第36話:柊 遥
由佳さんと彩花さんの提案で、席を一つにまとめることになった。
直也さんと、その両脇に玲奈さんと麻里さん――そして私。向かい側に由佳さんと彩花さん。
さっきまでの張りつめた空気が嘘のように、テーブルには食事の香りとグラスの音が戻ってくる。
由佳さんが、わざとらしく愉快そうに笑った。
「でも遥さん、ほんと演技上手だよね。もう直也さんの本当の彼女が乱入してきたのかと思っちゃった」
彩花さんもグラスを傾けて頷く。
「うんうん。さっきは完全に修羅場の空気だったね。あれ、普通の人なら完全にドン引きよ」
私は軽く肩をすくめて答えた。
「省内の会議では、演技力って大事なんですよ。自然と喜怒哀楽をコントロールする術が身についてしまう。だから、この程度は正直どうってことはないです」
穏やかに返したつもりだったけれど――正面の二人の表情が動いた。
玲奈さんが、真剣なまなざしを私に向けてくる。
「……じゃあ、さっきのあのやり取りは……演技だったんですか?」
質問の切れ味は鋭い。
でも私は微笑んだまま、ほんの少し首を傾げた。
「うーん……演技、ですかね」
わざと間を置いて、ゆっくり言葉を続けた。
「でも、あの人――小松原さん、でしたっけ。あの人が直也さんにやけにベタベタしているのを見て……ちょっとイラッとしたのも確かです」
玲奈さんの頬がわずかに引きつる。
麻里さんも表情を保とうとしていたけれど、その視線がグラスの中で揺れているのが分かった。
「だから、少し“キツく”やってしまったかも。……あれは半分くらいは本音かな」
口にした瞬間、テーブルの空気がぴたりと凍った。
玲奈さんと麻里さんの顔色が、ほんの一瞬にして青ざめていく。
逆に由佳さんと彩花さんは、面白がるように視線を交わした。
「ねぇ、これ……マズくない?」
「うん、これはちょっとマズいわね」
二人の笑い混じりの囁きが、鋭いナイフのように場を刺した。
私は姿勢を正し、あえて胸の内を言葉に乗せることにした。
「私、女性では珍しいと言われるんですけど……司馬遼太郎の小説が好きなんです。幕末三部作――『竜馬がゆく』『翔ぶが如く』『坂の上の雲』。何度も読んだものです」
グラスの縁に指先を添えながら、ゆっくり続けた。
「幕末から明治にかけて駆け抜けた、あの下級武士や国家官僚たちの高邁な志と、自己犠牲の精神……。ああいう人たちに、自分もなりたいと思って官僚を志したんです。でも、実際の霞が関は――保身の巣窟でした」
小さく息を吐いて、視線を落とした。
「理想と現実の落差に、失望することの方が多かった。……でも」
視線を上げると、そこに直也さんの瞳があった。
「でも、GAIALINQの責任者である直也さんは、違う。五井物産は明治から、既に世界を相手にビジネスを行いつつも、その心は国士そのものと言われていましたが、直也さんを見て本当だなぁと思いました。その精神は霞が関では潰えても、五井物産ではきちんと継承されているのだなぁと」
直也さんをハッキリ見つめなら言う。
「たった二十四歳で、すでに国と世界の未来を思いやり、その責任を果たそうとしている。計算や損得ではなく、高邁なビジョンを真正面から語り、それを強かに実行している。……正直、惹かれているのは事実です」
玲奈さんと麻里さんの表情が、さらに曇るのが見えた。
由佳さんと彩花さんは、視線を交わしながらにやりと笑う。
「ね? やっぱりマズいでしょ」
「完全に、“本音”出てるよね、これ」
私はあえてその声を聞こえないふりをして、微笑みを保った。
「だから――さっきの言葉は、半分は演技。でも、半分は本音かな」
テーブルの空気が、複雑に絡まり合っていく。
玲奈さんと麻里さんの沈黙が痛いほど重く、由佳さんと彩花さんの面白がる視線が軽やかに突き刺さる。
私は胸の奥で小さく息をついた。
――演技と本音。官僚としての私と、一人の女性としての私。
その境界線が、直也さんの前ではどうしても曖昧になる。
……食事も一段落し、会話が少し落ち着いたころ。
私はグラスを指でなぞりながら、ふと思い出したように口を開いた。
「――で、直也さん。先日お願い頂いた“後半の方”ですけれど」
テーブルの視線が一斉にこちらに向く。
玲奈さんも麻里さんも、一瞬きょとんとした顔をしていた。意味が分からないのは当然だ。けれど、直也さんには伝わる。
「省内調整、かなり大変でしたけど……実は未消化になっている予算があるので、なんとか使えそうです。具体化に向けて、打ち合わせ進めましょう」
直也さんの眉がわずかに動いた。
彼の中で瞬時に合点がいったのが伝わってくる。
「……それは。本当にありがとうございます」
胸の奥がじんわりと熱を帯びた。
――守るためにやっているのに、彼に感謝されると、どうしても心が揺らぐ。
「いいえ。でも……」
わざと、少しだけ笑顔を崩す。
「今回、かなり頑張りましたから。……せめて、デートくらいはしてもらわないと」
「え?」
直也さんの声が裏返った。
「はぁ!?」
玲奈さんと麻里さんが同時に声を上げ、空気が一瞬で震えた。
その反応に由佳さんが吹き出す。
「これ、完全にマズいやつだね。私、亜紀さんに怒られちゃうなぁ」
楽しそうに肩を揺らしている。
彩花さんもワインをくるくる回しながら、唇の端を上げた。
「でもさ。今日の協力代も含めれば……直也さん、仕方ないんじゃないの?」
……本気でそう思っている。
いや、少なくとも私は。
スポンサーも後ろ盾もない環境省で、GAIALINQを守るためにここまで踏み込んだ。
ならば、一番シンプルに直也さんを守れるのは――極論するなら、「彼女」というポジションを取ってしまうこと。
霞が関では、建前や理屈で戦うだけじゃ駄目だ。
時に、立場や“物語”そのものが最大の盾になる。
「これは合理的な防衛策」
そう自分に言い聞かせながら、私はワイングラスを静かに口に運んだ。
直也さんの視線が、迷いを含んで揺れていた。
玲奈さんと麻里さんは青ざめた顔で固まり、由佳さんと彩花さんはまるで舞台を観る観客のように楽しげに笑っている。
――やっぱり、これは危うい。
でも、危うさを承知で進むのが、私の選んだ道だ。