エピローグ3:一ノ瀬保奈美
机の上に模試の結果用紙を広げた。
「水道橋女子大学・生活科学部 合否判定:B」
その文字を見つめながら、小さく息を吐いた。
(……まだB判定かぁ)
成績表の端には、全国順位と偏差値が並んでいる。
決して悪くはないと思う。けれど、A判定を取れてないのは現実だ。
もう高校一年生も終盤なのだから――。
「もっと頑張らないと……」
独り言のように呟いた瞬間、リビングのドアが開いた。
「ただいま」
直也さんの声。
「おかえりなさい」
慌てて結果用紙を伏せようとしたけれど、彼の目はすぐに気づいていた。
「それ、模試の結果?」
私は頷いて、用紙を差し出した。
彼はそれを手に取り、しばらく静かに眺めた後、ふっと笑った。
「……すごいじゃないか。まだ高校一年生時でB判定なんて、上出来だよ」
「でも……Aじゃないから……」
思わず唇を尖らせる。
「それでいいんだよ」
直也さんは優しく言った。
「高校一年で“まだ足りない”って思えるのは、たぶん一番大事なことだよ。
オレのときなんて、模試の結果より組み立てていたPCのベンチマーク数値のほうが気になってたくらいだから」
思わず笑ってしまった。
(……そういう話を聞くと、なんだか安心する)
直也さんは仕事帰りのスーツ姿のまま、リビングの椅子に腰を下ろした。
最近は本当に忙しそう。
でも、それでも――できるだけ早い時間に帰ってきてくれる。
私が勉強している時間に、リビングで資料を読んで、仕事をしていてくれる。
そんな穏やかな夜が、今ではいちばんのご褒美に思える。
「そうだ」
直也さんが立ち上がり、自室から何かを持ってきてくれた。
「これ、オレの高校時代のノート。東都大学受験に向けて勉強していた頃のものだよ」
差し出されたのは、キレイに保存されていたA4のノート数冊。
表紙には「英文解釈」「数学Ⅲ」「過去問演習」「模試復習」と書かれている。
ページを開くと、びっしりと詰まった手書きの文字。
直也さんらしい、整ったキレイな筆跡。
要点ごとに蛍光ペンのラインが引かれ、余白には補足メモや例文まで添えられている。
「これ……すごいね……」
私は息をのんだ。
英語構文の構造解析も、数学の論理構成も、全てが丁寧で、無駄がない。
でも同時に、驚くほど難しい。
(うう……これはさすがに、高一の私にはちょっと……)
それでも、ページをめくるたびに胸が熱くなった。
ここまで徹底して、自分の未来に向き合ってきた人。
そんな直也さんが、いま目の前で「大丈夫」と言ってくれる。
「……ありがとう。すごく嬉しい」
ノートを抱えながらそう言うと、直也さんは少し照れくさそうに笑った。
「いや、少し前のものだし。最近の受験で参考になるかは分からないけど、まあ“お守り”代わりにでもなればね」
私は強く頷いた。
「うん。お守りにするね」
ノートを胸に抱えたまま、ふと心の奥に温かい光が灯るのを感じた。
――きっと、これから先どんなに大変なことがあっても、
このノートを見れば、私はまた立ち上がれる。
直也さんの手書きの文字。
それはまるで、過去から届いた“励ましの手紙”みたいだった。
一つだけ言われた事は、模試で大切なのは、結果ではなくて、その模試で間違えていた部分、分からなかった部分を全て確認して、ノートに整理しておく事だった。
「模試は予備校側でも最も力をいれて作成するから、いわゆる良問が多いんだよ。だからそれをきちんと復習するだけで、出題頻度が高い問題での得点力が大きく向上すると思う。それでオレは復習用のノートを作っていたんだよね」
だから、私も模試の結果を気にせず、復習用のノートを作る事にした。
※※※
週末になると――
「約束があるから、今日は夜少し遅くなるかも知れない」
直也さんが、そんなふうに言うことがある。
私は笑顔で「うん、行ってらっしゃい」と答えるけれど、
胸の奥が少しだけ、きゅっと締めつけられる。
誰と、どんな約束なのか――聞いたことはない。
たぶん、莉子さんか、それ以外の誰か。
……そういうことなんだろうと、自然に分かってしまう。
でも、聞かない。
聞いたところで、私が辛くなるだけだし、辛くなると涙が出てきてしまう。
きっと直也さんを、困らせてしまうだけだから。
(……分かってる。直也さんは、そういう人だから)
直也さんには大切な人が増えて、
お仕事も、仲間も、夢も、どんどん広がっていく。
それは、私が誰よりも望んだ未来のはずなのに――
こんな日には“ぽつん”と小さな穴が少しだけ空いてしまう。
そういう日の夜は、机の引き出しから「奇跡のレシピ帳」を取り出す。
直也さんのお母さんが残してくれたレシピノート。
ページをめくるたびに、甘い香りと温かい記憶が蘇る。
「焼きリンゴ」「バナナケーキ」「鶏肉のポトフ」――
どのレシピにも、子どもの頃の直也さんがどういう反応だったのかが書かれている。
(今度は、何を作ってあげようかな……)
そのページを見ながら次はどんな料理に挑戦するかを考える。
そして、時計の針の音を聞きながら、ソファで小さく丸まって待つ。
玄関のドアが開く音がしたとき――
私は反射的に立ち上がって、廊下に駆け寄っている。
「おかえりなさい……!」
直也さんが少し驚いたように笑う。
「ただいま、保奈美」
その笑顔を見た瞬間、私は小さな子どものように、直也さんの胸に飛び込む。
スーツの香りと、外の冷たい空気が混じった匂い。
何も言わずに、ただ抱きつく。
ぎゅっと、強く。
直也さんは最初こそ戸惑ったように立ち止まるけれど、
すぐに、何も言わずに私の背中に手を回してくれる。
そしてその手のひらが、優しく髪を撫でてくれる。
(……これで、いいの。帰ってきてくれれば、それだけでいいの)
言葉はいらない。
ただ、この瞬間だけは、素直でいたい。
私はそう思いながら、
直也さんの腕の中で、静かに目を閉じた。