第10話:一ノ瀬直也
朝、障子越しの光が雪に反射して眩しい。
座敷に降りると、焼き鮭と山菜、温泉卵――素朴だけど丁寧な朝食が並んでいた。
千鶴さんが膝をつき、頭を下げる。
「昨日は……お酒が入ってしまって、少しイタズラが過ぎてしまいました。ごめんなさい」
オレは逆に慌てて頭を下げた。
「いえ、こちらこそ。たくさんお酌をしていただいて……すみません」
千鶴さんは目を伏せて、柔らかく笑う。
「あんなこと、他の人には絶対しませんから。誤解しないでくださいね」
「もちろん、誤解なんてしてません」
そのやり取りを遮るように、小さな声が飛んだ。
「パパー!」
大地くんが勢いよく駆けてきて、オレの膝にしがみついた。
「お、おい……」
思わず苦笑いする。もうすっかり懐いてしまったらしい。
千鶴さんは頬を赤らめ、「もう、大地ったら……」とたしなめるが、嬉しさを隠しきれていない。
「……今日は私も休みなので」
千鶴さんが箸を置いて言った。
「せっかくですし、周辺を少しご案内します。大地も一緒に」
「やったー!」
大地くんが飛び跳ねる。オレは自然と笑みがこぼれた。
食後、車に乗り込み、雪の残る山道を登った。
最初に案内されたのは藤七温泉。標高1,400メートル、東北で最も高所の温泉だ。露天風呂の縁には雪が積もり、遠くには岩肌と雲海が広がっている。
「夏は星空がすごいんですよ」
千鶴さんの言葉に、オレは息を呑んだ。ここで夜空を見上げれば、忘れられない光景になるだろう。
続いてふけの湯。地熱で立ち上る蒸気が、山の斜面を白く覆っている。
「子どもの頃、ここに来ると“地獄谷だ”って怖がったんです」
千鶴さんが笑うと、大地くんも「ママ、こわーい!」とふざけてしがみつく。
その二人を見ながら、オレは胸の奥に温かさを覚えた。
――守りたいと思わせる人たち。
この親子のように暮らす人々の生活を支えることこそ、この地でプロジェクトを進める意味なんだろう。
正午を回り、八幡平市内の食堂に入った。
味噌ラーメンと山菜そばを頼み、湯気の向こうで笑い合う千鶴さんと大地くんを見ていると、不思議な心地がする。
ほんの一泊二日の出会い。
けれど、この親子と過ごす時間は、オレにとって大きな学びになりつつあった。
喫茶店のテーブルに携帯を置き、少し逡巡したあとで佐川直美に電話をかけた。
「土曜日なのにごめんね。……ちょっとだけ、話がしたいんだ」
数秒の沈黙の後、驚いたような声が返ってくる。
「COO……? どうしたんですか?」
「実は今、八幡平に来ているんだ」
「えっ……!?」
声が裏返った。すぐに気配を立て直す。
「わ、分かりました。すぐ行きます!」
数十分後。八幡平市の古い喫茶店。
ドアベルが鳴り、慌てた様子の直美が入ってきた。
「COO!」
オレは苦笑しながら手を上げて制した。
「そんな大仰な言い方しなくていいです。ここでは肩書きも要らない。……直也、と呼んでください」
直美は一瞬戸惑ったが、やがて頬を赤らめて小さくうなずいた。
「……わかりました。じゃあ……直也くん」
その響きが妙に新鮮で、オレは思わず微笑んでしまった。
だがその瞬間、千鶴さんが椅子から立ち上がり、驚きに目を見開いた。
「直ちゃん……?」
「千鶴姐さん!?」
二人が声を重ねた。
互いに目を丸くし、すぐに笑い合う。
「……顔なじみだったのか」
思わずつぶやいたオレに、千鶴さんが肩をすくめた。
「この辺は人口も少ないですからね。子どもの頃からの顔見知りなんです」
オレは苦笑しつつも、すぐに話を本題へと切り替えた。
「観光依存は限界だと思う。道路や下水といった社会資本も劣化している。そういう中で、街全体をどう再生させるかに対する答えを、総合商社として提示できなければ、何を言っても地元の人には信頼されない」
千鶴さんが真剣な顔でうなずき、直美も静かに息をのむ。
「それに――シニアタウンが有名無実化しているのも、余計に商社全体への信頼を損なっている。だからこそ、全く違うアプローチが必要だと思う」
言い終えて顔を上げると、直美が真っ直ぐこちらを見ていた。
その瞳に浮かぶのは驚きではなく、確信。
「……COO。いえ、直也くん。正直言えば、少し見損なっていました。直也くんは『本物』の総合商社マンのあるべき姿だと思います」
彼女は鞄から雑誌を取り出し、机の上に置いた。
『ニューズデイズ』。例の特集号。
「今更だと思いますが……サイン、いただけますか?」
思わずオレは固まった。
「え? いや、オレのサインなんか欲しいの?」
「お願いします」
珍しく頑なな直美の声。
仕方なくペンをとり、雑誌の表紙――自分の顔の下に署名を入れる。
「……ありがとうございます」
横で千鶴さんと大地が目を丸くしていた。
「え、サインなんてする人だったんですか?」
「ママ、パパってすごい人なんだね!」
喫茶店の空気が一瞬で固まる。
「……パ、パパ!?」
直美が目を見開き、素っ頓狂な声を上げた。
千鶴さんは慌てて大地の肩を押さえつけ、赤面してうつむいた。
「こら、大地! ……ごめんなさい、すっかり懐いちゃって」
オレは苦笑いを浮かべながら、大地の頭をぽんぽんと撫でた。
「参ったな……」
オレは苦笑しながら、サイン入りの雑誌を直美に返した。
――「本物」という言葉が、胸に少し重く響いていた。