第53話:一ノ瀬直也
加賀谷邸のリビング。
窓越しに冬の風が木の枝をゆらしているのが見える。ワイングラスを置き、オレは静かに口を開いた。
「加賀谷さん……改めてお礼を申し上げます。先日の件、事前に警告を頂けたおかげで、対処ができました」
視線を向けると、加賀谷さんはゆっくり頷いた。
「やはり再エネ部門が仕掛けてきたか」
苦笑のようなものが口元に浮かぶ。
オレは正直な思いを口にした。
「ええ。ただ……あれで終わるとは到底思えません。むしろこれから外部にエスカレートしていく可能性が高いと考えています」
加賀谷さんはグラスを回し、ワインの赤をゆっくりと見つめた。
「同感だね。彼らは一度動き出したら、そう簡単には諦めないだろう。とりわけ“メガソーラー”というのは利権の坩堝だからね」
そう言ってから、ふっと声を落とした。
「だが――環境省を味方につけたのは大きいぞ」
僕は少し驚いて彼を見返した。
「経産省OBという加賀谷さんのお立場からすれば、環境省の影響力が増すのは……正直、あまり面白くないのではないでしょうか?」
加賀谷さんは渋い顔をして笑った。
「それはもちろん、面白くはないよ。経産省としては、再エネ政策の主導権を本当は全部握っていたい。だが現実は違うね。国際基準や建前論を振りかざせるのは環境省の方だ。彼らの後ろ盾を得た君たちは、少なくとも国内の正統性を担保したと言えるだろうね」
その言葉は、妙に重く響いた。
政治、あるいは行政府の表と裏を知る男の、現実的な視点。
「GAIALINQを守るなら――環境省の旗は大きな盾になる。経産省出身のオレがそう言うんだ。間違いない」
グラスを置き、真っ直ぐこちらを見据える加賀谷さん。
オレは深く頷いた。
「ありがとうございます。……本当に、心強いです」
けれど、胸の奥では別の感覚も拭えなかった。
――ここからが本当の戦いだ。恐らく搦手で来るだろう。
利権の力は、そう簡単に退くことはない。
だが今は、環境省という後ろ盾がある。
そして――オレには信じられる先輩や仲間たちがいるのだ。
ワインの香りが、静かに広がっていった。
食卓に香ばしいローストビーフやグラタンが並び、赤ワインの香りがふわりと広がる。
加賀谷さんご夫妻と一緒に囲む食卓は、温かい空気に包まれていた。保奈美も奥さまと並んで料理を運びながら、どこか誇らしげな表情をしている。
「――いやぁ、それにしても驚いたよ」
加賀谷さんがグラスを掲げ、笑みを浮かべる。
「環境省の柊遥事務官を味方につけたのは大きい。あの“凍結遥”が推奨するとなれば、誰も軽々しく異を唱えられないだろう」
オレもグラスを合わせた。
「ええ。正直、彼女の後ろ盾を得られたのは本当に幸運でした」
そこで加賀谷さんが、ふっと口を滑らせた。
「それに……噂では、環境省の柊遥事務官ってすごい美人らしいじゃないか。しかも、直也くんを大層お気に入りのようだと、経産省でも噂になっているらしいぞ」
「アナタ!」
奥さまが思わず声を上げ、眉をひそめる。
だが保奈美は、にこやかに微笑んだまま、こちらに視線を向けてきた。
「直也さん。その方って……本当に美人な方なんですか?」
「え、あ……うーん……」
思わず言葉を濁す。
「まぁ、そういう視点で見たことがなかったからなぁ……」
その瞬間、隣から鋭い痛み。
「イタっ!」
保奈美がにこやかな笑みのまま、オレの手をつねっていた。
「い、いや。本当に、そういう事ではなくね……」
慌てて言葉を探すオレに、奥さまが呆れ顔で言う。
「それはそうよね。保奈美ちゃんからすれば、面白くないに決まってるじゃない。……だいたいアナタが余計なことを言うから」
「いや、まぁそうだけど……ちょっと口を滑らせただけだよ。そんなに言わなくても……」
加賀谷さんが肩をすくめる。
食卓に並ぶ温かな料理と、笑い混じりの会話。
それは政治の緊張感とはまるで別世界の、穏やかな時間だった。
奥さまに促されて、保奈美がぽつりとこぼした。
「直也さんの周囲は本当に素敵な女性が多くて……心配です」
すぐさま加賀谷さんが相槌を打つ。
「そうそう。亜紀ちゃんとか、玲奈ちゃんとかね」
「アナタはまた!」
奥さまの鋭いツッコミが飛んだ。
慌てる加賀谷さんを横目に、保奈美はにこやかに答えた。
「私は亜紀さんも玲奈さんも大好きなんです。LAでの休日も一緒にお付き合い頂いたので、すっかり仲良くなりました」
その言葉に奥さまが目を細める。
「まぁ……保奈美ちゃんは寛大ね。素敵だわ」
けれど、その次に放たれた一言は、なかなかに鋭かった。
「でもね、殿方は甘やかすとすぐに勘違いするものよ。それは絶対にダメ」
「……」
ついオレは、いたずら心が湧いてしまい、尋ねてしまった。
「加賀谷さんは……勘違いされたこと、あるんですか?」
「な、何いっているんだ直也くん!そんなことあるわけないよ。ないない。ね?」
必死に否定する加賀谷さん。
「あら、そうでしたっけ?」
奥さまは涼しい顔でそう返し、加賀谷さんは赤い顔でグラスをあおった。
笑い声が重なり、食卓にあたたかな空気が広がっていく。
重苦しい会議室でのやり取りとは違う、家庭の温もり。
――こういうひとときがあるからこそ、戦い続けることができるのかもしれない。
オレはナイフとフォークを手に取り、心からのご馳走を味わった。