第52話:一ノ瀬保奈美
直也さんから、思いがけない話を聞いた。
「また加賀谷さんのご自宅に遊びに来て欲しいと、わざわざ加賀谷さんからご連絡を頂いたよ」
私は思わず目を丸くした。
――また、あのお宅に?
加賀谷さんの奥さまは、あのとき初めて会った私に、本当に優しくしてくれた。
加賀谷さんのご夫妻にはお子さんがいないからだろうか、まるで自分の娘みたいに私に接してくれて、それが嬉しかった。
私も母を亡くしてからずっと「お母さん」という存在の温もりを忘れかけていたけれど……あの人の笑顔に触れた瞬間、心の奥がじんわり温かくなったのを覚えている。
(……あんなに優しい人、久しぶりだったな)
少し胸がじんわりする。
「保奈美、実はね……これからまた、オレも国内外での出張が増えると思うんだ」
直也さんは、少し言いづらそうに言葉を選んでいた。
「保奈美を家に一人で置いておくのは正直心配なんだよ。だから加賀谷さんにお願いして、そういう長期出張の際には保奈美をホームステイさせて頂けないかと思っている。保奈美の学校は加賀谷さんのご自宅からそんなに離れていないし」
私はすぐに反射的に答えていた。
「イヤです。私、この家を守るのが役割だもん」
胸を張って言ったつもりだった。
でも直也さんは、苦笑しながら私を見つめた。
「……保奈美の気持ちは分かるよ。でもね、オレが長期で出張している間、保奈美が大丈夫か心配で、仕事に集中できないのは困るんだよ。ホームセキュリティを整えたところで、やっぱりどこまでいっても不安だからね」
その言葉に、心の奥が少し痛んだ。
直也さんに迷惑をかけてしまう――そんなのは絶対にイヤだ。
「……直也さんに迷惑はかけたくないから。ハイ……分かりました」
唇を噛みながら、それでも承諾の言葉を口にした。
――やっぱり私、まだ子どもだと思われているのかな。
直也さんは私を一人にできないと思ってる。
まだ守られるばかりで、ちゃんと直也さんを「支える」存在にはなれていない。
まだまだ全然ダメだな――。
でも。
加賀谷さんの奥さまとまたお会いできるのは嬉しいな。
母を亡くした私にとって、あの人は「母みたいな人」だ。
私が目指している大人の素敵な女性になる為には、そういう方にいろいろ教えていただくことは必要だと思う。
※※※
その週末。
直也さんと一緒に、また加賀谷さんのお宅へ伺った。
玄関を開けると、奥さまが笑顔で迎えてくださる。
「まぁ、保奈美ちゃん。また一段と素敵ねー」
思わず頬が熱くなる。
――今日は、先日銀座で直也さんに買ってもらった冬物ワンピースと、同じく選んでもらったハンドバッグ。それに、小さなリングも。
褒められて嬉しくて、ちらりと直也さんを見たら、彼もなんだか誇らしそうに微笑んでいた。
リビングに通されると、直也さんは加賀谷さんと仕事の話を始める。
その横で、私は奥さまと一緒にキッチンへ。
「今日は一緒にお料理したいと思っていたの。お手伝いしてくださいね」
そう言って、奥さまが棚から取り出してくれたのは――可愛らしい花柄のエプロン。
「保奈美ちゃん用に用意しておいたの。プレゼントよ」
胸がじんと温かくなる。
母を亡くしてから、誰かに「あなたのために」と言われることがこんなにも嬉しいなんて。
「ありがとうございます……大事にします」
そう言いながら、いただいたエプロンを身につけた。鏡越しに見えた自分は、少し大人びて見えた気がする。
料理はローストビーフ。
以前に亜紀さん、玲奈さん、麻里さん、それに莉子さんたちが家に来た際に私も作ってみた。幸いにも美味しくできたけれど、少し火が通り過ぎていたように思っている。
直也さんは好き嫌いがない人だけれど、折角良いお肉を選んで調理するのだから、なるべく美味しく作りたいけれど、それがなかなか難しいのがこのローストビーフだ。
今回奥さまから事前に「何がいいかしら?」と御相談を頂いていた際に、ローストビーフの難しさについて逆に質問をしたところ、「じゃあ、一緒に作りましょう」と言ってくださったのだ。
奥さまが手際よくフライパンで表面を焼き付ける。香ばしい匂いがキッチンいっぱいに広がった。
「ローストビーフはね、焼いたあとは予熱で中まで火を通すの。タイミングが大事なのよ。焼きすぎると固くなるし、生すぎても危ないから」
包丁を持つ手つきも、オーブンにかける仕草も、ひとつひとつが優雅で――私は夢中で見入ってしまった。
「ほら、指で押してみて。ちょうどいい弾力になったら……成功よ」
奥さまは笑みを浮かべ、私の手をとって確かめさせてくれた。
その間、リビングからは直也さんと加賀谷さんの笑い声が聞こえてくる。
二人でワインを開けて、楽しそうにグラスを傾けていた。
「もう男の人は、すぐお酒を飲んでしまうから、困ったものよね」
奥さまが肩をすくめて言う。
私は思わず笑ってしまったけれど――胸の奥では、ちょっと心配になった。
直也さんは普段、家ではほとんどお酒を飲まない。でも、加賀谷さんと一緒だと、やっぱり遠慮なく楽しんでいるみたい。
「直也さん、お酒強いんだよな……」
ちらりとリビングを覗き見ながら、小さく呟いた。
――私にとっては、大切な人だから。
強いと分かっていても、酔いすぎて倒れたりしないか、やっぱり心配になってしまう。
そんな私を見て奥様は優しく微笑んでいた。