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第24話:一ノ瀬保奈美

 加賀谷さんのお宅のキッチン。

 奥様と並んで、手を動かしながら過ごす時間は、本当に楽しかった。


 「保奈美ちゃん、火を止める前にお醤油を少し落としてね」

 「はい!」


 母を亡くしてから半年。

 こうして料理を一緒に作って、いろいろ教えていただける時間は、本当に貴重だ。

 包丁の握り方から、出汁の引き方まで――丁寧に教えてくださる奥様の声が心地よくて、つい笑顔になってしまう。


 リビングの方からは、直也さんと加賀谷さんの低い声が聞こえていた。最初は難しいお話をしていたみたいだけれど、食卓での食事がはじまると、やがて会話の矛先は自然と私の方に向かっていった。


 「保奈美ちゃん、こんなに可愛いと……どなたか男性の方からアプローチが殺到してしまわないのかしら?」

 奥様の声に、私は思わず手を止めてしまった。


 「いえ、そんな事は――そんなに……」

 口ごもった瞬間、加賀谷さんがにやりと笑った。

 「“そんなに”ってことは、少しはあるのかな?」


 「えっ、……そうなの?」

 直也さんの声が、驚きと焦りで一気に高くなった。

 私は思わず頬が熱くなる。


 「お、お手紙を……たまに頂くんです。でも、中身を読まずに……申し訳ないのですが、自宅で全部捨てています」

 正直に答えると、奥様がクスクス笑い、加賀谷さんが「おっと、これは直也くん、心配だなぁ」と楽しそうに声をあげた。


 直也さんはというと、完全に面食らった顔で頭を抱えている。

 「まいったなぁ……女子校だから安心だと思っていたのにな」


 その困ったような表情を見て、私は胸が温かくなった。

 ――だって、本気で心配してくれているのが伝わってきたから。


 奥様と目が合うと、柔らかく微笑んでくださった。

 「大丈夫よ。保奈美ちゃんを見ていたら分かるもの。本当にまっすぐで、すごく誠実な子だから」


 「……ありがとうございます」

 私は小さく頭を下げた。

 それからちらりと直也さんを見やる。


 ――大丈夫。どんなお手紙をもらっても、私の心はひとつだけ。


 「保奈美ちゃんは、まだ高校一年生なんでしょう? 進路はどうされる予定なの?」


 私は一瞬だけ手を止め、それからしっかりと答えた。

 「はい。今は……水道橋女子大の生活科学科を検討しています。いっぱい勉強しないといけませんが……」


 その瞬間、奥様の目がぱっと輝いた。

 「あら、まぁ、本当? ……嬉しい! 私、水道橋女子大の生活科学科の卒業生なのよ」


 両手を合わせて喜ぶ奥様の姿に、私も思わず笑みがこぼれた。

 「そうだったんですか! なんだかご縁を感じます」


 その横で、加賀谷さんが頷きながら穏やかに言った。

 「もう目標が定まっているのか。偉いね。直也くんはどう思っているの?」


 問いかけられた直也さんは、すぐに答えた。

 「保奈美が自由に選べるのが一番良いと思っています。自分で調べて目標にしたので……あとは無理せず、でも頑張ってほしいですね」


 「まぁ、優等生なお義兄さんね」

 奥様が楽しそうに笑う。


 そのとき、加賀谷さんがふといたずらっぽく目を細めた。

 「で、保奈美ちゃん。君の理想とする男性は、どういう人なんだい?」


 迷いなんて、なかった。

 私はすぐに言葉にした。

 「直也さんです」


 「……!」

 直也さんが少し固まるのを、横目でちゃんと見た。


 加賀谷さんは目を丸くして、それから愉快そうに声をあげた。

 「あらら……! お義兄さんみたいな人は、そりゃそうそういないよ、保奈美ちゃん」


 奥様も頷きながら、優しく私を見た。

 「でも、そりゃそうなるわよね。こんな素敵なお義兄さまだったら。……直也さん、それは責任重大ね」


 直也さんは苦笑いを浮かべて、何か言いかけて口を閉じた。

 私はそんな彼を見ながら、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。


  奥様はしばらく私を見つめて、それから小さく微笑んだ。

 「……やっぱりそうなのね」


 その声は、どこか優しくて、どこか懐かしい響きを帯びていた。

 「最初にお会いしたときから思ったの。保奈美ちゃんの目って、とても素直で、でも揺るがないのね。もう心の中に大事な人がいる女性の目だわ」


 頬が熱くなるのを感じた。

 「そ、そんな……」と慌てて口をつぐむけれど、奥様は首を横に振った。


 「いいのよ。隠す必要なんてない。むしろ大切にしたほうがいいわ。若いうちにここまで心から尊敬できて、大切に思える相手に出会えるなんて、そうあることじゃないのだから」


 ――心から尊敬できて、大切に思える相手。

 奥様の言葉に、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。まさに、それが私の直也さんだから。


 奥様はそっと私の手を取って、柔らかく握ってくれた。

 「保奈美ちゃん。頑張ってね」


 まっすぐな瞳でそう言われて、私は小さく頷いた。

 「……はい」


 その瞬間、奥様の温もりとともに、不思議な勇気が胸いっぱいに広がっていった。

 ――きっと、私なら大丈夫。直也さんの隣に立てるように、もっと強く、もっと素敵になろう。


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