第17話:宮本玲奈
会議室の空気は、さっきまでの火花を散らすような応酬の余韻をまだ引きずっていた。
だけど、直也が口を開いた瞬間、その場のざわめきはすっと収まった。
「――視察の結果を、共有させてください」
その声は落ち着いていて、少しも揺れていなかった。
彼が語ったのは、競合商社が数年前に八幡平で開発した『シニアタウン』の実態だった。
「入居費用が高額で、結局は東京や首都圏の富裕層、あるいは伊東注グループのOBばかり。地元の普通の高齢者には手が届かない」
「介護人材は集まらず、待遇も悪く離職率は高い。サービスは低下し、約束された『理想郷』とはほど遠い」
静かに語られる現実。
私は胸の奥がじわりと冷えるのを感じた。
「この実態は、盛岡や八幡平の市民にはすでに知れ渡っています。だから――東京の事業会社が机上で描いた“もっともらしい計画”に対して、拒否反応が非常に強い」
会議室に沈黙が落ちた。
誰もが心当たりがあるのだろう。
資料の上では「先進モデル」と美化されていても、現場が見ているのは“結果”なのだから。
「それに加えて、人口減少のスピードは想像以上です。温泉街は零細化し、シャッター通りが目立ち、地域経済は疲弊しきっている」
直也は続ける。
「この現状を前提にした、地に足のついたプランを提示できなければ、我々の話は全く受け入れられません。理解を得られないまま時間だけが過ぎていく……それが一番のリスクです」
私は思わず息を呑んだ。
――冷静で、誠実で、真っ直ぐ。
怒鳴り合うのは簡単だ。資料をぶつけ合うこともできる。
けれど、直也は違う。
現場で見たことを隠さず、都合よく誇張もせず、そのままの姿を伝える。
その上で、どう進めるべきかを考え続けている。
横目で見ると、慎一さんも腕を組んだまま無言で聞き入っていた。
直美は、勝ち誇ったように微笑んでいる。――あれは自分が一緒に現場を歩いたことへの自負だろう。
そして、亜紀さんは……机の下で拳を固く握りしめていた。
「……」
胸の奥に複雑な熱が広がる。
私は、ただのアシスタントじゃない。
この人の隣に立ち、支え、時には守る――そう覚悟してここにいる。
だけど、いま目の前で語られる直也の姿は、誰もが惹きつけられずにはいられない強さを放っていた。
「――現場を見たからこそ言えることです。机上ではなく、実態に即した提案を積み上げていく。それが、これからの日本JVの役割だと考えています」
その言葉に、会議室の空気が変わった。
重苦しい沈黙ではなく、方向性を共有したあとの静かな緊張感へ。
私は深く息を吐き、ノートに彼の言葉を写した。
――この人の歩みに、私もついていかなきゃならない。
それが、私に課された使命なのだ。
会議室にまだ冷たい緊張が漂っている。
直也の報告を受けて、全員が言葉を飲み込んだそのとき――。
「もう直也くんは、それに対する対案を用意しています」
直美の落ち着いた声が響いた。
私は無意識に顔を上げる。
「週末に私に共有して、すり合わせを済ませました。それは皆さんに共有しないんですか?」
……直也くん。
その呼び方だけで、胸の奥がチリチリと熱くなる。
よりにもよって会議の場で、そんな言い方を堂々とするなんて。
横を見ると、亜紀さんは眉間に皺を寄せ、麻里さんは小さく舌打ちしそうな顔をしていた。
――同じ気持ちなんだ。
だが、当の本人は涼しい顔だった。
「直美さんから説明してもらった方がいいでしょう」
そう言って、直也は迷いなく直美に任せてしまった。
直美は一拍置いてから立ち上がり、手元の資料を軽く揺らして口を開いた。
「少なくとも、松川を中心とするエリアの理解を得るために、向こう一〜二年で取り組み可能なプランです」
会議室のスクリーンに映し出されるスライド。
彼女の声は自信に満ち、まるで自分のプランのように響いていた。
「第一に、社内即決で『福利厚生枠』予算を確保。これは一か月以内に動かさなければなりません。
次に、加納屋の改修。半年以内で耐震・消防・衛生といった最低限の基準をクリアします。
そして、AI実証と人材連携による初期運営を半年から一年でスタートさせる。
一年目の末には利用率や雇用数といった成果数字を出すことが必須です」
言葉を区切るたび、直美の目が鋭く光る。
「そして、岩手での実績をもとに――二年目には秋田へ一気に波及させる」
私は唇を噛み、ノートの端にペンを強く押し付けた。
確かに、理路整然としている。内容も、直也が考えそうなプランだ。
でも。
――どうして、それをあなたが得意げに披露するの?
どうして、週末に二人だけで「すり合わせ」を済ませているの?
胸の奥がざわつく。
理性的であるべき場面だと分かっているのに、感情が抑えきれない。
スクリーンを背にした直美は、満足げに微笑んでいた。
「以上が、直也くんと確認した最速ルートの概要です」
私は視線を逸らした。
――この人、ほんとに“女誑し”だわ。
仕事でも、心でも、みんなをこんなふうに振り回して。
胸の奥に、冷たい炎が小さく灯った。