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第8話:加納千鶴

 ――どこまで紳士でいられるのか、見てみたい。

 そんな悪戯心だった。


 けれど、直也さんは本当に理性的だった。

 背中を流しながら、わざと石鹸のついた手をすべらせても、ほんの一瞬呼吸を乱すだけで、すぐに落ち着いた声でお礼を言う。

 ……逆に、こっちの理性の方が揺らいでしまいそうになる。


 「もう一度、露天風呂に戻りましょう」

 そう声をかけたのは、私自身を落ち着けるためでもあった。


 夜気にさらされた湯面が白くゆらぎ、雪の残る庭から冷たい風が吹き込む。

 再びお湯に肩まで浸かりながら、胸の奥で「もういいか」という気分が膨らんでいった。


 気づけば、タオルを外していた。

 解放感と、少しの挑発心。

 直也さんは目を見張り、慌てて背を向けた。


 「ふふっ……そんなに気を遣わなくても」

 私は肩まで湯に沈み込み、軽やかに声をかけた。

 「じゃあ――肩もみ、させてくださいね」


 背後からそっと手を置く。

 湯に濡れた肌が触れ合い、直也さんの肩越しに鼓動が伝わってきた。

 ――だめ、これ以上は。

 そう思うのに、指先は勝手に動いていた。


 「……あ、もう……ありがとうございます」

 直也さんの声が強張る。

 「そろそろ……のぼせてきたので、出ます」


 そのまま、まるで逃げるように立ち上がり、湯から上がっていった。


 私は、湯気の中で小さく笑った。

 「……ほんと、誠実な人」


 けれど、胸の奥は妙に熱かった。

 試したつもりが、試されていたのは自分の方だったのかもしれない。


 逃げるように脱衣所へ向かう直也さんの背中を、私は湯気の中で目で追った。

 思わず、ふっと息を吐き出す。


 ――やっぱり、この人は誠実だ。

 少し悪戯心で試してみたのに、最後まで理性的なままだった。

 東京の大手商社で最前線に立つ人は、こういうものなのかもしれない。


 胸の奥に、なぜだか安堵が広がっていく。

 怖いほどの色気を漂わせても、揺らがない芯。

 その姿に触れて、逆に私の方が救われた気がした。


 ……私の元の夫は、真逆だった。

 普段は黙っていても、酒が入ると暴力的に豹変した。

 手が飛ぶのは当たり前、時にはまだ小さかった大地にまで怒声を浴びせ、手を上げることさえあった。

 守らなきゃ――その一心で、私は離婚を決めた。


 実家に戻り、女将として母の跡を継いだ。

 畳を替え、浴場を磨き、板場に立ち。

 必死で続けようとしたけれど……世の流れには逆らえなかった。

 観光客は減り、人手は集まらず、集客に奔走しても効果は薄い。

 結局、のれんを下ろすしかなかった。


 あの時の寂しさは、今でも胸に残っている。

 代々続いた宿を絶やす――それは女将としてだけじゃなく、娘としての自分にとっても苦渋の決断だった。


 だからこそ、直也さんに惹かれるのかもしれない。

 誠実さと理性を持ちながら、未来を変えようとしている人。

 ――この人なら、何かを変えてくれるんじゃないか。

 そんな身勝手な期待が、心の奥に芽生えていた。


 お湯に沈んだ肩を抱き寄せるように、自分で自分を抱きしめた。

 「……一ノ瀬直也さん、か」

 名前を小さく口の中で転がす。


 湯の温かさとは別に、胸の奥でほんのりとした熱が広がっていた。


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