第14話:一ノ瀬保奈美
玄関のチャイムが鳴るより早く、私はドアの影から飛び出していた。
「直也さん!」
冬用のコート姿が見えた瞬間、足が勝手に動いた。
「ただいまー」
その声に胸がいっぱいになる。私は駆け寄り、その胸に思い切り飛び込んでしまった。
「……おかえりなさい」
直也さんの体温に包まれながら、心の奥がじんわりと温まっていく。
彼の手には小さな紙袋。
「これ、盛岡で見つけたんだ」
差し出されたのは、クロームの精巧な輝きがある、蝶をモチーフにした一点物のデザイナーズブローチ。南部鉄器の技術を用いて精巧な細工が施され、繊細だが、どこか懐かしい温もりを感じさせる。
「わぁ……綺麗」
思わず見惚れる私に、直也さんが少し照れたように笑った。
「職人さんが作ったものだと聞いたよ。気に入ってもらえたら嬉しいなぁ」
「もちろん! じゃあ……この服につけて」
私は制服の襟を軽く指で押さえ、少し身をかがめた。
「えっ、オレが?」
苦笑しながら、ぎこちない手つきでブローチを留めようとする直也さん。普段は誰よりも仕事ができるのに、こういう細やかな作業には不器用で、ちょっともたついている。その真剣な表情が可笑しくて、胸がくすぐったい。
――今だ。
私は身を寄せ、その頬に軽くキスをした。
「っ……!」
直也さんの手が止まり、目がまんまるになる。
「えーとね……それは義妹ちゃん困りますね。素敵なレディには、もっと節度というものを持っていただかないと」
真面目な声色で言うけれど、その耳まで赤く染まっているのを私は見逃さない。
「……あ〜。『義妹ちゃん』はもうルール違反です!」
私は唇を尖らせて抗議した。
「そういうことを言うなら、夕ご飯ナシになりますよ」
直也さんは数秒、言葉に詰まったあとで、観念したように小さく笑った。
「……参ったな。保奈美。ご飯をよろしく」
勝ち誇ったように私は微笑む。
――直也さんは、どんな理屈も大義名分も、私が言えば、もうコンマ数秒で降伏してくれる。
それは、私にとって世界で一番の幸せの証だった。
夕食の食卓に、湯気の立つお味噌汁と、煮魚、ほうれん草のおひたし。
直也さんの帰宅に合わせて、できる限り丁寧に並べた。
「いただきます」
向かい合って箸を持つ瞬間、胸の奥がじんわり温かくなる。――こうして一緒に食べるのは、私にとって一日のご褒美みたいなものだ。
「八幡平は、やっぱり寒かったよ。もう雪景色で……夜は風も強かった」
直也さんがぽつりと話し始める。
私は「へぇ……」と相槌を打ちながら、耳を澄ませた。
「泊まったのは、偶然声をかけてもらった廃業した旅館でね。施設自体はまだきれいで、温泉も残ってたんだ」
「旅館……?」
意外な響きに首をかしげる。
「でも、その旅館も、人手不足やお客さんの減少で続けられなくなったって。街全体がそうなんだ。シャッター通りばかりで、観光だけじゃどうにもならなくなってる。人口が減って、高齢化が進んで……正直、厳しい状況だよ」
直也さんの声は静かだった。でも、食卓の上に落ちるその言葉は、重かった。
私は箸を置き、まっすぐに見つめた。
――そんな現実を、直也さんは自分の目で見てきたんだ。
少し間を置いて、口が自然に動いた。
「……でも、なんで昨日はお酒をそんなに飲んだの?」
直也さんは苦笑し、肩をすくめた。
「泊めてくれた方にすすめられて、ついね。あんまり断るのも失礼だと思って」
「ふふっ……そうなんだ」
そう答えながら、心の奥で少しホッとする。――やっぱり、そういう人だ。誠実で、誰かの気持ちを無下にしない。
箸を取り直し、湯気の向こうに目を細めて言った。
「……でもね。昨日の夜中、電話をくれてすごく嬉しかった」
直也さんが少し照れたように視線を落とす。
「そうか……良かった」
「うん。『声が聞きたくなった』って言ってくれて……私、それだけで一晩中幸せだったんだよ」
言葉にしたら、胸がぽかぽかと熱くなって、恥ずかしくなった。
けれど、直也さんの苦笑混じりの優しい表情を見たら――言ってよかった、って思えた。
食卓に並ぶ温かい料理よりも、もっと温かなものが、この部屋にはあった。