第33話:新堂亜紀
盛岡駅から車で一時間あまり。
ハンドルを握る直美の横で、私は車窓を流れる山並みを見つめていた。
「直也くんも、この道を通りながら、あの構想を考えていたのかな?」
思わず口にすると、直美は「ええ」と小さく頷いた。
「この景色を一人で見ながら考えてたんだと思いますよ。……やっぱりすごい人ですね、あの人は」
胸の奥が、じんわりと熱を帯びた。
――そう。だから私も、負けていられない。
やがて車は、廃業した状態の老舗旅館・加納屋の前に停まった。
玄関から千鶴さんが出迎えてくれる。柔らかい笑顔は健在で、ほっとする。
「まあまあ、ようこそ。遠いところご苦労様です」
靴を脱いで上がると、廊下の奥から駆け足が響いた。
「ママー!」
小さな身体が飛び込んできて、千鶴さんのスカートに抱きつく。
直也くんに随分と懐いていたと聞いている。大地くんだ。
「こんにちは、大地くん」
私はかがみ込み、紙袋をそっと差し出した。
「直也くんから、預かってきたの。大地くんに、って」
袋の中から取り出したのは、精巧な飛行機の模型。
大地くんの目がきらきらと輝いた。
「えっ……これ、パパがくれたの?」
――パパ?
私は瞬間、呼吸が止まった。
「!? ちょ、ちょっと待って大地くん。ど、どういう事、それ……?」
隣で直美が「ふふっ」と小さく笑っている。
千鶴さんは、まるで全てを察しているように優しく目を細めていた。
「直也さんにすっかり懐いてしまってね」
千鶴さんが、柔らかく笑いながら大地の頭を撫でた。
「もう“パパだ、パパだ”というので……」
私は一瞬、目を瞬かせた。
――そういうことだったのね。
直也くんが週末にここへ泊まったとき、大地くんにとっては“理想の父親”に映ったのだろう。
胸の奥に小さなざわめきが残ったけれど、今は切り替えなければならない。
私は姿勢を正し、持参した資料を広げた。
「千鶴さん。今日はお願いがあって参りました」
テーブルの上に置いたのは、GAIALINQ日本JVの簡易計画書。
私は正面に座る千鶴さんに、静かに切り出した。
「まず、既に五井物産内で“福利厚生枠”としての予算は確保できています。ですので、半年以内には施設改修を完了させたいと考えています」
千鶴さんが小さく頷くのを確認して、私は言葉を続けた。
「旅館設備を保養施設仕様に改修し、耐震・消防・浴場衛生の最低基準をクリアする形です。医療施設ではないので、必要な投資は最小限で済む見通しです。改修は五井不動産が懇意にしている業者に依頼し、スピーディーかつ高品質に仕上げるつもりです」
千鶴さんの表情が少し緩んだ。
「プログラムとしては、OB向けの転地療養を考えています。温泉と食事、軽い運動。その運営に、千鶴さんに女将・管理役として再登板していただければ、地域の方々にとっても安心感が高まるはずです」
千鶴さんは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「……私でよろしければ」
私は大きく頷き、さらに最後の点を伝えた。
「そしてAI実証と人材連携を始めます。配膳や清掃、見守りのロボットを社会実証として投入し、補助金も申請する予定です。これで“未来型保養施設”としての付加価値を高めながら、介護人材との新しい連携モデルも模索していけると考えています」
千鶴さんはしばらく考え込み、それから真っすぐに私を見た。
「……分かりました。すべて、納得しました。どうぞ進めてください」
その瞬間、胸の奥で大きな安堵が広がった。
私はそこで一呼吸置き、真剣な眼差しを向けた。
「最後にお願いです。地域の有力者の方々をご紹介いただけませんか。私たちだけで歩いても限界があります。千鶴さんから橋渡しをしていただければ、住民理解を得る大きな一歩になるはずです」
千鶴さんはしばらく沈黙した。大地が隣で模型を抱きしめ、夢中で羽を動かしている。
その光景を見てから、彼女は小さく頷いた。
「……分かりました。私でよければ、お手伝いさせていただきます」
その瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなった。
――直也くん。私は、きっとやり遂げてみせる。