エピローグ4:谷川莉子
――白い息が、空に溶けていく。
松尾鉱山住宅跡地。
かつて「雲上の楽園」と呼ばれた場所は、冬の静寂に包まれていた。
見渡す限りの雪と草原。その奥に並ぶ無人のコンクリート群は、まるで遠い時代の夢の残響のようだった。
撮影スタッフがセッティングを急ぐ音だけが響いている。
冷たい風が吹き抜け、カシミヤのマフラーの端を揺らした。
私は手袋を外し、左手の薬指をそっと見つめる。
そこには、小さくも確かな光。
――ブルガリのリング。
先月、直也くんに渋谷でのデートの際に買ってもらったものだ。
あの日、無理を言って一日だけ時間をもらった。
忙しいスケジュールの合間を縫って、ようやく会えた休日。
「クリスマスプレゼント、何が欲しい?」と聞かれたとき、
私は迷わず「リングが欲しいな」と答えた。
その理由は――もちろん、言わなかった。
保奈美ちゃんの指に光っていた、小さなリングを見逃していなかったから。
あのときの光が、心の奥でずっとちらついていた。
言葉にするのも馬鹿げている。
でも、あの光を見た瞬間に、私の中の“何か”が静かに疼いた。
直也くんは少しだけため息をついて、
「……分かった」とだけ言った。
その短い言葉の裏に、たぶんいろんな想いがあったのだと思う。
渋谷のブルガリの店内で、私は随分と悩んだ。
ショーケースに反射するライトが、氷の粒みたいに冷たくきらめく。
「これがいいな」と言って指を差したとき、
彼は少し照れくさそうに笑って、そのまま私の左手を取った。
――温かい手だった。
「つけて」と言う私に、彼は無言で頷き、
ゆっくりとリングをはめてくれた。
その瞬間、胸の奥がきゅっと鳴った。
それは嬉しさだけじゃない。
今この一瞬、奪い返したような――そんな感情だった。
「……似合ってるよ」
そう言ってくれた声が、いまも指輪越しに蘇る。
私はその指を見つめながら、小さく息を吐いた。
(――このリング自体には、たぶん意味なんかない。でも、買ってくれた直也くんの思い、左手にはめてくれた直也くんへの私の思いが、私の中の“富”なのだろう)
スタッフの声が飛ぶ。
「リハーサル入りまーす!」
私はイヤモニを装着し、深呼吸をした。
目の前に広がる雪原――
その向こうに、あの“雲上の楽園”の廃墟が沈黙している。
この地で、私は「ありあまる富」を歌う。
あのとき、玲奈さんが松尾鉱山で口にしたあの曲。
――奪われたものの先に、まだ残る価値。
その意味が、ようやく少しだけ分かる気がする。
日本では過度にアーティストが政治的な発信をすると嫌われやすい。
だからもしこれがオリジナル曲であったなら直也くんも反対しただろう。
ただカバー曲を私らしく歌うのであれば意味がある。
それは受け止める側がどう解釈するのかの問題だから。
だから高田さんもこのミュージックビデオには反対しなかった。
フェスは夏の終わり、八月の開催を目指して動き出している。
でも今日は、その前哨戦。
この場所で撮るミュージックビデオが、その象徴になるのだ。
今回の撮影には五井物産の広報からも何人か来ていただいている。
現地の状況を全体的に確認する為に来ているという事だ。
でも本当にそばに居てほしかった直也くんはいない。
海外出張があるから。
その寂しさが逆に今この時にこの場所で歌うにはむしろ良いのかも知れない。
そういう表情になってしまうと思うから。
白い風が頬を打つ。
私は手を胸に当てて、ゆっくりと目を閉じた。
カメラのライトが点く。
雪原の向こう、太陽が沈みかけている。
“雲上の楽園”を背に、私はマイクに向かって一歩踏み出した。
そして、歌い出す。
冬の空に、息と音が溶けていく。
――「♪僕らが手にしている 富は見えないよ」
その歌声が、静寂の中に広がっていった。