第35話:神宮寺麻里
……どういう事なの?
直也と小松原沙織のテーブルに、突然現れた女性――柊遥。
「デートの約束をドタキャンしたクセに」なんて言葉を直也に投げつけている。
その瞬間、胸の奥に大きな痛みが走った。
けれど、私は表情を崩さなかった。――崩せなかった。
ここで取り乱して飛び出しても仕方がない。
直也には恐らく直也だけが分かる深い考えがあっての事なのだろうと、理解しなければならない。
だから――最後までバレないように遠目からこっそり監視しているべきだ。
「直也さん、また別の女性? ……そろそろ私一人に絞るって約束だよね〜♡」
遥が甘えるように言った瞬間、動悸が激しくなった。
思わず声が漏れそうになる。
「もう、やめて!」――そう叫びたかった。
けれど唇を噛みしめ、グラスを持ち上げて口を塞いだ。
横にいる玲奈も同じだ。
ワインを注ぐ仕草は涼しい顔をしているのに、白い指先がわずかに震えていた。
互いに目を合わせることはしない。ただ、グラス越しの視界の端で――同じ感情を共有しているのが分かった。
不思議なことに、テーブルの向こう、沙織の顔色がみるみる悪くなる。
さっきまで直也に余裕たっぷりでボディタッチを仕掛けていた彼女が、完全に硬直していた。
「ふふっ。折角の出会いだし、私の直也さんにちょっかいかけている女性が何者かは把握しておきたいので、名刺交換させてくださいね」
遥の笑顔。
その直後、沙織が絶句した声でつぶやいた。
「……『凍結遥』」
周囲のざわめきが一瞬消えたように感じた。
「私は、環境省の柊遥です。直也さんと、もうすぐお付き合いする予定です♡ よろしくね」
ワインの味が分からなくなった。
私も玲奈も――ただ、氷のように顔を固めて座っていた。
内心はぐちゃぐちゃだった。
いろんな感情すべてが渦を巻いて胸の中で暴れている。
それでも――絶対に顔には出せない。
ここで玲奈と私がいることがバレたら意味がない。
直也には直也の計算があるはずだと、必死に自分に言い聞かせる。
私は深く息を吐き、何もなかったかのようにワイングラスを傾けた。
玲奈も同じく、微笑みを作って前を向く。
――ただの食事客を装って。
けれど心の奥では、声にならない叫びが響き続けていた。
「お願いだから、もうこれ以上私を試さないで」
沙織の顔色がみるみる青ざめていくのが分かった。
そして――ついに口を開いた。
「わ、わたし……帰ります」
掠れた声を残し、バッグを掴んで立ち上がる。
背筋をピンと張っていたけれど、足取りは乱れていた。
そのまま出口へと消えていく。
――さっき言っていた『凍結遥』が効いたという事なのだろう。
私は胸の奥で小さく息を吐いた。
だが、すぐに新しい緊張が走る。
遥が直也に身を寄せ、柔らかい声で囁いたのだ。
「こんな感じで如何でしたか? 直也さん」
――え、グルってこと?
私は思わず椅子を握りしめた。
けれど直也は穏やかに頷き返すだけで、まるで全て想定の範囲だと言わんばかりの落ち着きぶりだった。
――そういうことか。
私たちの知らないところで、直也はもう、この環境省官僚と手を組んでいたようだ。
遥はそのまま奥のテーブルへと歩いて行った。
そこで私はようやく気づいた。
――えっ……!?
遥が向かった先には、二人の女性が座っていた。
街丘由佳と、高瀬彩花。
サンノゼで顔を合わせた、あの二人だ。
彩花はワイングラスを軽く回しながら、楽しげに言った。
「もう行ったみたいだから……そちらのテーブルのお二人も、そろそろこちらにいらっしゃい」
――!?!?
動悸が更に激しくなる。
まさか……バレていたの!?
視線を横にずらすと、玲奈も固まっていた。
私と同じく顔を引きつらせ、グラスを手にしたままフリーズしている。
バレないように見ていたはずの私たちが――完全にバレていた。
直也はきょとんとした表情を浮かべ、こちらを振り返った。
「……なんで、玲奈と麻里がいるんだ?」
その素朴な問いに、思わず頭を抱えたくなる。
彩花は呆れたように肩をすくめ、口元に笑みを浮かべた。
「そういうところが、直也さんって、本当にちょっとねー」
本当にそうだ。
玲奈も私も、顔を真っ赤にして俯くしかなかった。
――完全に敗北。
密かに監視するどころか、逆に全部お見通しだったなんて。
私はグラスを置き、唇を噛んだ。
……結局一番みっともない形で露呈してしまった。