第44話:一ノ瀬直也
月曜の朝。
会議室に入った瞬間から、空気が違うと分かった。
定例ミーティングは、普段なら各担当の進捗確認が淡々と続く。だが今日は――開始直後から熱気を帯びていた。
最初に報告したのは亜紀さんだった。
「八幡平側の地元有力者と観光組合の会長、それから農協理事からも“協力の方向で考えたい”という返答を得ました。千鶴さんの後押しが決定打になったようです」
会議室が一瞬静まり、それからどよめきが起こる。
直美も補足するように、次々と具体的な名前や条件を挙げていった。
「従来では考えられなかったレベルでの支援姿勢が示されています。これで地域合意形成のプロセスは、大きく前進しました」
画面越しに繋がっている米国JV側のメンバーも、驚きの表情を隠せない。
続いて玲奈の番だった。
彼女は落ち着いた声で資料をめくりながら報告する。
「候補Cについて、地権者サイドとの水面下の交渉に目処が立ちました。直結する立地条件、送電網への接続性、冷却水源、いずれも理想的です。週内にも一次交渉に入れる見通しです」
――候補C。
我々が頭の中で“もしここが取れれば”と夢のように話していた場所。
それが、ついに現実の交渉テーブルに乗ろうとしている。
ディスプレイの向こう、マイクが大きく身を乗り出した。
「Damn… this is something.(まいったな……) I didn’t see this coming.(まさかここまでとは思わなかった)」
そして笑みを浮かべて続けた。
「Aki, she’s got guts.(亜紀って、すげぇガッツだな) To step into that kind of hostile territory and turn the tide… amazing.(あれだけ険悪だった現場に乗り込んで、空気をひっくり返すなんて……大したもんだ)」
マイクの口からも褒め言葉しか出てこない。
先週まであれほど米国JVが優勢だったのに、今や一気に日本JVがまくってきている。
その逆転劇を、誰もが肌で感じていた。
報告が一巡すると、自然と拍手が湧き上がった。
プロジェクトに関わる全員の表情に、久々に手応えと高揚感が宿っていた。
――間違いなく、大きな流れがこちらに傾きつつある。
ただ、オレは先週からメガソーラーを巡る問題を強く意識するようになった。
今の状況で安堵していてはダメだ。
会議が散会した直後だった。
「一ノ瀬さん」
背後から声をかけられた。振り向けば、社長秘書が立っている。
「社長がお呼びです。役員会議室へお願いします」
――役員会議室。
その言葉を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
通常の執務室やプロジェクト会議室ではなく、役員専用のフロア。
そこに呼ばれるということは、ただの進捗報告ではない何かがあるのだろう。
オレはゆっくりと立ち上がった。
会議室の喧騒が遠のき、心臓の鼓動だけが耳に響いている。
※※※
重厚な木の扉を押し開け、取締役会議室に足を踏み入れた。
普段は取締役会以外ほとんど使われない場所――磨かれた長大なテーブルと、壁際に並ぶ重厚な革張りの椅子。
そこに並んでいた顔ぶれを見た瞬間、胸の奥がかすかに強張った。
社長、副社長。
ITセクターを含め管轄する常務。
再エネ部門を束ねる専務と、その直下の統括取締役。
さらに再エネ部門の本部長まで揃っている。
そして――沙織。
テーブルの端に座り、こちらをじっと睨むように見ている。
その眼差しには、恨みがましい光が潜んでいた。
「……一ノ瀬くん」
本部長の低い声が会議室に響いた。
「GAIALINQのCOOという立場にある者が、特定の行政組織の人間と個人的に親しく付き合う……これはどういう了見だね?」
空気が一瞬で重くなる。
オレは深く息を吸い込み、視線を逸らさずに応じた。
「それは――環境省の柊さんとのことを指しておられるのでしょうか」
「そうだ」
本部長は眉をひそめ、机上の書類を指先で叩いた。
「彼女は『凍結遥』の異名を持つ。国内でのメガソーラー案件が、いくつあの女の判断によって“検討状態”のまま凍結されているか……君は承知しているのか?」
沙織がわずかに口元を歪めたのが、視界の端に映った。
その視線を受け流しながら、オレは声を落ち着かせて答える。
「しかし、私の知る限り――当社の服務規程に、彼女との関わりを否定する条項は存在しません。GAIALINQのCOOとして行動するにあたり、違反に当たる要素はないと考えます」
「そういうことを言っているのではない!」
本部長の声が低く唸るように強まった。
「例えプライベートの場であっても、適切な距離感を保てないようでは困るのだ。特に――あの柊遥に関しては、だ」
――刺すような沈黙。
社長は表情を変えずに腕を組み、副社長は目を伏せて考え込むようにしていた。
本部長が吐き捨てるように言葉を締めくくった瞬間、隣に座っていた統括取締役が口を開いた。
「まぁいい。個人的な関係性までは、過度に追及するつもりはない」
淡々とした声色で、しかし視線は真っ直ぐにオレを射抜く。
「ただ、我々としては――“メガソーラー事業”の大きな前進の機会を、GAIALINQにも求めたいと思っている。……君の考えを聞かせて欲しい」
――なるほど。
これは“問い詰め”ではなく、“試し”だ。
GAIALINQの未来をどう描くのか――この場での一言が、方向を決める。
オレは椅子の背に深く座り直し、テーブルの中央を見据えた。