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第7話:一ノ瀬直也

 頬がわずかに火照っているのを感じた。


 美味しい地酒を、美人女将だった千鶴さんにお酌してもらったせいだろう。普段なら酒に飲まれることはない。だが、仕事続きで蓄積した疲労も重なり、心地よい酔いが全身を包んでいた。


 「折角ですから、露天風呂も楽しんでいってください」

 千鶴さんにそう勧められ、タオルと石鹸、シャンプーを手渡された。


 脱衣場で服を脱ぎ、屋内の洗い場で丁寧に体を洗う。石鹸の香りが立ちのぼり、背筋に冷たい空気が流れ込む。


 湯気の向こうに開けた木の扉を押すと、夜の露天風呂が広がっていた。

 湯に足を浸した瞬間、雪をかぶった八幡平の冷気と、熱を帯びた温泉の対比に思わず声が漏れる。

 「……これは、いい」


 肩まで沈め、背もたれに寄りかかる。

 頬に雪の粒が落ちる。だがすぐに湯の熱で溶け、流れていった。

 温泉の熱が酒をさらに巡らせるが、頭から上は外気で冷やされるので、妙に気持ちが良い。


 「ふぅ……」

 目を閉じると、仕事の緊張がほどけていく。久しぶりに、ただ人間として息をつける時間だった。


 ――その時。


 「ふふっ。お気に召しましたか?」


 耳に届いた女の声に、思わず目を開いた。

 そこには、信じられない光景があった。


 湯けむりを割って入ってくる人影。

 タオルを一枚だけ巻いた千鶴さんが、柔らかな笑みを浮かべて立っていた。


 「……っ!」

 言葉が喉に詰まる。


 雪景色の白さと、湯けむりの薄靄の中に、タオル一枚の女性がいる。

 その非現実的な光景に、心臓が跳ね上がった。


 「え、ちょ、千鶴さん……!?」

 思わず声が裏返る。


 「あれ?言っていませんでしたっけ。ここはもともと混浴露天風呂なんですよ」

 悪戯っぽい笑みを浮かべながら、千鶴さんは湯に足を沈める。

 お湯が波紋を立て、こちらの方へ押し寄せてきた。


 ――まずい。これは非常にまずい。

 理性の声が警鐘を鳴らす。


 だが、雪の夜、温泉、そしてほろ酔いの意識。

 どれもが、理性をほんの少し緩ませていく。


 「実は……熱燗を持ってきたんです。一緒にもう少し、お付き合いください」

 千鶴さんが湯けむりの中で笑った。


 「……さすがに、それは……」

 断ろうとした言葉は喉で溶けた。

 湯桶の中に小さな徳利とお猪口を置き、彼女は自然な仕草でこちらに近づいてくる。


 タオルを巻いているとはいえ、お湯に沈めば透けてしまう。

 私自身もタオル一枚。お互い様とはいえ、気まずさが胸を締めつける。


 「はい、どうぞ」

 千鶴さんがお猪口に注ぎ、差し出してくる。

 雪景色の下、こんな美人にお酌されるなんて……落ち着けるはずがない。


 口をつけると、熱燗の香りが一気に喉を下りていった。

 「……旨いですね」

 「直也さん、すごくお酒お強いですね。商社の方って、みんなそうなんですか?」


 私は苦笑しながら答えた。

 「いえ、体質的なものだと思います。父も酒に強かったので、そのせいかと」


 千鶴さんは頷き、そして少しイタズラっぽく笑った。

 「じゃあ……折角ですから、お背中流させてください。元女将のサービスです♡」


 ――これは断れない。

 彼女の声音に冗談めいた軽さが混じっているからこそ、拒否するのも野暮に思えてしまった。


 屋内の洗い場に移り、腰を下ろす。

 「失礼しますね」

 タオルでゴシゴシと背中を擦られる。力加減が絶妙で、心地よい。


 だが、そのうち……。

 「直也さんって、本当にすごい筋肉質なのね」

 石鹸を泡立てた彼女の手が、マッサージするように背中をなぞっていく。

 熱燗で火照った身体に、柔らかな感触が重なり、思わず呼吸が乱れそうになる。


 ――いけない。


 その瞬間、心の中に保奈美の笑顔が浮かんだ。

 澄んだ瞳で「直也さん」と呼ぶ声。

 真剣に勉強に向き合い、幼さを残しながらも大人に近づこうとしている姿。


 ――オレには、あの子を守る責任がある。


 強く心に刻む。

 理性を、何とか保つ。


 「……ありがとうございます。本当に気持ちいいですね」

 なるべく平静を装い、そう言った。


 千鶴さんは「ふふ」と微笑んで、手を止める。

 その笑みには、悪戯心と、どこか寂しさが混じっていた。


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