第12話:加納千鶴
――まさか、うちの加納屋が直也さんの「プラン」の中に出てくるなんて。
耳を疑った。けれど、彼の口から出た言葉は紛れもなく本気だった。
「もし少しでも利用価値があると思っていただけるなら……ぜひ! もう、なんでも協力します」
思わず身を乗り出していた。胸の奥からこみ上げてくる嬉しさに、頬が熱くなるのがわかる。
直也さんは、いつもの落ち着いた声で答えた。
「まだ考えるべきことは多いですが……あの旅館をこのまま朽ち果てさせるのは、あまりにももったいないと思いました。検討させていただきたいと思います」
――その一言が、どれだけ嬉しかったか。
廃業を決めた時に、あの建物はもうただの「過去」だと思った。けれど今、彼の言葉で未来に接続された。
気づけば、またあのイタズラ心が頭をもたげていた。
「そんな、他人行儀なこと言わないでくださいよ、直也さん。昨日の夜は、二人きりで裸でお酒を飲んで、マッサージまでして差し上げた関係なのに」
「はぁーーーー!?!?!?」
直ちゃんの声が喫茶店に響き渡った。目を見開き、顔を真っ赤にしている。
当の本人――直也さんも、慌てて手を振った。
「ち、ちょっと千鶴さん! 困りますよ、そういうことを言われると……!」
耳まで赤く染まっている姿が、なんとも誠実で、可笑しくて。
私はにやりと笑って、さらに畳みかけた。
「ふふっ……じゃあ、“千鶴”って呼んでくれるなら、これ以上は直ちゃんに何も言わないでおきますよ〜」
「いや、えーと……さすがにそれはどうですかねぇ……」
普段の堂々とした姿からは想像できないほど、しどろもどろになっている。
その様子に、直ちゃんまで堪えきれずに吹き出した。
「ぷっ……もう、二人とも……!」
笑い声が重なり合い、喫茶店のテーブルに小さな温もりが広がっていく。
――ああ、この人たちとなら。
未来を信じてもいいかもしれない。そう思えた瞬間だった。
※※※
盛岡駅のホームに立つと、冷たい風が頬を刺した。
吐く息は白く、冬がもうすぐそこまで来ているのを感じさせる。
直也さんのキャリーケースを押す背中を見送りながら、大地が私の手をぎゅっと握ってきた。
「……パパ、帰っちゃうの?」
小さな声が震えている。
直也さんはしゃがみ込み、大地の目線に合わせる。
そして、優しく頭を撫でた。
「また近いうちに来るから。元気でいて、お母さんを助けるんだぞ」
「……うん!」
大地の声は、涙でかすれていたけれど、それでも力強かった。
その様子を横で見ていて、胸がじんと熱くなった。
大地にとって、もう彼は「父親」だった。たった数日の出会いで、こんなにも人の心を掴んでしまうなんて――やっぱりこの人は特別なんだ。
新幹線のドアが開く直前、直也さんは振り返り、直ちゃんに真剣な声で言った。
「帰りの新幹線でもう少しプランをブレイクダウンしてみます。来週頭には、一旦メールで直美さんに送ります。通常の日本JVの仕事と別になってしまって申し訳ないけど……意見をください」
直ちゃんは一瞬目を見開き、それから慌ててうなずいた。
「いつでも遠慮なく連絡してください! 本当に……いつでも!」
――この人には、週末も何もないんだ。
目の前で誠実に言葉を重ねる直也さんを見て、直ちゃんの表情には驚きと、感動が入り混じっていた。
そして最後に、直也さんは私たち三人を見渡し、柔らかく手を振った。
「じゃあ……行ってきます」
「はい……」
思わず声が重なる。
ドアが閉まり、新幹線が滑り出す。
その姿が遠ざかっていくのを見つめながら、私はふと自分の胸に問いかけた。
――本当に、また来てくれるのだろうか。
そして、その時、この街はどんな未来を描き始めているのだろう。
大地が小さな手を振り続ける。
その隣で、直ちゃんも真っ直ぐな瞳でホームの先を見つめていた。
白い息が空に溶け、私たち三人だけが取り残される。
――けれど、不思議と寂しくはなかった。
むしろ心に灯った温もりが、まだ胸の奥に燃えていたから。