。
「徹夜しても頭は回らなくなります。明日の決戦に備えるしかありません」
慎一も頷く。
「そうだな。体力を残さなければ、首長会議で言葉が響かない」
私はしばらく画面を見つめていたが、やがて小さく頷いた。
「……ええ。休みましょう」
部屋に戻ると、窓の外には雪がしんしんと降り積もっていた。
布団に横たわりながらも、瞼の裏には明日の会議の光景が浮かび続ける。
(決戦は、明日。土曜日――)
眠気よりも緊張が勝ち、胸の鼓動はしばらく収まりそうになかった。
外を見ると雪が激しくなってきた。