第11話:佐川直美
テーブルに置いた『ニューズデイズ』の表紙を、私はもう一度見下ろした。
――「神速」。記事にそう書かれていた直也くんの仕事ぶり。
でも、実際にこうして会話を重ねてみると、それは誇張なんかじゃなく、本当なんだとわかる。
現場の交渉がなぜ進まないのか――直也くんは、まるでそこにずっといたかのように的確に言い当てた。
もともとの過疎化の進行。温泉街の旅館が零細化して、人も金も足りなくなっていること。観光業に依存し続けることの限界。
さらに――「シニアタウン岩手山」。理想と現実の乖離が決定的に、地元の人たちに「東京の大企業の机上の空論なんて信用できない」という不信を植え付けてしまっている。
それこそが、岩手側の停滞の一番の原因。秋田の玉川温泉や後生掛温泉と比べても、あまりにも差が出てしまっている理由だ。
「これまで、東京や海外での対応に追われて……例のフェリシテ問題もあって。なかなか現場に来れず、本当に申し訳ありません」
直也くんが、深く頭を下げる。
思わず、慌てて声が出た。
「い、いえっ! そんな、とんでもないです」
――この人は、本当に誠実で理知的な人なんだ。
心の底からそう思った。記事で読むだけでは伝わらない「本物の重み」が、目の前にあった。
そのときだった。隣でコーヒーを口にしていた千鶴姐さんが、ふっと笑みを浮かべた。
「直也さんはね、本当に誠実で理性的な方なのよ。昨日なんて、酔った勢いで私と旅館の露天風呂で混浴になっても――全裸になった私に、結局何もしなかったんだから」
……ぶっ。
私は思わず、カップを取り落としそうになった。
「ちょっ、千鶴姐さん! 何してるんですかっ!」
慌てて声を荒げてしまう。
視線を横にやれば、直也くんは苦笑いを浮かべながら頭をかいていた。
「その件は……ぜひオフレコでお願いします」
そう言う姿がまた、ずるいくらい自然で。
つい私も、ジト目を向けながらも笑ってしまった。
――悪い男だなぁ。
もちろん、いい意味で。
「……これは、まだジャストアイデアの段階なんだけど」
直也くんは、湯気の立つコーヒーカップを指で軽く回しながら、少し声を落とした。
――加納屋を活用するミニマムスタートプラン。
その内容を、彼は淡々と語ってくれた。
1.五井物産OB向け福利厚生施設の試験運用拠点
「まずは加納屋をリニューアルして、小規模な療養・保養施設として稼働させる。現役社員やOBが週末滞在しながら温泉療養できる形にすれば、初期投資は最小限で済む。稼働率も読みやすいし、地元にいきなり大きな負担をかけなくて済む」
2.地元介護士・調理スタッフとの連携
「千鶴さんを中心に、まだ残っている地元人材と連携する。足りない部分は、五井物産のAI実証――配膳ボットや清掃ロボで補う。『AIと人間の協働モデル』を試す舞台に最適だと思う」
3.医療リハビリ観光との接続
「加納屋を拠点に、“転地療養プログラム”を小規模で始める。医師や管理栄養士は、本社の医療関連OBネットワークで確保できる。まずは週単位の“お試し滞在”から始めて、徐々に拡張するんだ」
4.段階的なプラチナタウン化
「最初は加納屋と周辺の旅館数軒でネットワークを組む。成果が出たら、八幡平市や県と連携して松川温泉全体へ波及させる。“加納屋モデル”が、地元を説得する実例になると思う」
聞き終えて、私は息をのんでいた。
……これ、本当に「ジャストアイデア」なんですか?
普通なら、これだけで別プロジェクトを立ち上げてもおかしくない。
けれど直也くんは、カップを口に運びながら苦笑した。
「本来ならそうなんだろうけど……オレがCOOをやっているGAIALINQの中で、押し切ってしまうのが一番現実的な気がしてる」
視線は真っ直ぐで、冗談の影はひとつもなかった。
「もちろん、もっとブレイクダウンして検討しなきゃならない。今オフィシャルにすれば騒ぎになるだけだし、まずはオレ自身で整理してみるよ。その上で――現場をよく知る人間として、直美さんにサポートしてほしい」
私は返す言葉を失った。
机の上に広げられたメモよりも、その瞳の強さの方が、胸に深く迫ってきたからだ。
これが「本物の仕事」なんだ。
記事や肩書きではなく――現場を直視して、理想と現実をどうつなぐのかを考え抜く姿。
胸の奥が熱くなる。
「……はい。ぜひ、やらせてください」
気づけば私は、かすかに震える声で答えていた。
窓の外では、雪が細かく降り出していた。
けれどその時、私の心には確かな熱が宿っていた。