第9話:一ノ瀬保奈美
夜、一人のリビング。
机の上には広げた参考書とノート。自分の鉛筆の先が走る音が響く。
――もう、これが習慣になっていた。
直也さんがいる時は、いつもリビングで並んで過ごす。
直也さんはノートPCを開いて仕事をし、私はその横で勉強をする。
クラシック音楽が小さく流れていて、ページをめくるたびに不思議と集中できた。
正直、最初はクラシック音楽に興味はなかった。
でも直也さんはクラシック音楽が好きだ。
直也さんが好きなものを私も好きになりたくなった。だから、直也さんのCD棚のコレクションを見て、少しずつ手に取るようになった。
ベートーヴェン
マーラー
チャイコフスキー
――意外と悪くない。むしろ夜の静けさにしっとり溶け込んで、心が落ち着く。
ひとりの夜も、今ではクラシックをBGMにして勉強するのが当たり前になっていた。
ノートに線を引いていた時、不意にスマホが震えた。
画面に「直也さん」の名前が浮かんでいる。
心臓がドキドキする。
「直也さん! どうしたの?」
声が少し弾んでしまう。
「いや、その……保奈美の声がちょっと聞きたくなってね」
受話口から低い声が聞こえる。
思わず顔が熱くなった。
「本当!……嬉しい。でも、何かあったの?」
「いや、ちょっとお酒飲みすぎただけだよ」
「大丈夫?」
「うん。大丈夫だ。……保奈美の方は大丈夫かな?」
「ええ。大丈夫。ちゃんと戸締まりしているから、安心してください」
「……ああ。そうか。それなら安心だ」
少し間をおいてから、直也さんが言った。
「明日は八幡平周辺を視察して、できるだけ早く帰るよ」
「うん。早く帰ってきてね」
「そうする。夕食は家で食べるから、よろしくね」
「はい。じゃあ、愛情たっぷりで料理しますね」
電話口の向こうで小さく笑う気配がした。
「うん。……じゃあ、おやすみ」
「はい。あの……愛してる」
直也さんは苦笑したまま、何も言わずに電話を切った。
「……本気で言ってるんだけどなー」
小さく口を尖らせる。
けれど、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
――夜寝る前に、「声が聞きたくて」電話してくれた。
それだけで十分。嬉しくて仕方がなかった。
机の上のノートを閉じて、灯りを落とす。
静かな部屋に、クラシックの旋律だけが流れ続けていた。