第15話:佐川直美
「……えっ」
千鶴姐さんの口から語られた一部始終に、私は言葉を失った。
昨夜、露天風呂で二人きり。お酒を酌み交わし、背中を流し……そのうえ「裸のまま肩もみのマッサージ」まで。
「ちょ、ちょっと待ってください千鶴姐さん! 普段あんなに身持ちが固いのに、どうしてそこまで!?」
思わず声を上げる私に、千鶴姐さんは少し赤くなって、困ったように笑った。
「私も……ちょっと試したくなったのよ。エリート商社マンが、どこまで誠実でいられるのか」
その言葉に、胸の奥がざわついた。
――千鶴姐さんが、そこまで“試してみたい”と思わせる人。
それでも直也くんは、理性的でい続けた。
「やっぱり……直也くん“女誑し”伝説って本当だったんだ」
私は呟いて、自分でも苦笑した。
いや、正確には“女誑し”というより、“女が誑かされてしまう”のだが。
でも、これで一つ確かなことがある。
――私は、直也くんの「弱み」を知ってしまった。
あの千鶴姐さんでさえも翻弄された訳だが、同時にその千鶴姐さんの裸身によるマッサージを受けていたという事実。これはなかなかのインパクトだ。
そう思うと、なんだか少し優越感がこみあげてきた。自分に悪魔の尻尾が生えてきたような気がする。東京のSPVで普段直也くんの最側近としてキリッと座っている亜紀さん、玲奈さん、そして麻里さんの顔を思い浮かべて、ほくそ笑んだ。
翌日の日曜の午後。のんびりできると思っていたのだが――。
スマートフォンの通知音がその空気を破った。
差出人:一ノ瀬直也。
件名:【資料共有】
「……え?」
メールを開くと、PDFが添付されている。目を走らせた瞬間、私は息をのんだ。
「もうまとめてるんですか……!」
加納屋をベースにしたミニマムスタートプラン。
福利厚生施設としての試験運用、AI実証との組み合わせ、人材の協働モデル……。
つい昨日まで現場にいたはずなのに、もう頭の中で整理し、形にして送ってきたのだ。
しかも末尾には、小さく一文。
――「短期間での対応と並行して、中長期での『プラチナタウン化構想』を進める」
「プラチナタウン化構想」――。
その四文字が、ずっと胸の奥でざわめいていた。
日曜の午後。窓の外は薄曇り。のんびり過ごしていたはずなのに、資料を読み返す手が止まらない。
気づけばスマホを手に取り、指が勝手に動いていた。
《直也くん。さっきの資料にあった“プラチナタウン化構想”について、もう少し具体的に教えていただけませんか?》
送信したのは午後三時。
普通なら、返事は明日以降でも十分だろう。
――しかし。
五分も経たないうちに、通知音が鳴った。
画面を開いた瞬間、私は息をのんだ。
そこには、もう整理された企画案が送られてきていたのだ。
《プラチナタウン構想=複合プランによって構成》
① 医療・リハビリ観光(外部需要)
・転地療養プログラム:糖尿病・心疾患など慢性疾患を対象に、温泉+食事療法+軽運動を組み合わせた合宿形式。
・リハビリ留学:首都圏や東南アジア・中国富裕層から「療養観光客」を受け入れる。
・参考モデル:ドイツ・バーデンバーデン、韓国の医療観光。
② 高齢者向け施設(地域需要)
・地元高齢者が安心して入れる「一般向け介護・ホスピス施設」。
・地域価格設定により「高嶺の花」にならないよう配慮。
・AIボット・自動配膳ロボ・移動支援機器で人手不足を補完。
③ 五井物産グループ福利厚生(安定需要)
・東京近郊にしかなかった五井物産OB向け福祉団体施設を八幡平にも拡張。
・OB・退職者向け「療養・保養施設」として利用 → 稼働率の安定。
・現役社員や家族も「ワーケーション+温泉療養」で利用可能。
・公式バックアップ → 自治体や金融機関への信頼性担保。
④ 米国型ホスピス構想
・終末期を迎える人が「人としての dignity を守りながら」過ごせる小規模ホスピスを八幡平近隣に併設。
・地域住民・医療従事者・ボランティアが関わる「共生型」の仕組み。
・在宅と医療機関の中間にある“第三の場所”として位置づけ。
・保険・補助制度と組み合わせ、地元の高齢者でも利用可能に。
・外部需要(外国人富裕層)と内部需要(地域高齢者)を橋渡しする「象徴的拠点」として発信する。
⑤ 相乗効果
・医療観光 → 外貨獲得。
・高齢者施設 → 地域の安心(票・雇用)。
・福利厚生施設 → 安定した稼働率。
・ホスピス → 社会的評価・共感の獲得。
→ 四重需要に加えて、「人間の dignity を守る」理念を中心に据えることで、地域の信頼を最大化できる。
私は思わずスマホを握りしめた。
質問を送って、五分。
返ってきたのは、ここまで緻密に整理されたプラン。しかも、直也くんが自らの目で見てきたという米国型のホスピスの理念まで、すでに組み込まれているなんて――。
「……やっぱり彼は『本物』だ」
小さく息を漏らした。
直也くんはやっぱり止まらない。
神速で答えを示し、それでいて理念まで揺るぎない。
日曜の午後。のんびりしていたはずの時間が、一瞬で熱に浮かされていく。
私はもう、このスピードと本気に巻き込まれているのだと――はっきり自覚した。