第26話:谷川莉子
キーボードに指を置いたまま、私は深く息を吐いた。
自宅二階のスタジオ。譜面台には、まだ形にならない新曲の断片が散らばっている。
――アーティストとしての活動が、本格的に動き出した。
ラジオ番組も好評で、思っていた以上にリスナーの反響がある。
新譜も評判がよく、「ブルーダイヤモンド」はもう新しい「RICO×NAOYA」の代表曲と呼ばれはじめている。
自分の名前と直也くんの名前が並ぶ――その響きに誇らしさを感じる一方で、胸の奥にはどうしようもない不安も混じっていた。
直也くんは、忙しい。
それでも、少しの空き時間を縫ってスタジオに来て、練習に付き合ってくれる。
GAIALINQのオフィスでも、全ての業務が重なるわけじゃないけれど、同じフロアに居られるようになった。合間に言葉を交わせるのは、以前から考えたら奇跡のようだ。
――でも。
私は、譜面をめくる手を止め、ふと窓の外に視線を向けた。
夕暮れ。街のオレンジの光に染まる歩道を、二つの影が並んでいた。
「あ……」
直也くんと、保奈美ちゃん。
笑い合いながら歩いている。保奈美ちゃんは、当たり前のように直也くんの手を握って――しかも、恋人握りで。
胸の奥に、小さな痛みが走った。
「……ズルいよ」
気づけば声が漏れていた。
私は窓辺に近づき、二人の後ろ姿を見つめる。
直也くんは、また忙しくなりそうな気配だ。
先週だって、金曜日は出張に行ってしまって、土曜日に戻ってきても、日曜日はずっと仕事をしていた――亜紀さんや玲奈さんがそう話していた。
また、倒れないでほしい。
また、あの時みたいに無理をして、突然、倒れて。もうそこから先は保奈美ちゃんに看護され、全く手出しできなくなってしまった。
もうあの家は、保奈美ちゃんのお城になっている。
私は両手を強く握りしめた。
彼の隣に立つ資格を、私は音楽で証明するんだ。
――そう心に言い聞かせても、夕暮れの二人の影が、胸の奥に小さな棘を残していくのだった。
高田さんがマネージメントを担当してくれるようになってから――アーティストとしての「RICO」が、少しずつ形になってきた。
彼女はただのマネージャーじゃない。どんな仕事を取ってくるか、どんな企画は受けないかを冷静に見極め、中長期で私を育てていこうと考えてくれている。
「莉子ちゃん、これは消耗するだけだからやめておこう。その代わりに、こっちを押すわ。あなたの価値を一段上げられるから」
そう言って、タイアップやコラボも吟味してくれる。おかげで私は、無理に駆け回らなくてもいい。その分、作曲や歌に向き合う時間を確保できた。
直也くんも、その方針には大賛成だった。
「短期的な露出で稼ぐより、良質の仕事をつかむほうが絶対いい。長い目で見ればそのほうが正しい」
そう笑ってくれた。
彼は五井物産だけでなく、「五井」の名を持つ大手グループ企業とも関わりを広げている。ときには私と高田さんを連れて、先方の役員や広報担当と会わせてくれる。
その場で、自然に私を紹介してくれるのだ。
「なにせ、RICO×NAOYAで活動してるからな。オレの依怙贔屓とは言われないよ」
そう冗談めかして笑う直也くんに、胸が熱くなる。
本当に、優しい。
ビジネスの現場でも、音楽の現場でも。どんな場でも、私を守り、支えてくれる。
だからこそ――。
こんなに優しい人を、絶対に失うわけにはいかない。
ペンを握る手に、自然と力がこもる。
私はただ「直也の隣にいる女の子」じゃない。
RICOとして、自分の音楽で彼を支えられる存在になるんだ。