第47話:小松原沙織
スクリーンに自分の姿が映し出された瞬間、呼吸が止まった。
――それは紛れもなく、金曜の夜の私。
ワイングラスを回し、直也さんの横顔を見上げ、媚びるような笑みを浮かべている。
「……直也さん、こうして飲むのも悪くないでしょう?」
会議室全体がざわめく。
背筋に冷たいものが走る。
映像は容赦なく進んだ。
ドアが開き、あの女――柊遥が現れる。
「直也さん、ヒドいなぁ。デートの約束、ドタキャンして」
あの凛とした声を聞いた瞬間、映像の中の私は、掠れた声で呟いていた。
「……“凍結遥”……」
――駄目だ。やめて。もう流さないで。
心の奥で必死に叫んでも、映像は止まらない。
遥の傍らに、由佳と彩花が映り込む。
由佳が笑みを浮かべ、軽くグラスを掲げていた。
「いやぁ、見事な修羅場だったね」
そして柊遥の言葉。
『――で、直也さん。先日お願い頂いた“後半の方”ですけれど……省内調整、かなり大変でしたけど……実は未消化になっている予算があるので、なんとか使えそうです。具体化に向けて、打ち合わせ進めましょう』
スクリーンが暗転した瞬間、全身の力が抜けた。
――終わった。
私は椅子に座ったまま、下を向き、震える唇を噛みしめる。
指先に爪が食い込むのに、それすら痛みとして感じなかった。
映っていたのは、必死に役割を果たそうとした“私”じゃない。
本部長に命じられて仕掛けた、情けなくも浅はかな女の姿だった。
遥と由佳の登場で、すべてが茶番に変わり、証拠映像として突きつけられた今――私の立場も、プライドも、何もかもが粉々に砕け散った。
社長の声が響いた。
「……一方で、いまの“ハニートラップまがい”の行為は、一体どういう了見なのだね?」
心臓を直接掴まれたような感覚だった。
視界が滲む。――涙なんか、絶対に見せられないのに。
専務の声が飛ぶ。
「小松原くん、それから……君からも、きちんと説明したまえ」
本部長が即座に言った。
「……私は知りません。小松原が勝手にやったことです」
突き放された。
唯一の拠り所だったはずの人から、あっけなく切り捨てられた。
「小松原くん、それは本当かね?」
専務の問い。
答えようとした。
でも喉が塞がって、声にならなかった。
ただ、唇が小刻みに震えるだけ。
――言葉を失った瞬間。
直也が、ゆっくりと手を挙げた。
「専務、少し発言してもよろしいでしょうか?」
専務が頷く。
そして彼の声が、静かに会議室を満たした。
「実は加賀谷さん――ご存知のようにグリゴアの執行役員をされている方――が、先日ご自宅に私をお招きくださった際に、経産省のお知り合いから聞かれたという事で、伺った話があります」
背筋が冷たくなった。
加賀谷? 外務省? チャイナスクール? 中国メーカー?
次々と彼の口から飛び出す固有名詞に、役員たちの顔色が変わっていく。
再エネ部門の統括取締役と本部長が青ざめている。
(……まさか、ここで私を完全に追い詰める気なの?)
喉が詰まり、呼吸が浅くなる。
「加賀谷さんは、社内外から、GAIALINQをメガソーラー活用の機会として用いようとするアプローチが私相手に行われる可能性に留意するようにとアドバイスを頂きました」
だが、直也の言葉は続いた。
「小松原さんから最初に私がアプローチを頂いたのは、その翌週でした。……そうした時系列の不自然さを、社長にも専務にもご高配いただきたいと思います」
――時系列。
その一言で、胸を刺していた氷がふっと揺らいだ。
あれは、私を犯人として突き出す言い方じゃなかった。
むしろ逆だ。
“彼女が勝手にやったのではない。背後で仕掛けた勢力がいる”――そう言外に示している。
(直也さん……)
どうして、そこまで。
私なんかのために。
守ろうとしてくれている。
でも、その優しさが余計に胸を抉る。
――報いることができない。
私はもう、十分に傷を作ってしまった。
社長の重い声が響く。
「専務はどう思われますか?」
専務が深々と頭を下げる。
「誠に申し訳ありません。私の傘下での不道徳極まりない対応……五井物産にあるまじき事だと思われます。今後厳しく詮議した上で、改めてご報告いたします」
会議室が動いていく。
責任の矛先は本部長や統括取締役へと移りつつある。
けれど私は――ただ俯いたまま。
唇を噛み、何も言えなかった。
直也の精一杯の助力。
その真意を悟れば悟るほど、私の心は、静かに、しかし確実に崩れていった。