第6話:加納千鶴
久しぶりに台所に立ちながら、私は少し浮き立つ気持ちを抑えられなかった。
――お客さんを迎えるなんて、何年ぶりだろう。
母は「まあまあ、よかったなぁ千鶴」と上機嫌で、父も「腕が鳴るな」と張り切っている。旅館を閉めてからは、こうして誰かを泊めることもなくなっていたのだから、無理もない。
台所の奥から聞こえてくるのは、大地の笑い声。
ちらりと覗けば、直也さんが真剣な顔で積み木を並べている。大地は横で「ちがうちがう、そこじゃない!」と大騒ぎだ。やがて崩れて二人で大笑い。
あんなふうに大地が声を上げて笑うのを、久しぶりに見た気がした。
「ねぇ、パパになってよ!」
不意に大地の声が響いて、私は思わず手を止めた。
「こらっ、大地!」
慌てて叱ろうとしたが、直也さんは苦笑いを浮かべて、大地の頭をやさしく撫でた。
「はは……おにいちゃんは普段は東京でお仕事があるからね。それは難しいんだよ」
その穏やかな声に、大地は照れたように笑い、また積み木に夢中になった。
胸の奥が、少しだけ熱くなる。――やっぱり、この人はただのエリートじゃない。
「すみません、本当に。料理とかまるでできなくて……」
そう言いながらも、直也さんはお皿を出したり、箸を揃えたり、鍋の具材を運んだりと、細かいことをよく気づいて手伝ってくれる。
「そんなことないです。十分助かってますよ」
私は笑って返しながら、内心で妙な安心感を覚えていた。
やがて食卓には、ぐつぐつと音を立てる大きな土鍋が置かれた。
「今日は《くずまき鍋》にしました」
私は菜箸を取りながら説明する。
「葛巻町の平打ち麺“ひぼがはっと”を入れるんです。地元じゃ冬の定番で」
蓋を開けると、湯気とともに甘い出汁の香りが広がる。野菜と鶏肉、きのこに絡むつややかな麺。
「……うまそうだな」
直也さんの目が、少年のように輝いた。
「どうぞ」
取り分けると、彼は箸を手に取り、一口すすると――
「……美味しい!」
思わず声を上げ、顔をほころばせた。
「よかった……」
その反応に、胸の奥までじんわり温かくなる。料理を褒められるのは、いつになっても嬉しい。
父が徳利を手にして、「せっかくだから地酒を」と勧めると、直也さんは「ぜひ」と受け取った。
盃を口に運び、「……これも旨いですね」と笑う。その素直な顔に、母まで「もっとどうぞ」と張り切り始める。
「少しだけお付き合いしますね」
私も杯を手に取り、直也さんと向き合って乾杯した。
鍋の湯気、地酒の香り、家族の笑い声。
廃業したはずの旅館に、ほんのひととき、かつての温もりが戻ってきた気がした。
大地は遊び疲れたのか、いつの間にか直也さんの膝の上に頭を乗せて眠っていた。
小さな胸が上下するたび、すやすやと安らかな寝息が聞こえてくる。
「……すっかり慣れちゃいましたね」
私が苦笑すると、直也さんは少し困ったような笑顔を浮かべた。
「いやぁ、子どもと遊ぶのは本当に久しぶりで。嬉しいですけど、膝がしびれてきそうです」
「ふふ……少しの辛抱です」
私は徳利を手に取り、彼の盃にそっと酒を注いだ。
湯気と木の香りに包まれた居間で、久しぶりに「女将」としての所作を思い出す。
「……実家を畳んだのは、人手不足が一番の理由でした」
私はぽつりと口を開いた。
「でも、それだけじゃないんです。周りの温泉街も同じ。若い人はみんな盛岡まで働きに出てしまって……。こっちに残る仕事は限られていて、旅館業は零細化する一方でした」
盃の中で揺れる酒を見つめる。
「インバウンドのお客さんだって、この辺までは来ません。観光地と呼べるほどの集客力もない。だから――続けていけなかったんです」
静かに語る私の横で、大地が寝返りを打ち、直也さんの腕にぎゅっとしがみついた。
「……パパ」
寝言のようにそう呟く声が聞こえて、胸が詰まった。
直也さんは苦笑して、大地の髪をそっと撫でる。
「……可愛いですね」
その横顔が、妙に優しくて、頼もしくて。心が揺らいだ。
私は気を紛らわせるように盃を傾け、少し声を明るくした。
「でも、温泉だけはまだ残ってるんです。源泉は健在で、お風呂場も掃除を欠かしていませんから」
「へえ……」
直也さんの目が少し輝く。
「せっかくですから、ぜひ入っていってください。……ここの自慢なんですよ」
口にしてから、少しだけ胸がざわめいた。
――イケメンのエリート商社マンが、うちの温泉に入るなんて。
普段なら絶対考えないようなことが、頭をかすめてしまう。
「……ちょっと、イタズラしてみようかしら」
心の中でひとりごちて、私は小さく笑った。